200.新しい明日へ
……そこで、2乗すると-1になる数「虚数」を定義しました。虚数は「i」と表記されます。
虚数とは、これまで取り扱ってきた実数と違い、大小関係のない想像上の数です。
「i」は「Imaginary number(想像上の数)」の頭文字です。
頭が痛い。
こめかみをぐりぐりと押しながら、強く目をつぶった。
大きく伸びをして、椅子にもたれかかる。
目の前のテキストを投げ出したくなる衝動を抑えるように、今度は額に手をやった。
全然意味がわからない。
想像上の数ってなんだ? 何で存在しないものの話が始まったんだ?
そもそも、こんな内容学校でやっていたっけ? 中学どころか、小学校からの復習が主だった気がするけど……。
回転椅子を回して、部屋の中を見回す。壁という壁に並んだ棚の中には、エアガンやプラモデル、ゲームソフト、漫画やライトノベルの文庫本が詰め込まれている。
乱雑にも見えるが、これでも片付いた方だ。エアガンはエアガンの棚に、プラモの箱はプラモの棚に収まっているし、床に置かれていた物も今はなくなっている。
ライトノベルの『Schicksal』シリーズや『エッグビースター』、漫画本の『女にモテてどうすんだ』、そしてノベルス版と漫画版が並べられた『超光の星剣士』。書棚も、きっちり巻数順で揃っている。
これだけ片付けるのも大変だった。懐かしいものが出てきたら、ついそれに浸りたくなってしまうし。
だけど、その誘惑も断ち切って、部屋も整理できたじゃないか。
そう言い聞かせて、大きく息を吐くと、また机に向かった。
少しずつでも、やっていくんだ。簡単に解決することなんてないって、僕は学んできたじゃないか。
気を取り直して、三浦英人はシャープペンシルを握った。
◆ ◇ ◆
英人がモウジ神国のあるあの世界から帰ってきて、二週間が経った。
あの白い光の中にヒロキ・ヤマダと一緒に入った次の瞬間、英人は自室のベッドの上にいた。
日付を確かめると7月1日の午前7時。「炎の相」を騙ったユーワン師と出会ったのは、7月1日の午前2時にベッドに入った後のことだったので、一晩ほどしか経っていないことになる。
長く、はっきりした夢だったのだろうか。
そう疑った英人は自分の右手の中に何かが握られていることに気が付いた。
(辛いことがあったら、連絡してくれよ。俺、これでも一応、向こうじゃ警察官だしさ――)
電話番号とメールアドレス、そして無料通話アプリのIDのかかれた紙片だった。
あの白い光の中で、ヒロキから手渡されたものだ。
別の世界の紙とインクで書かれた、この世界の文字列。それは、あの出来事がすべて夢ではなく、本当に経験したことだと英人に教えてくれていた。
それだけで、十分だった。あの現実を乗り越えたことを証明さえしてくれていたら。
英人は勉強机の、鍵のかかる引き出しの中に紙片をそっとしまい込んだ。
今はまだ連絡しなくてもいい。ここからは、僕の戦いだから。
(もう一度、高校に行きたい?)
起きたその足でリビングに英人は向かった。朝食をとっている両親と妹の前に姿を見せると、三人とも驚いた様子だった。学校を辞めてから、英人が朝早く起きてくることはなくなっていたから。
英人が「お話があります」と改まった口調で告げ、もう一度高校に行きたいことを話すと、両親はさらに驚いた様子だった。
(好きにしたらいい)
引きこもり続けているよりはマシだ、と父親は言った。驚いた様子ではあったが、詳細を聞くこともせずに出勤していった。帰ったら話を聞く、という言葉さえない。興味がないのかもしれない。
(本当に大丈夫なの?)
一方の母親は心配そうに言った。前の学校を退学してから一か月ほどしか経っていない。また同じことになるのでは、とそちらを不安がっているようだった。
(夏の間に頑張って、二学期から編入出来たらいいかな、って。もしそれがダメなら、定時制高校で、って思ってて……)
このプランは、英人だけで考えたものではない。
モウジ神国にいた頃、エッタから言われていたことだ。
――あなた、元の世界に戻されたら、どうするんです?
まだ神殿にいた頃だったので、英人は「そんなことが起こるのか」と懐疑的だった。
――ずっとここにはいられませんよ。300年前は勇者だって還されてしまったのですから。
今から思えば、あの時すでにエッタは知っていたのかもしれない。「大地の相」が、英人たちを元の世界へ還そうとしていることを。
高校くらいは出ていた方がいい、ともエッタは言った。英人もそうは考えていたが、具体的にどうするかまでは調べる気力もまだなかった。
――わたくし、前世では飲食チェーンの店長でしたけど、アルバイトの子で定時制の高校に通いながら働いていた子もいましたわ。そういう道もありますけど。
その時、英人は目を開かされた気持ちだった。普通高校だけが高校だと思っていたが、そちらに視野を広げてもいいかもしれない。
ただ、今はもう一度チャレンジしてみたい気持ちもあった。
これは、リオットでの戦いを乗り越えた中で生まれたものだ。
自分のできる限りをやって見せたい。あの時の、空飛ぶ絨緞のように。
(ちゃんと考えているのね)
母親は異論を挟まなかった。何か感じ取るものがあったのかもしれないし、出勤の時間が迫り、面倒くさかっただけかもしれない。
(何今更頑張ろうとしちゃってるわけ?)
最後に残った妹は、両親の目がないからか辛辣に兄にそう言った。
(半年以上遅いんじゃないの、頑張るの)
英人の妹は私立の中高一貫校に通っている。中学受験を勝ち抜いた後、学年でもトップの成績を維持し、高校は国立大学を狙う特進クラスに進学できるだろうと言われている。
早々に落ちこぼれた兄の分まで頑張り続けている妹の言葉は、英人の心に深く突き刺さった。
(……その通りだと思う)
英人はその刃を受け止めた。うなずいた兄に、妹は少し怯んだ様子だった。
(それでも、これから頑張るから)
妹は「うん」とだけ言って、学校へ行った。
家に一人になった英人は、まず自室の掃除から始めることにしたのだった。
◆ ◇ ◆
「勉強、進んでるか?」
「うん……」
夕ご飯の食卓で父親に問われ、英人はそううなずいた。
この二週間ほど、両親は早く帰ってきて英人と食卓を囲む頻度が増えた。単に仕事の関係なのか、新しい道を進もうとする息子の様子が気になるのかは、はっきりとわからないが。
妹はこの場にはいない。彼女の学校は毎日八時限目まで授業で、帰りが遅いのだ。
虚数は何とか理解できた、ように思う。目に見えない概念的な話は、エッタの魔法理論で慣れていたお陰かもしれない。
「そうか」
父親も口数の多い方ではないので、ここで会話が終わってしまう。食卓の雰囲気が重くなったのを見かねてか、母親が口を開いた。
「そう言えば、前の学校の、ジンノくんって子知ってる?」
え、と英人は母親の方を見やった。
「知ってる、けど……」
「行方がわからなくなってたのが、見つかったみたいよ」
「え、あ、そ、そうなんだ……」
心臓が妙に早く動いているのがわかった。英人はそれが両親に聞きとがめられるのではないか、と恐れるように少し目を伏せた。
「母さん」
「意識が戻らないって、うちの病院に運ばれてきてね」
父親は英人を一瞥してから重ねて妻に呼びかけた。
「母さん、前の学校の話はいいじゃないか。英人は次の道を探してるんだから」
父親は、忌まわしいものの話をするな、と言わんばかりにかぶりを振った。
「英人も、もう前の学校のことは忘れるんだ。次に進むんだろ」
「う、うん……」
そうは言っても、気にしないわけにはいかなかった。
ほかならぬ、アドニス王国の偽勇者タクト・ジンノ――そして、神野拓人のことなのだから。
日差しがまぶしい。
青い空を見上げて、英人は顔をしかめた。
この世界に帰ってきてから、初めての外出だった。
夏の色をした空はどこまでも青く、白い雲がゆっくりとたなびいて流れていく。
強い照り返しと、もわっとした湿気のあるアスファルトの道は、乾燥した砂漠の国とは違った暑さがある。
ガードレールの向こうの茂みから漂う草生した臭いの中、英人は母の勤める病院への道を歩いていた。
拓人の行方がわからなくなったのは、およそ三週間前のことだった。
それが、二週間ほど前の朝、自宅のベッドで寝ているところを発見されたそうだ。
ただ、それから目を覚ますことがなく、昏々と眠り続けているという。
医学的に異常がないにも関わらず目を覚まさない患者のことは、病院の中で噂になっているらしく、それが病院事務をしている英人の母の耳にも入ったようだ。
二週間前と言えば、英人が世界を行き来した時期と合致している。もしかすると、「大地の相」が英人やヒロキを還したのと同じように、拓人もこちらの世界に戻したのだろうか。
ただ、拓人はあの世界で死んでしまったという。目を覚まさないのはそのせいかもしれない。
古い家や竹藪の並ぶ区画から住宅街を抜けて、英人は病院の裏口に辿り着いた。
汗で貼りついたTシャツをぱたぱたと扇いで風を入れ、ふうふうと息を吐く。拭っても拭っても、汗が額から滴ってくる。
警備員の詰所で尋ねると、面会の申し込みは受付に行くよう案内された。病院の中は冷房が効いていて、生き返った心地になる。
広い待ち合いを見回すと、右手の方に総合受付の看板が見えた。
「どうされました?」
母親がいるかもしれない、と少しビクついたが、応対に出たのは若い女性事務員だった。名札には「江利沢」とあった。
「あの、神野拓人くんの、面会で……」
そうなんですね、と江利沢はうなずくと、クリップボードに挟まれたリストに名前を書くように促した。
「神野くんのお友達?」
「あ、はい……、そんなとこです」
名前を書きながら英人は応じた。
「ずっと眠っているのよ、あの子。だから、お話はできないかもね」
「そう、なんですね」
ボールペンを置いて顔を上げた英人に、江利沢は「面会者」と書かれたネームホルダーを出してきた。受け取って英人はそれを首からかける。
「君は、彼とすごく仲が良かったの?」
頭を下げて行こうとした英人は、不意にそう問いかけられて立ち止まった。
「どう、ですかね……」
何故そんなことを聞くのだろう、と不思議に思いながら英人は応じる。
「そう、だったら、よかったのかもしれません……」
「含みのある言い方……、複雑な関係かしら?」
ニヤリと江利沢は笑った。
「二週間になるけれど、初めてよ。ご両親以外が面会に来たの」
「そ、そうなんですね」
「お友達が来たから、目が覚めるかもね」
友達、か。何かもやもやしたものをぶら下げられたような心持ちで、英人はエレベーターへ向かった。
神野くんだって、自分の身を守らないといけないって思ったんだろうし。もし、神野くんの方がいじめられていたら、僕だって同じことをしないとは限らない――。
いつだったか、英人はエッタにこう言った。
これは強がりでもなんでもない、英人の本心からの言葉だった。学級がそういう「システム」で成り立っているのは嘆いても仕方のないことであるし、裏切られたと殊更に騒ぎ立てるほどには、彼も子どもではないつもりだから。
ただ、そう言えるのは、二度と拓人に会わないからでもあった。
彼は異世界で死んでしまって、永遠に英人の目の前に姿を現さない。だからこそ言える言葉でもあったのだ。
それが、昏睡状態とは言え同じ世界で生きているとなれば、話は違ってくる。
無論、父親が言うように、新しい道に踏み出そうとする英人なのだから、忌まわしい過去は置き去りにしてしまってもよかったはずだ。
それでも、今日ここに会いに来た。会う必要があると思ったのだ。
低くうなって上昇していくエレベーターの中で、英人は鏡を見つめる。
アマヌス様なら、どうしただろう。
その問いは、拓人が入院していると聞いた時から、英人の頭の中をぐるぐると回っている。
英人が「予言の賢者」ではなかったと知っても、「出会ったことが素晴らしい」と言ってくれたアマヌスならば、王位を争っていた甥の前に立ち、凶刃を受け止めて死んだアマヌスならば、こんな時どうしただろうか。
きっと、あの人なら会いに行くのだろう。会いに行って、昔のことは気にするなよと声を掛けるだろう。
「アドニス王国はどうだった?」って、「王女様はアルミスに似ていた?」って。「僕も、別の国だけど、異世界に呼ばれたんだよ」って。
そして言うのだ。
エレベーターが停まって、英人はドアの方を振り向いた。
今度は本当に友達になろう、って。
白い廊下を進んだ先、教えられた個室の中で、神野拓人はベッドにその身を横たえていた。
病室には彼一人きりだった。枕もとのサイドボードの上には、彼の両親が着替えを入れてきているのだろうか、見覚えのある鞄が置かれている。
鞄からぶら下がったラバートラップを見て、英人の頬は少し緩んだ。
そうだった。遠足の帰りにこのラバスト、『超光の星剣士』の「超光の紋章」を見て、僕は話しかけたんだった。
「神野くん」
ベッドの横の丸椅子に腰かけて、固く目を閉じた拓人に英人は呼びかけた。
「アドニス王国は、どんな国だった? 僕も同じ世界に召喚されたけど、モウジ神国って言ってさ、砂ばっかりの国で大変だったよ」
拓人は身じろぎもしない。
「女の子とパーティを組んで戦ったんだろ? 冒険者としてさ。ちょっとうらやましいな。僕はそういうのなかったし、女の人も怖い人ばっかりだったから……」
返事も返ってこない。
「神野くん、偽勇者って呼ばれて、失敗しちゃったんだってね。僕も、偽の賢者だったよ。でもね、たくさんたくさん、大事なことを教えてもらえた気がするんだ」
英人は、掛布団から少し出ている拓人の肩に触れた。
「だからね、神野くん。還ってきた者同士、今度は本当に友達になろうよ。『超光の星剣士』みたいに上手くはできなかったけど、この世界でまだ一生は続いていくからさ」
チートはなくても、一緒にこの先を行こうよ――。
そう呼びかけた時、拓人の肩から何か動いたような感触が伝わってきた。
「――!」
慌てて手を離し、英人は拓人の顔を覗き込む。
固く閉じられていた目蓋が、ゆっくりと開いていくところだった。
<チート持ち主人公の噛ませ犬にされた男の一生 外伝 了>
ここまで読んでいただきありがとうございました。
もうやり残したこともないと思うので、これにて正真正銘の完結でございます。
(2021.07.24 記)




