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刻まれた歴史


 第五層は、それまでの層とまるで違っていた。


 石の回廊ではない。水もない。熱もない。闇もない。


 広い空間に、白い石柱が整然と並んでいた。天井が高く、どこからか柔らかい光が降り注いでいる。光源石とは違う、温かみのある光。床には模様が刻まれていて、幾何学的な紋様が壁から壁まで途切れなく続いている。


 神殿だ。古代の神殿跡。


「……きれいだな」


 ニーカが盾を下ろして、きょろきょろしている。戦闘態勢が解けたのは迷宮に入って初めてだ。この空間に敵意がないのを、体が感じ取っているんだろう。


「壁に文字がある」


 リーゼが石柱の一本に近づいた。表面に細かい文字がびっしりと刻まれている。古代文字。ハインツの文献と同じ書体だ。


「読めるか、リーゼ」


「全部じゃないけど——大部分は読める。魔法学の古典に出てくる文字体系と同じだから」


 リーゼが指で文字を追いながら読み始めた。ヴァルドたちも近くに来ている。全員が、石柱の文字に釘付けになっていた。


「『我ら調律者は、世界の魔力を安定させるため、制御の仕組みを構築した』」


 調律者。ハインツの文献に出てきた言葉だ。


「『全ての生命に数値を与え、その数値に応じて魔力の容量を管理する。数値が上がれば容量が増し、より大きな力を扱えるようになる。これを我らはレベルと名づけた』」


 レベル。やっぱり、作られたものだったのか。


「『レベルは魔力の制御装置であり、世界の安定を維持するための道具である。人の価値を測るものではない』」


 人の価値を測るものではない。


 この一文を聞いた時、後ろでヴァルドが小さく息を吐いた。何かを呑み込むような息だった。


「続けてくれ、リーゼ」


「『しかし我らは懸念する。数値は可視であるがゆえに、いずれ人はこれを価値の指標とするだろう。力の大小を数値で示せば、数値の高い者が上に立ち、低い者が下に置かれる。制御の道具が、支配の道具になる日が来るかもしれない』」


 来た。実際に来た。今この世界がまさにそうなっている。


「『その日に備えて、我らは安全弁を設計した。レベルの制御から外れた存在。経験がレベルではなく物質に流れる者。レベルに縛られない力を持つ者を、世界に組み込んだ』」


 俺の体質だ。


 聞いていた全員が、俺を見た。


 ヴァルドが、ドルゴが、ファーナが。ニーカが、リーゼが、セリアが。


「『この者を例外体と呼ぶ。例外体は、レベルの仕組みが世界を歪めた時、仕組みの外側から修正する力を持つ。例外体の手が触れた物には、レベルを介さず力が宿る。これは制御の外にある力であり、いかなるシステムにも抑制されない』」


 いかなるシステムにも抑制されない。


 だからこの迷宮の中で、俺だけがレベルの抑制を受けなかった。俺の装備の蓄積値も影響を受けなかった。設計上、そうなるように最初から作られていた。


「『例外体は世界に極めて少数しか現れない。現れた時、それはレベルの仕組みが修正を必要としている証である』」


 リーゼが読み終えて、石柱から手を離した。指が震えている。


 ……長い沈黙。


「……ラグ」


 セリアが俺の隣に来た。


「ラグの体質は——バグじゃなかった」


「ああ、仕様だ。最初から組み込まれていた」


「安全弁……世界を直すための」


「……そうらしい」


 自分の手を見た。


 この手……毎朝装備を磨いて、仲間の武器を育てて、経験値を染み込ませてきた手。


 この手は、世界を直すために存在している。


 大袈裟だ。大袈裟すぎる。俺はただの装備師だ。毎日手入れをして、仲間の装備を少しずつ良くしているだけの人間だ。


 でも、古代の調律者は、その「だけ」を世界に必要なものだと考えた。


「……重いな」


「重い?」


「世界を直すとか言われても、俺はこの手で装備を磨くしかできないんだから。やることは変わらない」


 セリアがちょっとだけ笑った。


「それでいいんじゃない? ラグはラグのやり方でやればいい。世界がどうとか、システムがどうとか——ラグが毎日手入れしてくれてるのは、世界のためじゃなくてわたしたちのためでしょ」


「……ああ、お前たちを守るためだ」


「うん……それでいいと思うよ」



    ※



 ヴァルドが石柱の前に立って、長い間動かなかった。


 やがて背を向けて、こっちに歩いてきた。


「ラグ」


「はい」


「レベルは——人の価値を測るものではない、か」


「古代の文字はそう言ってます」


「ずっと信じてきたものが、道具に過ぎなかったと言われた気分だ」


「……すみません」


「謝るな。これは、本当にあったことなんだ」


 ヴァルドが自分の手を開いて、握り締めた。


「俺のレベル78は——ここでは意味をなさない。第四層であれだけ体が重くなって、この第五層に来たらもっと酷いだろう。俺は自分のレベルに依存してきた。レベルがなくなったら何が残るのか、考えたことがなかった」


「何も残らないわけじゃないです。ヴァルドさんの十年分の経験と技術は、レベルとは関係なくヴァルドさんのものだ」


「お前に言われると皮肉に聞こえるな。レベル1で、最初から自分の力だけで戦ってきた人間に」


「皮肉じゃないです。本当のことです」


 ヴァルドが微かに笑った。苦いけど、少しだけ晴れた顔だった。


「この記録を持ち帰れば、世界が変わるかもしれないな」


「変わると思います。レベルシステムが人工的な仕組みだと証明されれば——レベルだけで人を評価する制度の根拠が崩れる」


「崩れた方がいい。俺は四十年かけて、ようやくそう思えるようになった」


 ヴァルドが俺の肩を叩いた。重い手だった。



    ※



 記録室の奥を調べた。壁面にさらに多くの古代文字が刻まれている。リーゼが全部書き写すには時間が足りないから、重要な箇所だけ手帳に記録した。


 レベルシステムの構造。調律者の意図。例外体の設計仕様。この迷宮がシステムの「管理領域」であること。深い層ほどシステムの影響が薄まる理由。


 全て記録した。これをギルドに持ち帰れば、エルマの報告書にとどめの一撃を加えられる。


「ラグ、ここ見て」


 リーゼが奥の壁の一箇所を指した。他の文字より大きく、丁寧に刻まれた一文。


「『我らの願いは、この世界が数値ではなく、行いによって人を評価する世界であることだ。安全弁が作動する日が来ないことを祈る。だが、もし来たなら——例外体よ、お前の手を信じろ。お前の手が触れたものは、全て、正しい力を得る』」


 しばらくの間、俺は言葉が出なかった。


 いままでずっとレベル1で、どこにも自信が持てなかった自分が……例外体だったなんて。


「……ラグ、泣いてる?」


 セリアの声。


「泣いてない」


「目、赤いけど」


「光のせいだ」


「嘘。——でもいいよ。泣いてても」


「泣いてないって」


 泣いてない。泣いてないけど、目の奥が熱い。


 この手を信じろ。ずっと信じてきた。レベル1で、F級で、追い出されても——この手だけは否定されたくなかった。


 だからこれからも、先に進む。この神殿の奥に、迷宮の守護者が待っている。最後の戦いの前に、一つだけ確認しておきたいことがある。


 仲間を見回した。


 セリア、ニーカ、リーゼ。ヴァルド、ドルゴ、ファーナ。


 俺の手を信じてくれている人たちが、ここにいる。


「行こう。最後だ」

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