二枚目の脱退届
「銀翼の剣」の宿舎は静かだった。
前からそうだ。ラグが抜けてからずっと、この宿舎は静かになった。B級に降格して安い宿舎に移ってからはなおさら。会話が減って、一緒に飯を食う回数が減って、依頼の前後に交わす言葉も必要最低限になった。
リーゼは自室の机に向かって、一枚の書類を見つめていた。
パーティ脱退届。ギルドの窓口でもらってきた。まだ白紙だ。
あの森での再会から、二週間が経っている。ラグに体質のことを聞いて、ザックが暴走して、一瞬で叩きのめされて。あの日からザックは部屋に閉じこもっている。依頼にも出なくなった。斧を壁に立てかけたまま、触ろうとしない。レベル1に弾き飛ばされた記憶が、ザックの中の何かを折ったんだろう。
ヴェルトは依頼を続けている、一人で。B級の依頼を一人でこなすのは厳しいから、ギルドで臨時のメンバーを雇って凌いでいるらしい。リーゼには何も言わない。リーゼも何も聞かない。
パーティとしてはもう機能していない。三人いるのに、三人ともバラバラだ。
リーゼはペンを取った。
脱退届に名前を書く。所属パーティ「銀翼の剣」。脱退理由の欄で手が止まった。
理由……何と書けばいいのか。
「パーティが機能不全に陥ったため」? 間違ってはいないけど、それだけじゃない。
本当の理由は、もっと前からある。
査定の日――ラグが追い出された日。
あの日にリーゼは口を閉じた。何か言おうとして、言えなかった。ヴェルトとザックの空気に流されて、黙った。
あの日から、リーゼはずっとこのパーティにいる理由を探していた。見つからなかった。三年間ラグが支えていたパーティの強さを、リーゼだけは数字で理解してしまった。その上で何もしなかった。何もできなかった。
もう流されない。
脱退理由の欄に書いた。「一身上の都合」。
※
リビングにヴェルトがいた。テーブルに座って、依頼報告書を書いている。
「ヴェルト」
「ん?」
「私、パーティを抜ける」
ヴェルトのペンが止まった。
顔を上げて、リーゼを見た。驚いた顔はしなかった。
「……そうか」
「引き止めないの?」
「止める理由がないだろ」
分かっていた、という声だった。
「お前はずっと、ここにいるべきじゃないと思ってたんだろ。ラグの件で」
「……うん」
「俺が気づかなかったわけじゃない。お前が二回も進言してきた時、分かってた。ラグの手入れに何かあるって、お前の言う通りだったんだろうなって。——でも、認めたくなかった」
ヴェルトはペンを置いた。
「認めたら、三年間の全部が嘘になる。俺たちがA級だったのは、ラグのおかげだった。俺たちのレベルは見せかけの強さを保証してただけで、中身はラグが支えてた。——それを認めたくなかったんだ」
リーゼは黙って聞いていた。ヴェルトがこんなに長く話すのは久しぶりだった。
「お前を引き止める資格は俺にはない。行けよ、リーゼ。お前はもっと、前に出るべきだった」
「……ヴェルトは、どうするの」
「俺はここに残る。ザックも——まあ、しばらくは。立て直せるかどうかは分からないけど、逃げるわけにはいかない。俺が作った状況だからな」
逃げるわけにはいかないとは、ヴェルトらしい。
不器用で、見栄っ張りで、でも責任感だけは本物だ。
「……ヴェルト。ラグのこと、恨んでる?」
「恨んでない。恨む筋合いがない。あいつは、最初から、何も悪くなかった」
リーゼはそれを聞いて、少しだけ安心した。
「じゃあ——行くね」
「ああ、達者でな」
振り返らなかった、ラグと同じだ。
この宿舎を出る人間は、振り返らない。
ザックの部屋の前を通った。ドアは閉まっている。中から物音はない。声をかけようか迷って、やめた。今のザックに何を言っても届かない。いつか——ザックが自分の足で立ち上がった時に、改めて話せばいい。
※
ギルド本部、窓口。
脱退届を出した。受付に座っていたのはエルマだった。
エルマが脱退届を確認する。
所属パーティ「銀翼の剣」。目が一瞬止まったけど、すぐに処理を始めた。
「パーティ『銀翼の剣』、脱退届の受理ですね。処理いたします」
「お願いします」
エルマが判を押している間、リーゼは窓口の向こうを見ていた。エルマの机の引き出し。あの中にラグの記録が入っているんだろうか。
「処理完了です。本日付で、リーゼさんの等級はパーティ等級ではなく個人等級として再査定されます。現在のレベルに基づいてD級に分類されます」
「D級……」
「レベル44ですので」
A級パーティにいた時はA級の恩恵を受けていた。パーティを離れたら、自分のレベルに見合った等級に戻る。レベル44ならD級。A級からD級への落差は大きいけど、これが自分の本当の場所だ。
「ありがとうございます」
窓口を離れようとした時、エルマが小さな声で言った。
「リーゼさん」
「はい」
「……頑張ってください」
事務的な声じゃなかった。エルマの個人的な声だった。
「ありがとうございます」
※
その日の夕方。
安宿に戻って装備の手入れをしていたら、宿の親父に「客だ」と呼ばれた。
食堂に降りると、リーゼが立っていた。
「……リーゼ?」
「久しぶり。——でもないか。二週間ぶり」
あの森での再会以来だ。
リーゼは杖を持っていた。三年間使い続けてきた、触媒結晶を嵌めた魔法杖。
「パーティ、抜けたの?」
セリアが横から声をかけた。
リーゼがプレートを見せた。
パーティ表記がなくなっている、個人登録のものに。
「今日付けで。D級のソロになった」
「そっか」
「ラグに、一つだけお願いがあって来た」
「何だ?」
リーゼが杖を差し出した。両手で、丁寧に。
「私の杖を——手入れしてもらえない?」
一瞬、何を言われたか分からなかった。
リーゼの杖。三年間、俺が毎朝磨いていた杖。光に透かして結晶の曇りを確認して、布で拭いて。あの頃は「雑用」だと思っていた。ただの手入れだと思っていた。
でも今は知っている。あの手入れで、杖に経験値が染み込んでいたことを。リーゼの魔法が強かったのは、半分はこの杖に蓄積された俺の経験値のおかげだったことを。
リーゼも知っている。知った上で、この杖を俺に差し出している。
「……いいのか。俺が触ったら、また経験値が入るぞ」
「それでいい」
「借り物の力になるかもしれない」
「ならない」
リーゼの声は、はっきりとしていた。
「前は知らなかった。ラグの手入れに何が起きてるか、誰も知らなかった。でも今は知ってる。知った上で、自分の意志でお願いしてる。借り物じゃない。——信頼して、託すの」
……参ったな。
「分かった」
杖を受け取った。
手に馴染む。三年間、毎朝触っていた感触が手のひらに蘇ってくる。触媒結晶の表面を指で確認する。少し曇っている。手入れが行き届いていない。リーゼは自分なりに手入れしていたんだろうけど、俺ほど細かくは見れなかったんだろう。
布を取り出して、結晶を磨き始めた。光に透かして、曇りを確認して、丁寧に拭く。三年前と全く同じ手順で。
リーゼが椅子に座って、俺の手元を見ていた。
しばらくして、リーゼの肩が小さく震えているのに気づいた。声は出していない。顔を伏せて、唇を噛んで、泣いていた。
何も言わなかった。声をかける方が残酷だと思った。
杖の手入れを続けた。結晶を磨き終えて、柄の状態を確認して、全体を布で拭き上げた。
「——はい。終わった」
リーゼが顔を上げた。目が赤い。でも涙は拭いてあった。
「ありがとう」
「いつでも持ってきてくれ。手入れくらいならいつでもする」
「……うん。ありがとう、ラグ」
リーゼが杖を受け取って、立ち上がった。
「ソロでやっていくのか」
「うん、自分の足で。——もう流されないって決めたから」
「リーゼなら大丈夫だよ。実力はある」
「……ラグにそう言ってもらえると、ちょっとだけ自信出る」
リーゼが小さく笑った。
「じゃあ、また」
「ああ、また」
リーゼが食堂を出ていった。
セリアが隣にいた。ずっと黙って見ていた。
「……ラグ」
「ん?」
「いい人だね、リーゼさん」
「あいつはまともだったよ、最初から」
「うん。——ラグが手入れしてる時、すごい泣いてた」
「知ってる」
「声、かけなかったね」
「言葉より手入れの方が伝わると思ったから」
セリアがしばらく俺の顔を見つめてから、ふっと笑った。
「ラグってさ、不器用なのか器用なのか分かんないよね」
「どっちだと思う?」
「どっちも。——そういうとこが、いいんだけど」
またさらっと来た。こいつの「いい」とか「好き」はいつも不意打ちだから心臓に悪い。
「装備の手入れに戻るから」
「はいはい。逃げた」
逃げてない。戦略的撤退だ。
新しい剣を取り出して、手入れを再開した。蓄積値ゼロの山岳鉄。まだ何も染み込んでいない、まっさらな相棒。
リーゼの杖を手入れした時、指先にあの感覚が戻ってきた。三年前と同じ手順で、三年前と同じ杖を磨く感触。変わったのは——あの頃は知らなかった意味を、今は知っていること。
俺の手入れには力がある。装備を育てて、人の力になる力が。
その力を、もう知らないふりはしない。




