開いたことのない扉
山腹の古代聖堂が目を覚ましてから、聖典国ルミナリアの夜は静かではなかった。
一般信徒は山道の外側に設けられた礼拝区画まで下げられ、聖騎士と警備兵が石段の入口を封鎖している。
その内側では古代技術管理局の職員たちが計測器を抱えて何度も往復し、聖堂の外壁を走る淡い光を記録していた。
数百年にわたり沈黙していた建造物が、夕暮れを境に突然動き始めたのである。都市の広場では祈りの声が途切れず、聖域が再び神意を示したのだと涙を流す者までいたが、現場へ近づくほど雰囲気は現実的になった。
崩落に備えて退避路を確保する者、魔力圧を測る者、上層構造の振動値を読み上げる者が忙しく動き、神聖さよりも事故を起こさないための緊張の方が強かった。
カイは外周柵の内側から聖堂を見上げていた。シアと出会った施設とも、ヴァレナが現界した軍事遺跡とも似ている部分はあるが、魔力の流れ方が違っている。
過去の2施設では地下深くから起動が始まり、そこから周辺設備へ力が広がっていた。目の前の聖堂では逆に、下層から上層へ魔力が吸い上げられ、巨大な壁面と尖塔のような上部構造へ集中している。夜空へ向かって何かを伸ばしているようにも見えた。
「前のより、上がうるさい」
シアは石畳へ片膝をつき、掌を地面へ当てたまま言った。灰銀色の髪が夜風に揺れ、金色の瞳は聖堂ではなく足元を見ている。
「上がうるさいって、どういう意味だ」
「下も動いてる。でも高いところの方が、いっぱい動いてる」
ヴァレナが聖堂の上部へ視線を向けた。赤褐色の長髪を高い位置でまとめ、黒と赤を基調にした旅装の上から簡易外套を羽織っている。赤金色の瞳が、壁面を走る発光線の順序を追った。
「軍事遺跡では、起動と同時に防御区画と外部兵装へ魔力が分配されていました。ここではそれが見えません。上部の環状構造へ出力が集中しています」
「兵器じゃない?」
「少なくとも、主目的は別でしょう」
少し離れた場所で話を聞いていたセヴェルが近づいてきた。カイはすでに、彼の目が人の表情を拾う時だけ妙に静かになることを知っていた。
「宗教側としては、兵器ではない方がありがたいですね」
「監察司祭としては?」
「どちらでも仕事が増えます」
「夢がないな」
「信仰と落石は別問題ですから」
近くでは高位聖職者と古代技術管理官が言い争っていた。白と金の長衣を着た年配の聖職者は、数百年沈黙していた聖域がこの夜に限って動き出した以上、神意と考えるのが自然だと主張している。一方、紺色の作業外套を着た技術管理官は、内部動力系の再起動が確認できる以上、原因不明の技術現象として扱うべきだと譲らない。
「神意でなければ、なぜ今夜なのです」
「分からないから調べているのです。原因不明と神意は同義ではありません」
2人の声が少しずつ強くなったところで、セヴェルが横から穏やかに口を挟んだ。
「では、神が機械を使っている可能性はありませんか?」
両者が同時に黙った。
聖職者が眉をひそめる。
「アーデン監察司祭、それは神学上の比喩ですか?」
「いいえ。議論を整理しているだけです。神意であることと、機械的機構であることが両立しないと証明されたわけではないでしょう?」
技術管理官まで困った顔になる。
「機構の分析と神学的解釈は、分けて扱うべきです」
「では、1つ整理されましたね。今は機構を止める方法を調べ、神意かどうかは後で議論できます」
それだけ言うと、セヴェルは何事もなかったようにカイの隣へ戻ってきた。
「お前、絶対に面白がってるだろ」
カイが小声で言う。
「議論が進んだでしょう?」
「両方が嫌がる言い方を選んだだけじゃないか」
「停滞した場では、刺激も必要です」
「性格が悪いな」
「その評価は昨日から一貫していますね」
セヴェルの口元には薄い笑みが残っていた。本人は否定する気がないらしい。
扉が開く前から、聖堂の上部構造ではいくつかの変化が起きていた。ヴァレナは外壁へ近づきすぎない位置から魔力の流れを追い、シアは地面へ手を当てたまま、振動が強まるたびに指先を動かした。2人が別々の感覚で同じ施設を見ていることに気づき、カイは「何か変わったら先に言え」とだけ伝えた。最近決めた簡単な連携方法が、戦闘ではない場面でも自然に使われ始めている。
「上の環、1つ止まった」
シアが言う。
「こちらでも確認しました。停止ではなく、待機状態へ移ったようです」
ヴァレナが続ける。
技術管理官が驚いたように2人を見る。
「測定器より早いですね」
「シアは振動、ヴァレナは魔力の流れを見てる。俺は何も見えてない」
カイが答えると、セヴェルが横から言った。
「それでよく中心人物になりますね」
「好きでなってると思うか?」
「そこが面白いのです」
「また言ったな」
セヴェルは笑いながら、聖堂よりも3人のやり取りを観察していた。その視線に気づいたヴァレナが
「何か?」
と聞くと、彼は
「いえ、命令ではなく情報共有で動いているのだと思いまして」
とだけ答えた。カイには、それも聖地調査とは別の観察項目に加えられたように感じられた。
その時、聖堂内部から低い振動が響いた。石が崩れる音とは違い、巨大な歯車が何段階も噛み合っていくような重い駆動音だった。礼拝区画に集まっていた信徒の祈りが一瞬止まり、警備兵が一斉に構える。正面の巨大門は動かなかったが、その右側にある滑らかな壁面へ細い光が集まり、人が3人ほど並んで通れる大きさの長方形を描き始めた。
「そこ、扉だったのか?」
カイが尋ねる。
技術管理官が駆け寄り、記録板を見比べる。
「構造線そのものが記録にありません。少なくとも現存する管理記録では、建国以前から1枚の壁として扱われています」
「じゃあ今できた?」
「そんなはずは……」
言葉が終わる前に、光で縁取られた部分が数センチ奥へ沈み、左右へ滑るように開き始めた。摩擦音も埃もない。長年閉じていたはずの内部から流れてきた空気には黴臭さすらなく、ひんやりと澄んでいた。
警備側はすぐには誰も入れなかった。棒状の測定器を差し込み、毒性、魔力濃度、温度、圧力を順番に確認する。
「危険値はありません。内部照明らしき反応があります」
聖職者が胸元の聖印へ触れる。
「聖域が自ら門を開いた……」
「まだ何のための扉か分からないだろ」
カイが言うと、セヴェルが横で小さく笑った。
「その言い方を嫌うのですね」
「選ばれただの導かれただのは、ろくなことにならない」
「経験談ですか?」
「最近な」
扉の上部へ古代文字が浮かび上がった。技術管理官が複数の既知資料を照合しながら読み取る。
「完全な翻訳はできませんが、《待機》《対象》《認証》に近い語が繰り返されています」
「認証対象を待っている?」
「その可能性があります」
年配の聖職者が息を呑む。
「選ばれた者を求めているのでは」
カイは額を押さえた。
「だからその言い方をやめてくれ」
「私はまだ何も言っていませんよ」
セヴェルが言う。
「お前も似たこと考えてる顔してる」
「顔に出ています?」
「今日はお前の方が出てる」
「それは失礼しました」
開いた先には幅の広い通路が伸びていたが、数十メートル先で別の壁に閉ざされており、測定器を近づけても反応はなかった。施設側は夜間の強行探索を避け、翌朝に限定要員で第1封鎖区画まで確認することを決めた。カイたちは本来、外周から過去の施設との類似点を説明するだけの立場だったため、ここで帰っても問題はない。
山を下りる前、ミナが候補生隊の側からこちらへ来た。淡いアッシュブラウンの髪を低い位置でまとめ、白い短外套の下には非常警戒用の軽装鎧を着けている。青緑色の瞳は開いた扉を見ていたが、カイへ向くと少しだけ苦笑した。
「また巻き込まれてますね」
「俺が巻き込まれてるのか、向こうが寄ってきてるのか分からなくなってきた」
「明日も来るんですか?」
「入口までな」
「その言い方、昨日も聞いた気がします」
カイは嫌な顔をした。
「やめろ。不吉だ」
ミナが候補生隊へ戻った後、セヴェルが開いた扉を振り返った。
「あなたがこの都市へ来た日に、数百年開かなかった扉が開いたのは出来すぎていると思いませんか」
「俺は何もしてない」
「そこが面白いのです」
カイは足を止める。
「今、面白いって言ったな」
「言いました」
「隠さなくなったな」
「隠してもあなたは疑うでしょう?」
「だからって認めるなよ」
セヴェルは少しだけ肩を揺らして笑った。
「明日も来ていただけますか。内部へ入れとは言いません。入口までで結構です」
「まだ頼まれる前から嫌な予感しかしない」
「断ります?」
カイは聖堂を見上げた。シアもヴァレナも、同じように光る壁面を見ている。放って宿へ戻ったところで、結局気になるのは分かりきっていた。
「入口までだぞ」
「ありがとうございます」
「嬉しそうだな」
「さて、何が起きるのでしょうね」
監察司祭の声には、警戒だけでは説明できない期待が混じっていた。カイはそれを聞きながら、この男を近くへ置いている方が聖堂そのものより面倒なのではないかと思い始めていた。




