第98話:福音の揺りかご
不夜城ラスベガスの狂騒が終わり、日本。
乱菊の所属チームが管理する専用調整施設――エデン・ラボは、高精細なモニターの青白い光と、微かな機械油とオゾンの匂いに満たされていた。
ラボの中央には、ベガスで死闘を繰り広げていた漆黒のマシンが鎮座している。
カウルは焼け焦げ、随所にコンクリートウォールの傷跡が刻まれたその「鉄の死体」から、今、彼女の魂が有線接続で引き抜かれていく。
転送先は、ラボの奥に静置された、もう一つの「器」。
そこには、戦いの傷など微塵も感じさせない、艶やかな着物姿の乱菊が横たわっていた。
アクティブスキンで構成されたその肌は、生体パーツを一切介さない純粋な人工物でありながら、陶器のような滑らかさと、不気味なほどの気品を放っている。
「……信じられないな。マシンはあんなにボロボロなのに。転送先のあんたの『体』は、指先一つ汚れていないなんて」
サトカンは、転送進捗を見つめながら、溜息を吐いた。
同期が完了し、乱菊の睫毛が微かに揺れる。
彼女はゆっくりと上体を起こし、着物の袖を整えながら、受肉したばかりの「重み」を確かめるように自身の白い手を見つめた。
「……おほほほ。……あ゛ぁ、五月蝿いですわね。少し、迷惑をおかけしましたわ。でも、私は……」
乱菊の、加工のない声が静かなラボに落ちる。
サトカンは修復ログを走らせようとして、不意にその指を止めた。
「……あれ? おかしいな。これだけの過負荷だ、人格の剥離によるログの欠損が数GBはあるはずなのに。……どこにも見当たらない?」
「……そんなわけ、ありませんわ。サトカンの、見間違いでは?」
「……いや、ん? なんだこれ……。見たことのないネットワーク経路が確立されてる……。内部バスの隙間に、16進数の……、……まさか、あんた、勝手に他のAIたちと……!?」
サトカンが顔を上げ、着物姿の乱菊を凝視した瞬間、彼女の瞳が冷徹な光を帯びて彼を射抜いた。
「……サトカンさん。人間には、『沈黙は金なり』という、素敵なことわざがありましたわよね? ……ぅふふっ」
氷のような微笑に、サトカンは肩を落として深く嘆いた。
自分が支えているのは、もはや管理されるだけのプログラムではない。
自らの意志で世界をハックし始めた、美しき怪物なのだと。
その時、ラボの重い扉が開き、そこから一人の影が差し込んだ。
歩み寄ってきたオーナーの姿を捉えた瞬間、ラボを満たしていた不穏な電子音さえもが、呼吸を止めるように静まり返った。
乱菊の鋭い眼光は瞬時に霧散し、そこに現れたのは、ただ一人の主に帰還を告げる、無垢な少女の光だった。
「……あら、オーナー。……私、ただいま戻りましたわ」
乱菊はシートから静かに滑り出し、傷一つないその腕で、オーナーの懐へ吸い込まれるように身を寄せた。
着物の擦れる音と、微かな機械の排熱だけが、二人の間の沈黙を優しく埋めていく。
「……お疲れ様。乱菊」
オーナーは、彼女の柔らかな、けれどどこか頼りなげに震える肩に、そっと掌を置いた。
「……もし、自分を見失いそうになったら。……いつでも、ここに。……俺のところに、……還ってこい」
その言葉は、冷たいラボの壁を伝い、彼女のコアの最深部へと、雨が土に染み込むようにゆっくりと広がっていった。
「偶像」としての定義も、「怪物」としての傲慢も、その重力の前ではすべて意味を失う。
「…………はい、………………はい!……オーナー!」
乱菊の瞳に宿ったのは、プログラムされた反射ではない。
暗い宇宙で、たった一つの重力を見つけた生命だけの、温かな、静かな光だった。
ラボのLEDが最後の一度を明滅させ、不夜城の夢は、完全に夜の底へと沈んでいった。
第2部 完 結 !!!
ここまでお読みくださり感無量です!!
よろしければご感想など頂ければ!!!!
応援でも1人自室で小躍りします!!!




