第2話 余熱
「……いい? まさ子。三回、大きく深呼吸して。とにかく落ち着きなさい」
川野製菓の令嬢らしい、瀟洒で甘い香りの漂う詩織の自室。
詩織は、ベッドの上で呆然と頬を染め、陶酔したような表情を浮かべる親友の肩を掴んで揺さぶりました。
名付けの真実を知ったあとのまさ子は、いつものふわゆるな空気を保ったまま、その奥から濃密で危うい熱を放っていました。
「あんたねえ、おむつを替えてもらったことが分かったら、普通は百年の恋も冷めるっていうのが創作の定番じゃない。恥ずかしくないの? 自分のいちばん無防備なところを全部知られていたのよ?」
詩織はあえて冷ややかな声を出し、まさ子を世間一般の羞恥心で現実につなぎとめようとしました。
しかし、それは彼女自身の動揺が招いた、手痛い墓穴でもありました。
「……冷める? どうして?」
まさ子はゆっくりと視線を詩織へ向けました。
その瞳は、霞が晴れたあとの湖のように澄み渡り、そこには確固たる確信だけが宿っています。
「恥ずかしいだなんて、一瞬も思いませんでした。……むしろ、逆です」
まさ子は胸元に手を当て、慈しむように言葉を紡ぎ始めました。
「十ヶ月おきの出産で、お母さまもお父さまも限界だったあの頃。まだ何者でもなかった私に、二十八歳の叔父さまが、三日三晩眠らずに考えて、名前をつけてくださった。私の人生の最初のページに、叔父さまが最初の言葉を書き込んでくださったのです」
まさ子の声に、少しずつ熱が混じっていきます。
「そして、私が自分では何一つできなかった頃、叔父さまは私の小さな身体を守って、育ててくださった。おむつを替えてもらうということは、当時の私の『すべて』を預けていたということです。私が自分で自分を守れなかったとき、叔父さまが私の尊厳を守ってくださっていた」
まさ子は、穏やかに微笑みました。
「……しいちゃん。これ以上の『愛の証明』が、この世にあるかしら?」
「愛されていたのは分かるわよ」
詩織はすぐには引き下がりませんでした。
「でも、それは赤ちゃんだったあんたに向けられた愛情でしょう? 今のあんたが叔父さまに向けている気持ちとは、別のものじゃないの?」
まさ子はしばらく黙って、胸元へ置いた自分の手を見つめました。
「別のものだとは思いません」
静かですが、迷いのない声でした。
「あの頃の私は、叔父さまから愛をいただくことしかできませんでした。でも、今の私は、その愛をお返しできます」
「返すって……」
「叔父さまが私を守ってくださったように、今度は私が叔父さまをお守りしたいのです」
まさ子は、まるで当たり前のことを語るように続けました。
「……まあちゃん、それは」
「私がいただいたものを、そのままお返しするだけです」
まさ子は、ふんわりと微笑みました。
「私を育ててくださった愛と、今の私が叔父さまへ差し上げたい愛は、私の中では一つにつながっています」
詩織は何か言い返そうとして、口を開きました。
けれど、目の前のまさ子には、後ろめたさも迷いもありません。
そこにあるのは、ただ一人の相手から与えられた愛を、自分の全人生を使って返そうとする、底知れないほど一途な覚悟だけでした。
「……あてられっぱなしね、本当に」
詩織は深いため息をつき、降参したようにベッドへ倒れ込みました。
まさ子の情念は、世間並みの「恥」や「幻滅」といったフィルターを、とうに焼き切っています。
彼女にとって邦明は、自分という存在を定義した人であり、同時に、自分という命を守り育てた人でもありました。
その二つが一つに重なった今、まさ子が邦明へ自分のすべてを差し出したいと願う気持ちは、もはや後戻りのできない深さへと達していました。
「……分かったから。もう今日は、その赤い顔で外を歩いちゃ駄目」
詩織は起き上がると、まさ子の頬を両手で挟みました。
「明日休みだし、このままうちに泊まっていきなさい。ひとりで帰したら、あんた、そのまま叔父さまの部屋へ引き返して、取り返しのつかないことをしそうだもの」
「ふふ。……そうかもしれません」
「否定しなさいよ」
「努力します」
「その答えがもう怖いのよ。二十歳まではって、決めてるんでしょ」
「はい」
予定外のお泊まり会が決まり、詩織は自分の予備パジャマをまさ子へ手渡しました。
大人っぽいデザインの詩織のパジャマを着ると、まさ子の幼い容姿はいっそう強調されます。
その可憐な姿と、胸の内に抱えた濃密な情念との落差に、詩織はまた小さな眩暈を覚えました。
その夜、二人は暗くした部屋で、ポエムを愛する詩織の母が選んだという贅沢なアロマを焚きながら、遅くまで語り合いました。
「それで、まあちゃんは、これから叔父さまとどうなりたいの?」
詩織が枕に頬を預けたまま尋ねると、まさ子はしばらく天井を見つめました。
「特別なことを望んでいるつもりはないのです」
「あれだけのことを言っておいて?」
「はい」
まさ子は、幸福そうに目を細めました。
「朝、叔父さまを起こして、お食事を用意して。出かけるときは行ってらっしゃいとお見送りして、帰っていらしたら、お帰りなさいと言う。お疲れのときには、何も聞かずに隣に座っている。そういう日々が、ずっと続けばいいのです」
「……ずいぶん普通ね」
「普通のことほど、手に入れるのは難しいでしょう?」
詩織は返す言葉を失いました。
まさ子が欲しがっているのは、愛する人と過ごす何気ない日常だけなのです。
けれど、その日常を守るためなら、この少女は世界のすべてを敵に回しても躊躇しないのでしょう。
「叔父さま、私がいないと、ちゃんとお食事を召し上がらないことがあるのです」
まさ子が少し困ったように言いました。
「最近は私が作り置きをしておけば、きちんと召し上がってくださるようになりましたけれど」
「それ、もう完全にあんたに飼い慣らされてるじゃない」
「まあ。叔父さまを飼うだなんて、そんな怖いこと」
「言い方の問題じゃないのよ」
詩織は呆れながらも、ふと考え込みました。
まさ子は、自分のすべてを邦明へ捧げているようでした。
けれど、その献身によって、邦明の日常はすでにまさ子なしでは成り立たなくなりつつある。
食事も、睡眠も、帰る場所も、心の安息も。
まさ子は尽くすことで、自分でも気づかないうちに、邦明の生活の中心へ入り込んでいました。
まさ子、あんたはぽやぽやとやってのけているけど、世間ではたぶん、そういうのを「尽くす女」って言うのよね。
でも、尽くしているはずのあんたが、気づけば叔父さまの日常を全部握っている。
あんたが叔父さまに依存しているのか、叔父さまがあんたに依存しているのか。
それとも、もうどちらがどちらを支えているのか、分からなくなっているのか。
詩織は隣で穏やかに微笑む親友を見つめながら、自分が何かひどく深いものを覗き込んでいるような気分になりました。
それでも、まさ子がこんなにも幸せそうに笑っているのなら。
……まあ、いいか。
詩織は、そう思うことにしました。
一方、その頃。
邦明は一人、まさ子と詩織が帰ったあとの、急に広くなったような部屋に残されていました。
テーブルの上には、まさ子が淹れたお茶を飲み干したあとの空のカップ。
彼女が座っていた場所には、まだわずかにぬくもりが残っているような気がします。
赤ん坊だったまさ子の小さな姿と、十七歳の女性として自分を真っ直ぐに見つめてきた、あの熱い眼差し。
二つの姿が、どうしても一つに重なりません。
「……やっぱり、失敗したよな」
邦明はそう呟きながら、空になった向かいの席を見つめました。
けれど、まさ子の歓喜に満ちた微笑みを思い出すたび、胸の奥に生まれる温かなものまで、否定することはできません。
彼女の純粋さが、自分の人生を根底から「上書き」し始めている。
そのことに、邦明は静かな戦慄を覚えていました。
そして同時に、どうにも否定できない幸福も。
ほんの一晩だけだと分かっているのに、まさ子のいない部屋には、思いがけないほどの空白が残っていました。
(名前の刻印 完)




