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3-9 名前の刻印【ザラメ砂糖三代記】  作者: maki_senokouji


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第1話 刻印

 冬の陽光が斜めに差し込む邦明のマンション。学校での喧騒をよそに、そこにはいつものように、まさ子が淹れたお茶の香りが満ちていました。

 「……それにしても、うちの学校のカリキュラムって、どこか変よね」

 詩織が、厚いノートを広げながら溜息をつきました。

 「卒業間近の今になって『自分の名前の由来』を調べてこいだなんて。普通、小学生とか幼い頃にやる宿題でしょう? 今やって、これに何の意味があるのかしら」

 「もしかしたら……私たちも、もうすぐお母さんになるかもしれないから。その予行演習かもしれませんよ」

 まさ子がふんわりと微笑みながら返すと、詩織は「気が早すぎるわよ」と苦笑し、傍らで資料に目を落としている邦明を盗み見ました。

 「あんたはたしかに早そうだけどね。……で、あんたの名前の由来ってどうなの。私の『詩織』なんて、ポエム好きの母が勝手に盛り上がって、父が無責任に褒めた結果よ。おかげさまで、中身はこんなにポエムとは無縁の女になっちゃったけど」

 「そんなことないわ、しいちゃん。……素敵じゃない」

 まさ子はノートを閉じ、詩織の瞳を真っ直ぐに見つめました。

 「『詩を織りなす』。それは誰かが見た心に残る美しい風景や、人から人への切実な気持ち、あるいは自分自身の祈り……そうした人の営みを、一つひとつ丁寧に言葉にして紡いでいくということ。あなたという人は、一見サバサバして見えるけれど、本当は誰よりも人の情の機微に聡くて、それを自分の言葉で守ろうとする人。……もっと大きく言えば、幾世代もの人々の生と死、愛と争いを、一つの長い物語として織り上げていくような、あなたにぴったりの、とても知的なお名前を頂いたのだと思うわ」

 「……まさ子にそう言われると、なんだか自分が凄く高尚な人間に思えてくるから不思議ね」

詩織は照れ隠しに髪をかき上げると、話題をまさ子へと向けました。

 「でも、まさ子。あんたの名前こそ不思議じゃない? お母様の葵さん、お姉様の凜姉、茜ちゃん。みんな漢字一文字なのに、あんただけ三文字で、それもひらがな。……まさか、隠された出自の秘密でもあるの?」

 「……うちの場合、その冗談はあまり洒落にならないのよ」

まさ子の静かな物言いに、詩織はエス家の底知れない闇を垣間見た気がして、思わず「……ごめんなさい」と身を縮めました。まさ子はすぐに柔らかい微笑みに戻ります。

 「ふふ、冗談ですよ。私の『まさ子』の『まさ』には、正、真、雅、政、理、昌、将……いろんな意味が込められていて、その全部が私なんですって。そう母から昔、言われたけれど、どこか言葉を濁されたような気もしていたの」

 その時、ずっと彼女達の話に反応せず沈黙を守っていた邦明が、資料をめくる手を止め、一瞬だけ咳き込んだような気配を見せました。ふわゆるの奥のまさ子の鋭敏な感性は、その微かな「揺らぎ」を逃しません。

 ふだんより二十パーセント増しの可愛い声で、

 「叔父さま。……何かご存じなんですよね? 私の名前のこと」

邦明はしばらく資料を見つめていましたが、やがて万策尽きたように顔を真っ赤にし、深く、重い吐息とともに告白しました。

 「……ああ、もう白状する。すまん。……俺が、まさ子の名付け親だ」

 きっちり数秒の静寂の後、詩織とまさ子の驚愕が部屋の空気を震わせました。

 「きゃー(はぁと)」

 「えー、うそでしょー? なんでー? 」

 「きゃー(はぁと)」

 「だって、あの時の姉ちゃんは尋常じゃなかった。凜からはじまって、十ヶ月おきの出産が三回だぞ? 育児と仕事で和樹義兄さんも姉ちゃんも、文字通り手が回っていなかったから。俺に名前を考えてくれって。……まさ子の名前を考えるのに、俺は三日三晩徹夜した。けれど、どうしても一文字に絞れず、これだと思える漢字が決まらないまま、区役所への提出期限が来てしまって……」

 「……それで、ひらがなになった、と」

 詩織の問いに、邦明は居たたまれなそうに頷きました。二十八歳だった自分。姉があまりに忙しいからと、おむつの替え方も、ミルクの温度も、すべて自分で調べ、見よう見まねで赤ん坊のまさ子を世話していた日々。その小さな姿が、ふいに脳裏に蘇ります。

 まさ子は、動けませんでした。自分がこの世に生を受けた直後から、寝ずに自分のことを考えてくれ、名前という最初のギフトを与えてこの存在を定義し、強く触れれば壊れそうなその小さな体を守り、まさ子の存在を丸ごと愛しんでくれていたのは、目の前のこの男だった。

 「……なんだ。そうだったのですね」

 まさ子の瞳から、感情の奔流が溢れ出しました。

 言葉はもう、必要ありませんでした。この世に生まれてから後の自分のすべては、邦明によって創られ、育まれてきた。その事実は、まさ子にとって何物にも代えがたい「存在の証明」であり、帰るべき魂の安息所でした。

 まさ子はただ、潤んだ瞳で邦明を見つめ、いつものふんわりとした微笑みを湛えたまま、静かにその場に佇んでいました。その幸福に満ちた沈黙のあまりの濃密さに、詩織は危険を察知し、「おじさん、もうこれ以上は……」と、朦朧とするまさ子の腕を掴んで、引きずるようにして玄関へと向かいました。

 まさ子は抵抗もせず、ただ夢見心地のまま、詩織に引かれて廊下の闇へと消えていきました。


 一人残された邦明は、火照りの引かない頬を両手で二、三度叩き、冷え切ったお茶を一気に飲み干しました。

 「……ああ、失敗した」

思わず零れた独り言。やはり秘密にしておくべきだった。あんなにもあからさまに、歓喜の色を浮かべるまさ子の顔が、瞼の裏に焼き付いて離れません。

 普通なら、自分がおむつを替えていた相手には、気恥ずかしさが勝って恋愛感情など抱けないものでしょう。けれど、まさ子は違いました。彼女はその事実にかえって「絆」の証を見出し、ますます愛おしそうに自分を見つめてきたのです。

 その感覚は、世間の常識とは決定的にずれている。けれど、どこまでも一途で純粋なまさ子を、邦明もたまらなく愛おしいと思ってしまう瞬間がある。それは、もう認めざるを得ませんでした。


 三姉妹の中でも邦明が一番気に掛けていたのは、自分が名付け、ミルクの世話をしてきた、この末っ子でした。その事実をまさ子自身に悟られてしまったことへの後悔。けれど同時に、これでようやく、彼女のすべてを受け入れる覚悟の土台が固まってしまったような、不思議な安堵感が彼を包んでいました。

 「……あいつには、敵わないな。いや、そんなことは今さら、か」

 若き日の自分が名付けた少女が、今、自分という存在のすべてを肯定し、上書きしようとしている。邦明は深い溜息をつきながらも、その口元には、いつのまにか、穏やかな微笑が浮かんでいました。


(了)

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