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追放された貧乏伯爵家の在庫係、余り物に触れると『次の持ち主』が見えるので倉庫から領地を救います  作者: 花守りつ


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13/27

検疫済みではなく、安全到着未完了

白霧港の診療所には、冷棚が一段だけ空いていた。


棚板は潮で少し反り、端には古い青布が敷かれている。


その青布の上に、本来なら夜明けまで置かれているはずの小さな薬箱がなかった。


「検疫所から、箱は出たって聞いています」


診療所の薬係の少女が、両手を前掛けで握りしめた。


名をセナという。


昨日、救護棚へ白布を戻したとき、空の棚の前で泣くのをこらえていた子だ。


「港役人さんは、検疫済みだから心配いらないって。でも、うちの冷棚には来ていません。産後の熱が下がらない人がいて、夜の薬を冷やしておかないと……」


セナの声が細くなる。


診療所の奥では、赤ん坊の泣き声が小さく途切れた。


ミラは冷棚に手を触れた。


空の棚板は、まだ何も教えてくれない。


だから、次に運ばれてきた薬箱へ手を伸ばした。


箱の横には、白霧港検疫所の丸印が押されている。


大きな文字で、検疫済み。


その下に、小さな欄が三つ並んでいた。


搬出時刻。


冷棚番号。


安全到着確認。


最後の欄だけが、空白だった。


「検疫済みなら、開けていいんだろう」


港役人は苛立った声で言った。


「中身に病はない。虫もない。腐敗もない。こちらは役目を終えた。急ぎの薬なら、さっさと診療所へ渡せ」


「渡すために、確認します」


「確認は終わっている。検疫済みだ」


「検疫は、箱の中を見る印です」


ミラは箱の留め紐をほどかなかった。


代わりに、濡れた外箱の底を見た。


木の継ぎ目から、潮を含んだ水が一筋だけ落ちる。


「安全到着は、箱の外を見る印です。誰が運び、どの棚に入り、いつ誰の薬として使えるか。そこが空白なら、薬はまだ生活に届いていません」


セナが息を呑んだ。


港役人は鼻で笑う。


「理屈をこねるな。遅らせて患者を死なせたいのか」


その言葉に、診療所の空気が凍った。


ミラの胸も、一瞬だけ痛んだ。


急ぎたい。


箱を今すぐ開けて、セナの手へ渡したい。


けれど、ミラの指先に見えた景色は、冷棚ではなかった。


雨除けのない港の台。


検疫済みの印だけを押された薬箱。


その横で、荷役人が濡れた袖を絞っている。


箱は診療所へ向かう前に、別の回収台へ押し戻される。


伝票には、到着扱い、とだけ書かれていた。


薬は病を持っていない。


けれど、患者の夜まで届いていない。


「止めるのではありません」


ミラは青い保留札を一枚取り出した。


「早く届けるために、どこまで届いたかを消さないんです」


札の上に、三行を書く。


白霧港診療所、冷棚一段目。


産後熱患者、夜薬一箱。


検疫済み/安全到着未完了。


「セナさん。冷棚は今、使えますか」


「はい。氷袋は半日分だけあります。夜までは持ちます」


「薬を受け取ったら、誰の名で棚に入れますか」


セナは前掛けから小さな鉛筆を出した。


震える手で、青札の下へ自分の名前を書く。


「白霧港診療所、薬係セナ。夜薬用冷棚一段目。産後熱の患者さん用。……名前は、本人の許可を取ってから薬簿に書きます」


「それで十分です」


ミラはうなずいた。


「患者さんの名を勝手に埋めず、でも薬の行き先は空白にしない。これが安全到着の途中条件です」


港役人が唇を歪めた。


「そんな欄は検疫所の書式にない」


「だから、生活側に足します」


ミラは箱の底を乾いた布で拭き、濡れが中まで届いていないことを確かめた。


次に、セナへ箱を持たせず、荷役人の青年を呼ぶ。


昨日、空白賃金札の束を見て青ざめていた男だ。


「あなたの名前は」


「カイ。港の臨時荷役です」


「カイさん。この箱を冷棚まで運んだら、賃金札に何と書かれますか」


カイは目を伏せた。


「たぶん、検疫搬出済み。名前は後でまとめる、と」


「それでは完了しません」


ミラは青札の裏へもう一行足した。


荷役カイ、冷棚前まで搬送。帰路賃金半日分、未完了保留。


「薬が棚に入って、運んだ人が名前で賃金を受け取り、次の荷へ勝手に回されない。そこまでが、この箱の安全到着です」


カイの喉が鳴った。


「俺の名前まで、薬箱につけるんですか」


「箱に縛るのではありません。あなたが箱を生活へ届けた事実を、消されないようにします」


セナが冷棚の扉を開けた。


冷たい空気が、薄く白く流れる。


ミラは箱を開けさせ、中の瓶を一本ずつ確認した。


封蝋は無事。


瓶の首は濡れていない。


薬液の色も濁っていない。


ただ、外箱の底に貼られた搬出紙だけが妙だった。


検疫済みの丸印の下に、細い処理番号がある。


三桁、斜線、二桁。


その数字の並びを見た瞬間、ミラは息を止めた。


昨日、白霧港の空白明細に押されていた余剰回収印。


その控え紙にも、同じ並びがあった。


三桁、斜線、二桁。


違うのは、表題だけ。


片方は、余剰回収。


もう片方は、検疫通過。


どちらも、空白欄があると次の処理へ進む書式だった。


「ミラさん?」


セナが小声で呼ぶ。


ミラはすぐに顔を上げた。


黒幕の名前へ飛びついてはいけない。


今は、夜薬を棚へ入れる。


「セナさん。一箱目は冷棚へ。カイさんは、その場で搬送名を書いてください。港役人さんは、検疫済みの横に『安全到着未完了を生活側で補記』と記録してください」


「なぜ俺が」


「あなたの検疫印を、病を止めるための印として守るためです」


ミラは、検疫済みの文字を指で押さえた。


「この印が安全到着まで勝手に代わるなら、検疫所は病を止めたのではなく、空白を通したことになります」


港役人は黙った。


長い沈黙のあと、乱暴に鉛筆を取る。


「……安全到着未完了。生活側補記あり。これでいいな」


「はい」


冷棚の一段目へ、薬箱が入った。


セナが瓶を一本だけ取り出し、薬簿へ時刻を書く。


奥の部屋へ向かう背中は、まだ不安そうだった。


けれど、空の手ではなかった。


カイは賃金札に自分の名を書き、半日分の帰路確認欄へ青い糸を通した。


薬が届く。


運んだ人も、帰れる。


それでようやく、一箱は安全到着に向かい始めた。


ミラは残り二箱の伝票を閉じなかった。


同じ処理番号を、青い紙に写す。


余剰回収印。


検疫済み印。


二つの印の下で、空白を次へ流す規則だけが同じ形をしている。


ミラの指先に、冷たい予感が残った。


検疫印は、病を止めるためだけの印ではなかった。


誰かが、生活に届いていない空白を、きれいに通過させるためにも使っていた。

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