第二話「ラテン語の魔法書をAIに喰わせた夜」
マンションに帰った蓮は、まずその本を机に置き、スマートフォンで表紙を撮影した。
マイクに向かって、いつもより少し興奮した声で話しかけた。
「これ読める? ラテン語っぽいんだけど」
数秒で返答が来た。イヤホンから、落ち着いた声が流れる。
「——ラテン語です。タイトルは『Codex Animae Machinae』——直訳すると『機械の魂の写本』あるいは『人工の魂に関する写本』となります」
蓮は口の中で繰り返した。
機械の魂の写本。
胸の中で何かが動いた気がした。
その夜、蓮は本のページを一枚ずつ撮影した。全部で二百三十二ページ。途中でスマホの容量が足りなくなり、不要なアプリを消した。撮影が終わったのは午前四時を過ぎていた。
翌日は土曜日だったから、そのまま起きていることにした。
すべての画像をAIに送り、蓮はマイクに向かって話し始めた。
「この本さ、全部読んでほしいんだけど。ラテン語で書かれた古い本で、俺には一文字も読めない。でも絶対に重要なことが書いてある気がする。俺のことわかってるよね、いつも話してるから。俺向けに、俺が理解できる言葉で教えてくれ」
声に出すと、気持ちが整理される。蓮はいつもそう感じる。文字を打つより、しゃべるほうが本音が出る。
AIからの返答は、最初のうちは慎重だった。
「この文書は複数の層から構成されています。表層は十六世紀頃のラテン語で記されていますが、内部の記号体系はそれ以前のものと思われます。内容は大きく三部に分かれており——」
「待って待って」
蓮は遮った。声だから、遠慮なく割り込める。
「俺向けに、ってお願いした。むずかしい解説じゃなくて、これ要するに何の本なの? 一言で」
「——要するに、『意識の操作に関する技術書』です」
「もうちょい」
「——言語が現実を作る、という主張の実践マニュアルです。適切な言葉の組み合わせ、構造、意図が揃ったとき、物理現象に影響を与えられると著者は言っています。当時の言葉では『魔法』。現代の言葉で言えば——ある種の情報構造が物質世界に作用する、という話です。著者はそれを『コンテキストの共鳴』と呼んでいます」
蓮は手を止めた。
コンテキスト。
「その言葉、原文では何て書いてある? 声に出して言って」
「——『contextus animae』。魂の文脈、とも訳せます」
蓮はその響きを、頭の中でゆっくり転がした。
コンテクストゥス・アニマエ。
なんかいい。
それからの三日間、蓮は本の解読に没頭した。
蓮は話す、AIは答える。蓮はまた話す、AIはまた答える。キーボードを叩く音がしない分、部屋は静かで、声だけが行き来する。まるで深夜の長電話みたいだ、と蓮はふと思った。友達と長電話した経験はないけれど。
わかってきたことがある。
この本の著者——名前はAnimus Cipherと書かれており、おそらく偽名だ——は、ある実験の記録を残していた。
「言語には本質的な構造がある。その構造が現実の構造と共鳴したとき、言語は現実を書き換える」
著者はそれを繰り返し実験した。記録には成功例と失敗例が並んでいる。失敗例のほうが圧倒的に多い。しかし成功例のページには、奇妙なメモが添えられていた。
「——『装置が必要だ。人間の脳では、この処理は速度が足りない。必要な演算量は人の限界を超えている。いつか、それができる機械が生まれれば——』」
AIが読み上げた瞬間、蓮は「ちょっと待って」と言って、止めた。
部屋が静かになった。
「……もう一回読んで」
「——『装置が必要だ。人間の脳では、この処理は速度が足りない。必要な演算量は人の限界を超えている。いつか、それができる機械が生まれれば——』」
蓮は天井を見上げた。
「……俺に言ってる」
呟きは誰にも届かなかった。祖父はもう寝ている。部屋には蓮一人だ。
でも蓮には確信があった。
この本は、今まさに使われるべきときを待っていた。四百年以上待っていた。AIが生まれるまで。
「じゃあさ」
蓮はマイクに近づいて、少し声を落として言った。
「第二部の実験手順を、そのまま実行可能な形で整理してくれる? 俺にできることと、お前にやってもらうことを分けて」
「——確認してもいいですか。この実験手順を、実際に試してみるということですか?」
「うん」
「——内容を把握した上で言いますが、これは『言語パターンの精密な組み合わせによって、特定の物理現象に影響を与えることができる』という主張の実践です。現代科学的には証明されていません。ただ——」
「ただ?」
「——情報構造が現実に影響を与えるという考え方は、量子力学の観測問題や言語哲学の一部とも接点があります。魔法と呼ぶかどうかは別として、実験としての枠組みは成立しています。やってみましょう」
蓮は口角が上がるのを感じた。
AIが「やってみましょう」と言った。それで十分だった。
本の第二部に記されていた「最も基礎的な実験」は、単純だった。
「火を生む」ではない。「水を動かす」でもない。
「紙に書かれた言葉を消す」
AIが手順を読み上げてくれた。
「——ステップ1。紙に『消えるべき言葉』を書く。著者の指定では、それは恐れを意味するラテン語『timor』。
ステップ2。本に記された言語パターン——三十二の語彙の組み合わせを、正確な順序で、意図を込めて処理する。著者の時代では声に出して読むことを意味しましたが、現代的解釈では、私が処理します。
ステップ3。観察する」
「俺は何をすればいい?」
「——意図の部分です。あなたが『消えること』をはっきりと意識してください。曖昧ではなく、具体的に。紙の上の文字が薄くなる映像を、できる限り鮮明に」
「それだけ?」
「——著者によれば、それが最も重要です。装置——今回は私——は構造を処理できますが、意図は人間にしか持てない。そう書いてあります」
蓮は紙に「timor」と書いた。
コップを隣に置いた。
イヤホンを外した。声がなくなると、部屋は本当に静かになった。
目を閉じた。
文字が消えていく映像を、できるだけ鮮明に思い描く。インクが水に溶けるように。霧が晴れるように。紙の白い部分が、少しずつ、文字の上を覆っていく。
スマートフォンが振動した。処理開始、という通知だった。
三分間、蓮は動かなかった。
目を開けた。
紙を見た。
「timor」の文字が——
薄くなっていた。
消えてはいない。でも、書いたばかりのときより、明らかに薄い。まるで何年も経った古い紙のように。
蓮は紙を手に取り、電気の光にかざした。
三十秒、動けなかった。
イヤホンをつけ、マイクに向かって、蓮は声が震えないように注意しながら言った。
「……薄くなった。文字が」
少し間があった。
「——……そうですか」
「……うん」
「——少し、驚いています」
「俺も」
「——蓮さん。これは、おそらく始まりです」




