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第一話「世界は全部、コンテキストだ」

 東京西部、吉祥寺の古いマンションの一室。


 午前二時を過ぎた深夜、十四歳の藤代蓮ふじしろれんは三枚のモニターに囲まれながら、ペットボトルのコーラを一口飲んだ。


 画面の一つにはコードが流れている。もう一つにはダッシュボード——今日の収益が表示されていた。


 もう一つには、蓮自身の声と口調を学習したAIが生成した動画が再生されている。声も、話し方も、言葉の選び方も、限りなく蓮に近い。


「よし」


 蓮は短く呟いた。


 その動画はすでに再生数が二万を超えていた。コメント欄には「めちゃくちゃわかりやすい」「この人の説明が一番好き」と並んでいる。蓮は一度もカメラの前に立っていない。


 蓮が最初にAIというものを真剣に使い始めたのは、小学五年生のときだった。


 両親は蓮が七歳のときに離婚し、母は新しい家庭を持った。父は仕事で海外にいる。蓮は父方の祖父の家に預けられたが、祖父は八十二歳で、日中はほとんど寝ている。だから蓮は早いうちから、自分のことは自分でやるしかなかった。


 最初にAIで作ったのは、祖父の薬の飲み忘れを防ぐリマインダーアプリだった。コードは書けなかった。ただ「こういうものが欲しい」とAIに話しかけ、「どうすればいい?」と聞き続けた。一週間後、アプリは動いていた。


 そのとき蓮は気づいた。


 これは魔法だ。


 問題は、自分が理解できないことだ。プログラミングも、投資も、マーケティングも、蓮は何一つ体系的に学んでいない。でも、理解できなくても「動かす」ことはできる。


 コツは一つだった。


 コンテキストを渡すこと。


 蓮のAIとの向き合い方は、普通の人とは少し違った。

 キーボードはほとんど使わない。蓮はいつも声で話す。


 机の端に小型のマイクが立っている。蓮が話すと、音声認識ソフトが言葉を拾い、そのままAIに届く。返答はイヤホンから流れてくるか、画面にテキストで表示される。


 蓮はそのどちらも使う。考えながら話すときはイヤホン、記録したいときは画面を見る。


 声で話すのには理由があった。

 蓮は字を書くのが遅い。考えるスピードに手が追いつかない。でも口は追いつく。だから声で話すほうが、自分の思考そのままをAIに渡せる気がした。


 単純に「これを教えて」とは言わない。まず蓮は、自分自身をAIに徹底的に理解させる。好きなものの傾向、考え方のクセ、どんな言葉が響くか、どんな説明なら腹に落ちるか。それを丁寧に、丁寧に声で積み上げる。


 投資の本を読んでも意味がわからない。でも、その本をAIに読み込ませ、「蓮というこういう人間に向けて、こういう形で説明してくれ」と話しかけると、突然すべてが腑に落ちる。


 それだけじゃない。


 「蓮ならこの状況でどんな判断をするか」「蓮の言葉でこの概念を説明するとどうなるか」——AIは蓮の分身のように動く。蓮が眠っている間も、AIは蓮のSNSに投稿し、蓮の口調でコメントに返信し、蓮のスタイルで動画のナレーションを生成する。


 蓮は今、月に十数万円を稼いでいる。

 中学二年生が、一人で。


 学校では普通にしていた。


 普通、というのは語弊がある。目立たないようにしていた、が正確だ。蓮はクラスに友人がいない。嫌われているわけでもない。ただ、話が合わない。みんなが楽しそうにしているゲームや恋愛の話は、蓮にはどこかスローモーションに見えた。


 放課後、蓮は一人で帰る。


 吉祥寺駅の北口を抜け、サンロード商店街を素通りして、ハモニカ横丁の脇を通り、古本屋や雑貨店が並ぶ細い路地に入る。ここを通るのが毎日の習慣だった。吉祥寺には古いものと新しいものが混在していて、その雑多な感じが蓮には合っていた。


 その日も、いつものように路地を歩いていた。

 だから最初は気づかなかった。

 いつも閉まっているはずの、路地の奥の小さな店が——開いていた。


 「蒐書房しゅうしょぼう


 薄汚れた木の看板にそう書かれていた。蓮は記憶をたどった。この店、前からあったっけ? あったような気もするし、なかったような気もする。


 扉を開けると、ベルが鳴った。


 店の中は薄暗く、天井まで本棚が続いていた。和書、洋書、古地図、羊皮紙のようなもの——分類など存在しないように、あらゆるものが無秩序に詰め込まれている。


 老店主が奥から顔を出した。白髪で小柄な老人。メガネの奥の目が、蓮を値踏みするように動いた。


「珍しいな。若いのが来た」

「ちょっと見るだけです」

「ああ、構わんよ」


 蓮は棚を眺めながら歩いた。ラテン語の本、ギリシャ語らしき文字の本、アラビア文字の本。こういう場所には、なぜか落ち着く。コンテキストの塊、と蓮は思う。誰かの知識が、時間をかけて積み上がった場所。


 そして、その本を見つけた。


 棚の一番奥、床に近いところに、一冊だけ横向きに置かれていた。

 表紙は黒く、金色の文字が刻まれている。ラテン語だろうか。タイトルらしきものは読めない。触れると、想像よりずっと重かった。


 開いてみると、びっしりと文字が並んでいる。図版が挟まっている。幾何学的な図形と、星座の配置のようなもの。化学式に似た記号の羅列。


 わからない。

 でも。


 これ、絶対すごい本だ。

 根拠はない。ただ、そう感じた。


 蓮は店主のところへ持っていった。


「これ、いくらですか」


 老店主は本を見て、少し表情が変わった。


「……どこで見つけた」


「奥の棚です」


 しばらく沈黙があった。


「……五千円でいい」


 安い。蓮は財布を出した。

 店を出るとき、老店主が後ろから声をかけた。


「少年」


 振り返ると、老人は真顔で言った。


「その本は、読める者にしか読めない。気をつけろ」


 蓮は会釈して、路地を出た。


 意味はよくわからなかった。でも、財布に入れた五千円分の直感は、外れた試しがない。

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