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4話「帰る場所はひとつではない」

 白い光は、眩しいというより、行き先そのものだった。


 オリヴィアの指先が芯座へ沈んだ瞬間、世界の輪郭は一度きれいにほどけた。塔も、海も、人の叫びも、すべてが細い線へ戻る。線は無数にあって、その一本一本がどこかへ続いている。家の扉、港の桟橋、二階の窓辺、古びた工房の炉、誰かの食卓。帰る場所。戻るための癖。街の人々が胸の奥に持つ、あの小さな灯の先にあるもの。


 それが今、白い結び目でひとつに縒られていた。


 だから溺れるのだ、とオリヴィアは理解した。


 沈まない灯が、いちばん先に溺れる。


 沈まないように多くを集めすぎたせいで、灯は一つの帰り道しか持てなくなった。帰る場所を失うのではなく、奪われる形で。


 白い光の中で、少女が立っていた。


 昨夜、水底からこちらを見上げていた子だ。今は濡れていない石畳の上にいて、両手に抱えた丸い灯のなかで白い花びらのような光がゆっくり回っている。年の頃は十にも満たない。だが表情は子どもらしいほど単純ではなかった。


『やっと触れた』


「……あなたは、何者ですか」


 オリヴィアが問うと、少女は少し考えるようにまばたいた。


『名前はあったけれど、もう沈んだわ』


 返ってきたのは、そんな言葉だった。


『昔、この灯の見張りをしていた子。今は、帰れなかった灯の残りみたいなもの』


 それで十分だと、なぜか思えた。ここでは人の名前より、役目や残り香のほうが長く残るのだろう。


『あの人は、みんなを助けようとしてる』


 少女は言う。


『でも、結び方をまちがえたの。帰る道はたくさんあるのに、ひとつにした』


 白い結び目の向こうで、無数の線が軋んでいた。引きずられるように。泣いているわけではないのに、泣き声のようにも聞こえる。


『全部切ると、上も下も壊れる』


 少女の視線が、オリヴィアの空の胸元をまっすぐ射抜く。


『だから、ほどいて』


 その言葉と同時に、現実の音が戻ってきた。


     *


 塔が揺れていた。


 鏡板の駆動音が上層から轟き、白灯芯は脈打つたびに広間じゅうの灯を引く。返納灯が床を離れ、白い井戸へ吸い込まれていく。橋の上のヘイルが何かを叫び、向こう側ではエッダが拘束具に両手をかけたまま耐えている。レオは膝をつき、セラは剣を支えにして踏みとどまっていた。


 オリヴィアの右手は、まだ芯座の窪みにあった。


 白い流れは彼女の内側へ入ろうとして、入れずに留まる。灯心のある者なら、ここで“帰る場所”を差し出して繋がるのだろう。だが彼女の内には何もない。だからこそ、結び目そのものへ触れられる。


 代わりに、まともに見える。


 空ではない。受けるために空けたのだ。


 さきほど光の中で聞いた、知らないはずの声がまた胸の奥で反響した。作られたときの記憶か、それに似た何かか。判別はつかない。けれど、その一言は奇妙に静かだった。欠けているのではなく、空けられている。


「オリヴィア!」


 レオの声が飛ぶ。


「離れろ、危ない!」


「危険は承知しています」


 オリヴィアは答えた。いつも通りの声で。少なくとも、そう聞こえるように努めて。


 左手で杖を持ち直す。白い脈動が強く、琥珀の水晶が唸るように震えた。中にはレオ、セラ、ガスパールから借りた灯心がまだ残っている。青緑、銀青、濃い琥珀。どれも消えてはいない。


 足りない、とオリヴィアは思った。


 結び目を切るのではなく、ほどくには、あと少し性質がいる。集める性質。選り分ける性質。向こう側には、それを持っている人間が二人いる。


「エッダさん」


 白い轟音のなかでも、彼女の声は妙にはっきり通った。


「お力をお借りしてもよろしいでしょうか」


 向こう側の橋で、エッダが顔を上げる。驚いたように瞬いたあと、すぐに頷いた。


「ええ! どうせもう、ここまで来たなら!」


 彼女の灯心が見えた。色は深い藍に近い。海の夜よりも、乾いたインクを思わせる光だった。整然としていて、細かく、きちんと物を並べたがる気配がある。記録係の灯だと、一目でわかった。


 藍の光が、白い井戸を横切るようにオリヴィアの杖へ飛ぶ。琥珀の水晶で四つの灯が触れ合い、短く火花のような反発を起こした。だが壊れはしない。まだ足りる。


 残る一つ。


 オリヴィアは橋の上のヘイルを見た。


「監灯官ヘイル」


 彼は険しい顔でこちらを睨んでいた。額には脂汗が浮き、いつもの穏やかな笑みは影もない。白灯の脈動に煽られているのだろう。それでも彼はなお、自分の選択を正しいものとして保とうとしている目をしていた。


「あなたにも、お願いできますか」


 セラが振り向いた。レオも息を呑む。エッダさえ一瞬、拘束具を回す手を止めた。


「何を言っている」


 ヘイルの声が、今度は本当に荒れていた。


「私はこれを止めさせる気はない」


「存じています」


 オリヴィアは言う。


「ですが、あなたの灯は“集める”ことに長けています」


「だからこそ私は、街を一つに――」


「一つにするためではなく」


 オリヴィアはヘイルの言葉を遮った。彼女が人の話を遮るのは珍しい。だからこそ、全員が一瞬静まった。


「返すために、お借りしたいのです」


 白灯がひときわ大きく脈打つ。


 橋の下、旧街の石段にぼんやりと人影が浮かんだ。家族なのか、知人なのか、誰かにとっての“帰りたい人”に似たものを見せているのだろう。ヘイルの目がほんの一瞬だけ揺れた。


「……あそこに、残っているんだ」


 彼が初めて、自分のための声で言った。


「灯も、家も、名前も。沈んだものが全部、下にある。上はいつか壊れる。だったら先に……帰せるうちに帰したほうがいい」


 それは言い訳ではなかった。切実だった。切実だからこそ、間違いが大きくなることもある。


 オリヴィアは彼を見つめた。


「置いていかれたくなかったのですね」


 ヘイルが息を止める。


「誰も」


「……そうだ」


 たぶん、それが彼の本心のいちばん短い形だった。


「わかりました」


 オリヴィアは頷いた。


「ですが、それでも、皆さんの帰る場所はご自身で選ばれるべきです」


 ヘイルはしばらく何も言わなかった。上層で鏡板がまた一枚開き、白い井戸が唸る。レオが苦しげに膝を立て直し、セラの手の甲には血管が浮いていた。もう長くは保たない。


 やがてヘイルは、白い光から目を逸らさないまま、かすれた声で言った。


「……持っていけ」


 承諾だった。


「明確な同意として受け取ります」


 オリヴィアの言葉に、ヘイルは一瞬だけ呆れたような顔をした。こんな状況でもそれを言うのか、とでも言いたげに。だがその直後、彼の胸から薄い白銀の灯心が抜け、真っ直ぐ杖の琥珀へ吸い込まれた。


 五つ目の光。


 青緑、銀青、濃琥珀、藍、白銀。


 跳ねる、切る、繕う、選り分ける、集める。


 杖が、ようやく足りる重さになる。


     *


 ヘイルの部下が上層の階段で立ち尽くしていた。命令を待つ顔ではなく、状況の意味を測りかねている顔だった。オリヴィアは彼らへ目を向けない。今、必要なのは広く浅い力ではなく、明確な性質だった。


 彼女は杖を芯座へ差し向ける。


 二股の先端が白い結び目を挟むように開き、間の琥珀色の水晶が熱を帯びた。琥珀は貯蔵器であり、エメラルドは変換器だ。だが本来この杖でもっとも奇妙なのは、二股の先にある。異なる法則を、ひとまず同じ譜面へ乗せるための“調律”の装置。


 上の街の灯の理。


 下の旧街に残る帰路の理。


 そして、そのどちらにも属さないオリヴィア自身の空白。


 それらを一瞬だけ、同じ場へ置く。


「分路」


 静かな声だった。


 最初に動いたのは、セラの銀青だった。


 白い結び目の周囲で、刃のように細い線が幾筋も走る。切るのは灯そのものではない。間違って縒られた束だけを、正確に解いていく。下へ落ちようとしていた返納灯の糸が、そこで一度ばらけた。


 次に、ヘイルの白銀が広がる。


 集める性質は危険だ。扱いを誤ればまた一つへ束ねてしまう。けれどオリヴィアは杖先のエメラルドで方向だけを変えた。中心へ奪うのではなく、散った糸を一時的に寄せる。受け皿のように。


 そこへエッダの藍が入る。


 藍の光は驚くほど几帳面だった。絡まりを一本ずつ見分け、似た糸を取り違えない。家灯の癖、持ち主の名前、戻るべき戸口。帳面に行を引くように、帰る先を仕分けていく。


 レオの青緑がそこで跳ねた。


 今度の跳ね方は、先ほど坑道で見たときと違った。せっかちで、勢いがある。だがその性質は“戻す”ことに向いている。解かれた糸を、元の持ち主のほうへぐいぐい引く。家へ急ぐ足音のような光だった。


 最後にガスパールの濃琥珀が、全体を静かに繕い合わせる。


 切りすぎた縁、薄くなった灯殻、ひびの入った道筋。それらを古い工房の火のような熱で埋め、保たせる。白灯芯そのものが壊れないよう、傷んだ支えを一つずつ留めていく。


 五つの性質が、ようやく形になる。


 オリヴィアは芯座の奥へ手を滑らせた。そこにあるのは鍵ではなく、結び目の芯だ。人の手には見えないほど細い輪が、いくつもいくつも噛み合っている。


 ほどく。


 切るのでも、奪うのでも、縛るのでもなく。


「継灯」


 エメラルドが、強く閃いた。


 白灯が裂けた。


 いや、壊れたのではない。白という一色の内側から、隠れていた色が一気に現れたのだ。緑、青、琥珀、乳白、灰銀。街じゅうの灯が持っていた微細な癖が、白の中から息を吹き返す。


 井戸の下で旧街の灯が揺れる。


 上では常灯塔の鏡板が、開きかけた角度で震えたまま止まった。


 白い流れは二つに分かれた。ひとつは上へ。海を照らすための、まっすぐな白。もうひとつは下へ。沈んだ街を静かに包む、淡い青白。似ているが、同じではない。混ぜてはいけなかった二つの灯が、ようやく別々の呼吸を取り戻す。


「今です!」


 オリヴィアが叫ぶのと、エッダが向こう側の拘束具を回し切るのは同時だった。


 がこん、と重い音が広間を打つ。


 鏡板の駆動が逆転した。


 上層で係員たちが悲鳴のような声を上げる。だがもう止まらない。開きすぎた鏡板が、今度は一枚ずつ所定の位置へ戻っていく。白灯芯は不安定に明滅しながらも、先ほどのような強制的な引きは失っていった。


 その瞬間、広間の外――街のどこかで、数え切れないほどの灯が一斉に息を継いだのがわかった。


     *


 レオの身体から力が抜ける。


「……っ、は」


 引かれていた足が、ようやく自分の重さを取り戻したらしい。セラも壁へ手をつき、大きく息を吐いた。


「止まった……?」


「完全ではありません」


 オリヴィアは答えた。まだ術は終わっていない。散った糸を返しきるまで、杖を離せない。


 下の旧街から、いくつもの灯がゆっくり浮かび上がってくる。だがそれは人を飲み込むためではなく、持ち主の形を確かめるような動きだった。上の街からも、返納の列にいた人々の灯が、それぞれの家の方角へ細く伸びていく。


 白銀の集束が、今度は暴れなかった。ヘイルが自分で力を抑えているのだろう。橋の向こうで彼は片膝をつき、白灯芯を見上げたまま動かない。


「ヘイル!」


 セラが呼ぶ。


 彼は返事をしない。ただ低く言った。


「……こんなふうにも、できたのか」


 責めに対する言い訳ではない。純粋な、遅すぎた理解だった。


 エッダが向こう側から顔をしかめる。


「最初から人に聞きなさいよ、ほんとに」


「君に言われたくはないな」


「私はちゃんと調べてから潜ったわ」


「それを聞かされる弟の身にもなって」


 レオが怒鳴ると、エッダがやっと笑った。あまり元気のある笑いではなかったが、昨夜から初めて見る生きた表情だった。


「ごめん」


 短い一言だった。


 そのあいだも、オリヴィアは杖を支え続ける。琥珀の水晶の中の灯心が、目に見えて薄くなっていった。借りた力を燃やしているのだ。レオの青緑は最後まで跳ね、セラの銀青は最後まできっちり縁を整え、ガスパールの琥珀はゆっくりと全体を支え、エッダの藍は糸の一本も取り違えず、ヘイルの白銀は今度こそ強引に寄せすぎない。


 いい光だった、とオリヴィアは思う。


 ひどく人間らしい、欠点のある、使いにくいところも含めて。


 そんなことを考えたとき、視界の端で小さな影が動いた。


 あの少女が、井戸の下側からこちらを見上げていた。


 白い花びらの灯を抱いたまま、今度は少しだけ笑っている。


『それでいいの』


 声はもう、耳元ではなく胸の奥へ落ちるように届いた。


『上は上へ。下は下へ。帰るひとは帰って、残る灯は残る』


「あなたは」


 問いかけかけて、オリヴィアはやめた。たぶん彼女はもう、自分の答えを持っている。


 少女は首を振る。


『私はここでいい』


 そして、ほんの少しだけ目を細めた。


『灯がないんじゃなくて、あなたはまだ染まってないだけ』


 それは慰めでも断言でもない、妙に当たりの柔らかい言葉だった。


『空いてるものには、風も光も通るでしょう』


 白い花びらが、ひとつ灯の中で舞い上がる。


『それって、たぶん悪いことじゃないわ』


 次の瞬間、少女の姿は旧街の灯のあいだに溶けるように薄れた。消えたのではなく、下側の青白い灯に還ったように見えた。


 オリヴィアは一度だけ、静かに瞬いた。


     *


 術が終わったとき、塔はもう揺れていなかった。


 鏡板は半ば閉じ、上へ向けた白灯だけが安定して外海を照らしている。下側へ落ちる灯はごく淡く、井戸の底の旧街を静かに照らすだけだ。もはや上の街の人間を引く力は感じない。水底の記憶のように、ただそこにある。


 オリヴィアが杖を下ろす。


 琥珀の水晶は、ほとんど空だった。


 白い熱が引いていき、代わりに全身へどっと重さが落ちる。彼女は一歩よろめいたが、倒れる前にセラが腕を取った。


「無茶をする」


「承知しています」


「そこで素直なのはずるいね」


「自覚はありません」


 レオが苦い笑いを漏らし、それから向こうの橋へ身を乗り出す。


「渡れるか?」


 白い井戸の縁で、さきほどまで開いていた空間がゆっくり狭まっていく。完全に閉じる前に、外周の細い保守橋が一つだけ伸びた。エッダがそれを見て、肩を落とす。


「……帰れってことみたい」


「最初からそうしろよ!」


「それは本当にそう」


 レオは半分怒鳴り、半分泣きそうな顔で橋を渡った。エッダも向こうから駆け、姉弟は広間の中央手前でようやく手を掴み合う。抱き合うまでに一拍置いたのは、どちらも照れがあるからだろう。けれど結局、レオが先に腕を回した。


 セラはそれを横目に見ながら、剣を下ろす。


「ヘイル」


 呼ばれた本人は、しばらく動かなかった。やがて立ち上がり、制服の乱れを直すでもなく言う。


「拘束するかい」


「そのつもりだよ」


「当然だ」


 セラの声は厳しかった。だが憎しみだけではない。


「ただし港へ着くまでは、整灯の事情聴取に付き合ってもらう。塔の仕組みを知ってるのはあんただ」


「合理的だな」


「あなたが好きそうな言葉だろ」


 ヘイルはそこで、はじめて薄く笑った。疲れ切った顔で。


「……最後に、あれは見えたか」


 彼が問うたのは誰に向けてか曖昧だったが、たぶんオリヴィアへだろう。


「あそこに、家が」


「見えました」


 オリヴィアは答えた。


「ですが、あれはあなた一人の家ではありません」


 ヘイルは数秒黙り、それから頷いた。


「そうだな」


 否定しなかった。もうそれで十分だった。


     *


 地上へ戻ったとき、整灯の夜は終わりかけていた。


 街では小さな騒ぎがいくつも起きていたが、壊滅にはほど遠い。返納の列でふらついた人々は橋の途中や家の前で目を覚まし、自分がどこまで来ていたのかも知らずに困惑している。沈んだはずの灯がいくつも港へ浮かび、舟べりへ帰り着いていた。失踪していた者の何人かは、塔の基部や旧保守坑道で眠るように見つかった。


 海を見れば、常灯塔の光は昨夜までより少しだけ柔らかい。白いが、押しつけがましくない。道を示すだけの灯になっている。遠い沖でも、今ならちゃんと帰り道として見えるだろう。


 ヴェルグ硝灯工房へ報せに戻ると、ガスパールは店先で待っていた。三人、いや四人の顔を数えて、老人はただ一度深く息を吐く。


「戻ったか」


「なんとか」


 セラが答える。


「塔は生きてる。旧街も、たぶん」


「上出来だ」


 ガスパールはそう言ってから、エッダを見た。


「帳面は?」


「あります」


「じゃあ寝る前に写せ。忘れる前に」


「ええ」


 再会の第一声としては色気がなかったが、エッダは少しだけ目を潤ませて笑った。レオがそれを見て呆れたように肩をすくめる。


「爺さん、そういうとこだぞ」


「うるさい。記録は寝ると抜ける」


「それもそうだけど」


 オリヴィアは杖を軽く持ち直した。琥珀の水晶はほぼ空だが、完全な空ではない。底の方に、ごく微かな白い粒が残っている。少女の花びらに似た、小さな残光だった。魔力と呼べるほどではない。ただ、確かにある。


 ガスパールがそれに気づいたのか、気づかないふりをしたのか、判別しがたい顔で棚の奥から小箱を出した。


「ほら」


 差し出されたのは、乳白色の小さな導灯だった。昨夜貸したものよりさらに小さく、掌の中央へすっぽり収まるくらいの大きさ。波模様が一本だけ彫られている。


「返せるなら返せと言ったが、今回は返さなくていい」


「よろしいのですか」


「次の迷子を照らせ」


 老人はぶっきらぼうに言う。


「空の器でも、器なら役に立つ」


 その言い回しに、オリヴィアはほんの少しだけ目を細めた。


「ありがとうございます」


「礼は街に言え」


「街にも、後ほど」


 レオが吹き出す。


「後ほどって。誰に?」


「未定です」


「そういうとこ好きだよ、俺」


 セラは苦笑し、エッダは帳面を抱えたままオリヴィアへ向き直った。


「助かりました。……私だけじゃなく、たぶん街も」


「問題が解決したなら何よりです」


「それ、あなたの口から聞くと報告書みたいね」


「事実確認は重要です」


「真顔で言うんだもの」


 彼女も笑う。疲れているのに、昨夜よりずっと楽そうだった。


 そのやり取りを見ていたヘイルは、店の外で監視の係員に挟まれながら、静かに目を閉じた。弁解の言葉はもう口にしない。必要なら今後するのだろう。少なくとも今は、街の灯が自分の足でそれぞれの家へ戻っていくのを見ているだけだった。


     *


 夜と朝の境目が薄れるころ、港の霧がゆっくり晴れはじめた。


 オリヴィアは一人で桟橋へ出た。昨夜最初に降り立った古い桟橋ではなく、もっと街の中央に近い、使われている橋だ。小舟が揺れ、漁の準備をする声が聞こえる。日常へ戻る音だった。


 海面に、ひとつの灯が浮いていた。


 貝殻模様の、小さなガラス灯。だが今回は沈まない。波の上で軽く揺れ、しばらくして近くの船縁へ自分から触れるように寄っていった。若い漁師がそれを見つけて、「戻った」と笑う。その笑顔を見て、オリヴィアは胸の奥の空白に小さな温度が落ちるのを感じた。


 灯が戻る。


 それだけのことが、こんなにも静かなのかと少し思う。


「ここにいたか」


 後ろからセラの声がした。振り返ると、彼女だけでなくレオとエッダもいる。レオは相変わらず寝不足の顔で、エッダは帳面を脇に抱え、セラは徹夜明けなのに姿勢が崩れていない。


「探しました」


 オリヴィアが言うと、レオが苦笑する。


「こっちの台詞だっての。礼くらい言わせろ」


「先ほどいただきました」


「それとは別」


 レオは頭を掻き、それからやや真面目な顔になる。


「助かった。姉貴も、俺も」


 エッダが横で小さく頷く。


「ええ。本当に」


 セラは少し離れた位置で海を見たまま言った。


「観察眼の鋭い人間には、やっぱりあんたが普通じゃないってわかる」


「そうですか」


「でもまあ、それで助かった」


 彼女はそこでようやく振り向く。


「今後もそうなんだろう?」


 その問いに、オリヴィアはほんのわずか迷った。説明を長くする必要はない。たぶん、この街の人々もそれを求めてはいない。


「はい。おそらく」


「なら」


 セラは肩をすくめた。


「次の街でも、同意はちゃんと取るんだね」


「もちろんです」


「そこはぶれないんだ」


「大事なことですので」


 レオが笑う。


「ほんと真面目だな」


 そのとき、潮風のなかにひと筋、白い冷気が混じった。


 オリヴィアだけが気づく。世界の継ぎ目が、静かに開きはじめていた。役目が終わったのだ。いつも通り、前触れは最小限。気づかなければ、そのまま霧に紛れて足元へ現れていたかもしれない。


 オリヴィアは三人を見た。


「どうやら、私はそろそろ失礼するようです」


「……失礼?」


 レオが眉をひそめる。


「帰るってことか」


「はい」


「どこへ」


「遠方です」


「またそれか」


 彼は呆れた顔をしたあと、結局笑った。エッダも首を振る。セラだけが、何か察したように目を細める。


「帰る場所、あるんだね」


 その問いは、昨夜までの彼女なら少し答えにくかったかもしれない。


 オリヴィアは海面に映る朝の光を見た。上を照らす白い灯、下を静かに守る青白い灯。そのどちらとも違う、夜明け前のあいまいな色。


「……まだ、よくわかりません」


 正直に言うと、レオが「だろうな」と笑った。失礼なようでいて、どこか優しい笑いだった。


「でも、また迷ったら来いよ」


「呼べる方法はありません」


「そこは雰囲気で何とか」


「雰囲気では困ります」


「真顔で言うなって」


 オリヴィアは小さな導灯をポーチへしまい、杖を持ち直す。


「皆さんの灯が、今後も正しい場所へ戻ることを願っています」


「報告書じゃなくて、今のはだいぶ綺麗だったよ」


 エッダが言った。


「そうでしょうか」


「そうよ」


 セラが短く頷く。


 風が吹く。霧が白く裂け、その向こうに、誰にも見えない回廊の入口が開いた。


 オリヴィアは一礼した。


「それでは」


「お元気で、って言っとくべきなのかね」


 セラの言葉に、オリヴィアは少しだけ考えた。


「努力します」


 レオが今度こそ声を上げて笑う。その笑い声を最後に、彼女は一歩下がった。


 白い光が視界を包む。


 港の匂い、ガラスの灯、朝の船声が遠ざかる。その寸前、胸の奥の空白で、ごく小さな何かがふわりと揺れた。魔力ではない。灯心とも違う。名づけるにはまだ曖昧な、けれど昨日までの完全な空白とは少しだけ違う感触。


 空なのではない。受けるために空けたのだ。


 ならば、そこに何が入るのかは、まだ決まっていないのだろう。


 オリヴィアは白い回廊へ戻りながら、ポーチの中の小さな導灯へそっと触れた。


 そのガラスは、微かな体温を残していた。

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