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2話「帰る場所の地図」

 夜が明けても、常灯塔の白い光は消えなかった。


 借りた部屋の窓は海に面していて、オリヴィアは目覚めてすぐ、その灯を見た。正確には、眠りが浅く終わっただけだった。彼女はときどき夢を見るが、この夜は何もなかった。ただ、水底の少女の声だけが、目を閉じるたびに同じ輪郭で浮かび上がった。


 ――灯のない人。


 部屋の隅、椅子に立てかけた杖の琥珀色の水晶へ視線を落とす。レオとセラから借りた灯心は、すでにだいぶ薄くなっていた。それでも完全には消えていない。青緑と銀青が、ごく小さな泡のように水晶の底で揺れている。


 街の人間は皆、自分の内に小さな灯を持っている。


 昨夜聞いたその言葉は、奇妙なほど静かに胸へ残っていた。自分の胸には何もないと、オリヴィアは昔から知っている。何もないからこそ、どの世界の術式にも触れられる。何もないからこそ、こうして渡り歩ける。


 けれど、“ない”ことを、この街では別の名前で呼ぶらしい。


 扉が三度、規則正しく叩かれた。


「オリヴィア。起きてるか」


 セラの声だった。


「はい」


 返事をして扉を開けると、廊下にはすでにレオもいた。彼は寝癖をごまかす気もないまま壁にもたれ、片手に紙包みを持っている。目の下に薄い隈があった。


「おはようございます」


「おはよ。……って言っていい朝か微妙だけど」


「朝ではあります」


「そういう返しするよなあ、ほんと」


 レオが苦笑し、紙包みを差し出す。まだ温かいパンだった。塩気のある白身魚と香草が挟んである。


「歩きながらで悪いけど。工房街の爺さん、昼前には店閉める」


「ありがとうございます」


 セラは階段のほうへ顎をしゃくった。


「行くよ。昨夜のこと、口の軽い連中に先回りされたくない」


 宿を出ると、街はすでに働きはじめていた。朝靄は薄く、湿った石畳に淡い日差しが落ちている。軒先の灯はまだ残っていたが、夜よりは弱く見える。人々は店を開ける前に、それぞれのランプへ指先を当てていた。祈るようでもあり、挨拶のようでもあった。小さな子どもでさえ、当たり前の動作としてそれをしている。


 オリヴィアはそれを横目で見ながら歩いた。


「皆さん、毎朝あのように?」


 レオが頷く。


「朝継ぎ。家の灯に“今日も帰る”って言わせるんだよ。別にやんなくても死ぬわけじゃないけど、やらないと落ち着かない」


「灯は言葉を理解するのですか」


「言葉っていうか、癖かな。うちの街の灯は、人の癖をよく覚える」


「あなたの灯は落ち着きがありませんでした」


「昨夜の話?」


「はい。跳ねるような術式になりましたので」


 セラが横で吹き出した。


「言われてるよ」


「いや、わかってたけどさ。面と向かって評価されると地味に刺さるな」


「事実です」


「そこを濁さないのがすごい」


 工房街は港の東側、高い煙突が何本も並ぶ一角にあった。溶けたガラスの匂いと石炭の熱、濡れた砂の気配。開け放たれた工房のなかでは、職人たちが長い吹き竿を回し、赤く柔らかいガラスを膨らませている。吊るされたランプの殻が朝日を受けて、軒ごとに違う色を返していた。


 セラが迷いなく細い路地へ入る。突き当たりの二階建て、古い煉瓦の建物の前で立ち止まった。看板には白く擦れた文字で、**ヴェルグ硝灯工房**とある。


「ここだ」


 中へ入ると、鈴ではなくガラス同士の触れ合う乾いた音が鳴った。


 店内は薄暗く、天井から大小さまざまな灯が吊り下がっていた。緑、琥珀、青、乳白。壁一面の棚にガラス瓶と金具、研磨剤、真鍮の枠。奥では小さな炉が赤く息をしている。その熱の前に、老人が一人いた。


 白髪というより灰色の髪を後ろへ撫でつけ、鼻梁の高い顔に深い皺が刻まれている。片方の目は白く濁っていたが、もう片方は妙に鋭かった。彼は火ばさみを置き、レオを見るより先にオリヴィアを見た。


「……なんだい、それは」


 第一声がそれだった。


 レオが肩をすくめる。


「おはようもなし?」


「要るか。お前は昨日も見た」


 老人は顎をしゃくった。


「そっちだよ。妙に見慣れんのに、見てるうちに“まあ旅人か”へ収まろうとする。雑な加護を被せてるのは誰だ」


 オリヴィアは一拍置いた。


「ご慧眼です」


「褒めてない」


「承知しています」


 老人は鼻を鳴らした。


「セラ、面白いのを連れてきたな」


「面白いかは知らない。使えるのは確かだよ」


「便利な紹介だねぇ」


 老人の声には、呆れと興味が半分ずつ混じっていた。彼はエプロンで手を拭い、作業台の上を片づける。


「ガスパール・ヴェルグだ。古い灯の修理と、うるさい客の相手をしてる」


「オリヴィアです」


「レオから聞いた。昨夜、港で術を使った嬢ちゃんだろ」


「はい」


「ふむ」


 ガスパールの視線が、彼女の杖に止まる。二股の先の琥珀とエメラルドに、濁った片目ではなく、澄んだほうの目を細めた。


「借り灯きだな」


 レオが目を丸くする。


「見ただけでわかるのか」


「長くこの街でガラス吹いてりゃ、わかることもある。どのみち普通の術師じゃない。灯心が杖に寄ってる」


 そこで老人は、不意に言葉を切った。オリヴィアの胸元を見たまま、少しだけ眉を寄せる。


「……あんた、自前の灯はどうした」


 レオとセラが同時にオリヴィアを見る。


 店のどこかで、冷えたガラスがぴちりと鳴った。


 オリヴィアは正直に答えた。


「持っていません」


 ガスパールの白くないほうの目が細まる。


「生まれつきか」


「そのようなものです」


「へえ」


 それ以上は聞かなかった。聞かなかったが、驚きはしたらしい。老人はゆっくり息を吐き、椅子を足で寄せる。


「座れ。立ち話で済む顔してない」


     *


 話は、昨夜の出来事から始まった。


 十三番桟橋。十三度鳴った鐘。海の底に見えた旧い街。エッダの姿。灯のない人、と少女に呼ばれたことまで、必要な部分だけをオリヴィアが淡々と告げる。レオはときどき補足し、セラは昨夜引き上げた貝殻模様の灯を作業台へ置いた。


 ガスパールは途中で一度も茶々を入れなかった。ただ指先で真鍮の枠を撫で、灯の底に残った塩を嗅ぎ、最後に小さく舌打ちした。


「最悪だ」


「率直ですね」


「こういう時に飾る意味があるか」


 ガスパールは灯を持ち上げ、朝の光に透かした。


「これを作ったのはわしの親方だ。三十年以上前、まだ旧街の意匠を再現する注文が多かった頃の品だな。貝殻模様は、沈む前の海沿い区画の印だった」


「海沿い区画?」


 セラが訊く。


「今の港の真下にあった街だ。大昔の話じゃない。わしの祖母は、あそこから逃げてきた口でな」


 レオが身を乗り出す。


「ほんとに沈んだ街があるのか」


「あるとも。正確には、半分沈んで半分埋めた。地盤が落ちたんだよ。潮の流れも変わった。街ごと残すには危険すぎたから、上に新しい港を重ねた」


「じゃあ昨夜見たのは――」


「わからん」


 老人はきっぱり言った。


「見間違いで済ませたい気持ちはある。だが済まないだろうな。十三鐘なんぞ、昔話の合図だ」


 オリヴィアが視線を上げる。


「昔話、とは」


 ガスパールは少し考え、棚の上の錆びた小箱を取った。中から薄い冊子が出てくる。紙は黄ばんで角が丸くなっていた。


「子ども向けの唄みたいなもんだ。旧街が沈んだ夜、鐘が十二より一つ多く鳴った。帰れない者たちのために、灯が水の中でも燃えつづけた――ってな」


「帰れない者たち、ですか」


「家へ帰れなかったのか、家そのものが沈んだのか。そこは唄によって違う。いい加減な伝承だ」


 レオは顎を引く。


「姉貴が調べてたのも、その旧街のことだったのかも」


「たぶんな」


 ガスパールは作業台の引き出しを探り、くしゃくしゃになった紙片を一枚出した。


「これ、あの娘が置いてった」


 エッダの字だよ、とレオが先に言った。受け取る前からわかったらしい。


 紙は潮を吸って、半分ほど文字が滲んでいる。走り書きの数字、地名らしき断片、線が何本か。オリヴィアは紙を覗き込んだが、判読できる部分は少なかった。


『十三……白灯……返納量……合わない』


『工房四区……碑……』


 そこまでが限界だ。


「昨夜持っていかれた灯と同じ型を見て、エッダがここに来たんだ」


 ガスパールが言う。


「塔の台帳を見てるうち、おかしな数字に気づいたらしい。常灯塔へ納める灯材の量と、街へ戻るはずの灯の量が合わない。計算が消えてる箇所もあるってな」


「常灯塔、ですか」


 セラの声が低くなる。


「監灯局が絡んでる?」


「断言はしない。だがエッダは、塔の白灯が“何かを食っている”と考えてた」


 店の空気が少しだけ重くなった。


 オリヴィアは紙片へ指を伸ばし、止める。


「読み取ることはできます。ただし、少しお力をお借りしたいです」


 レオが即座に手を上げる。


「いいよ」


「まだ何も聞いてないだろう」


 セラが呆れる。


「聞くまでもない。読むんだろ?」


「読むだけです」


 オリヴィアは頷いた。


「紙に残った灯の癖と、書き手の意図の痕跡を拾います。完全ではありませんが、滲んだ文字を補える可能性があります」


 ガスパールが唸る。


「そんな芸当があるのか」


「術式としてはあります。相性次第です」


「相性、ねえ……」


 老人はオリヴィアをしばらく見てから、ふっと鼻で笑った。


「面白い。わしのも使え」


「ありがとうございます」


 セラは半拍遅れて手を差し出した。


「私のも。どうせ最後までつき合う羽目なんだろうしね」


 オリヴィアは一人ずつ明確な同意を確かめたうえで、杖の琥珀に三人の灯心を受けた。


 レオの青緑は相変わらず跳ねる。セラの銀青は細く冷えている。ガスパールの灯は濃い琥珀で、炉の奥に残る炭火のようにじわりと熱かった。年季の入った職人の光だった。


 三つが琥珀の水晶で重なる。


 オリヴィアは紙片の上へ杖先をかざした。


「拾墨」


 エメラルドが、静かに明るくなる。


 滲んだインクがひとりでに震えた。紙の繊維に染み込んだ塩が、細かな光を返す。そこへ三つの灯心が触れると、消えた線の輪郭だけが薄く持ち上がった。跳ねる光が抜けた文字をつなぎ、鋭い光がかすれを切り出し、温かな光が紙の奥から筆圧を拾い上げる。


 レオが息を呑む。


 紙の上に、失われていた文が浮かび上がった。


『白灯は塔の上ではなく、下から来ている』


『返納された灯が、夜ごと十三番へ落ちる』


『旧保守坑道 工房四区 排水碑の裏』


『もし私が戻らなければ、塔の鏡板を外して』


『あれはもう、街を照らしていない』


 最後の一行がくっきり現れた瞬間、店内の吊り灯が一斉にかすかに揺れた。


 誰もすぐには口を開かなかった。


 先に動いたのはレオだった。紙を掴みそうになって、ぎりぎりで止める。


「姉貴の字だ」


「ええ」


 オリヴィアが答える。


「筆圧の癖も同じです」


「そんなとこまでわかるのか」


「はい」


 レオはしばらく黙り、それから額に手を当てた。


「塔を止めろって……どういうことだよ」


「鏡板、というのは?」


 オリヴィアがガスパールへ向くと、老人は嫌なものを飲み込んだ顔で言った。


「常灯塔の大レンズだ。外海へ光を飛ばすための、白ガラスの鏡板。何層も重ねてる。あれがあるから、塔の灯はあの距離でも沈まない」


「壊せば止まるのですか」


「乱暴に言えばな。だが塔に近づける人間は限られてる」


 セラが腕を組む。


「監灯局の許可がいる。しかも最近は警備が増えた。夜警の私でも内部には入れない」


「増えたのは、いつからです」


「失踪が増えてから少しして。表向きは密輸対策」


「実際は?」


「さあね」


 そこで、店の入口のベル代わりのガラス音が鳴った。


 四人の視線が同時にそちらへ向く。


 入ってきたのは、紺と白の制服を着た男だった。年は三十代半ばほど、髪はきっちり撫でつけられ、胸元の徽章が朝日を拾っている。笑ってはいるが、目元だけが妙に疲れて見えた。後ろに監灯局の若い係員を二人連れている。


「やあ、ヴェルグ親方。朝早くから失礼」


 声音は柔らかい。だが店の空気は一瞬で冷えた。


 セラが低く言う。


「監灯官ヘイル」


 男――ヘイルは彼女へ軽く会釈し、それからレオを見た。


「また勝手な詮索をしているのかい、青年」


「詮索で済んでりゃ苦労しない」


「お姉さんの件なら、こちらでも捜索中だ。焦る気持ちはわかるが」


「わかってる顔して言うなよ」


 レオが吐き捨てる。セラが半歩前に出た。


「何の用です」


「昨夜、十三番で回収された灯があると聞いてね。管理上、監灯局で預かりたい」


「もう記録は取った。必要なら正式書類を出しな」


 セラの返答に、ヘイルの笑みがほんの少しだけ薄くなる。


「融通が利かないな」


「職務なので」


「君の職務は港の警らだろう。灯の異常は局の管轄だ」


「失踪は港の案件でもある」


 二人のあいだに見えない刃が立つ。


 ヘイルはそこで初めて、オリヴィアへ視線を移した。認識の補完が働いているはずなのに、彼の目は一瞬だけその表面を滑らず引っかかった。


「……見ない顔だ」


「旅人です」


 オリヴィアが答えると、彼は笑う。


「この街に来る観光客は、だいたいもっと楽しそうな顔をしている」


「目的が観光ではありませんので」


「そうか。では何のために?」


「今は回答を控えます」


 店の奥で、ガスパールが小さく咳払いした。


「うちの客に尋問するのはやめろ、ヘイル。買うなら買え、買わないなら帰れ」


 ヘイルは老人を見、それ以上は追及しなかった。ただ作業台の上の紙片へ、ほんのわずかに視線を落とした。オリヴィアはその一瞬を見逃さない。


「……あまり妙な噂を広げないでほしい」


 彼は穏やかな声で言った。


「旧街だの十三鐘だの、人を不安にさせるだけだ。港は今、重要な時期でね。常灯塔の運用も繊細になっている」


「繊細?」


 オリヴィアが問う。


「少しばかり、灯の調律が必要なのです」


 ヘイルの目が細まる。


「術師殿かな?」


「そのようなものです」


「それは頼もしい。だが素人判断で塔へ近づくのは勧めない。街の灯は、一つ歯車が狂えば連鎖しますから」


 言い残し、彼は踵を返した。係員たちも続く。ガラス音が鳴り、扉が閉まる。


 沈黙。


 最初に舌打ちしたのはガスパールだった。


「調律だと。下手くそが触ると、こういう言い回しだけは覚える」


「知ってるのか、あいつ」


 レオが問う。


「塔育ちだよ。昔はわしの工房にも出入りしてた。いい目をしてたが、今は曇った」


 ガスパールは紙片をたたみ、レオへ渡した。


「急げ。エッダが残した場所は本物だろう。ヘイルも何か勘づいてる」


 セラが頷く。


「低潮は日没後。まだ時間がある」


「ならその前に、碑を見つけましょう」


 オリヴィアが言うと、三人の視線が集まった。


「入口の確認です。使える術の準備も必要です」


「準備?」


「下へ降りるなら、道が水と馴染みすぎている可能性があります。こちら側の法則に少しだけ寄せる必要がある」


 レオが半分わからない顔で笑う。


「つまり、あんたがいないと困るってこと?」


「だいたいそうです」


「すごく素直だな」


「事実ですので」


     *


 工房四区の排水碑は、路地裏の突き当たりにあった。


 使われなくなった排水路の上へ、古い石碑が据えられている。表面には海獣と灯柱の浮彫り。潮と煤で黒ずみ、通りがかっただけではただの飾り石にしか見えない。だが裏へ回ると、基部の石組みに新しい傷がいくつもあった。誰かが最近動かした跡だ。


 セラが腰を落とし、指で継ぎ目を探る。


「ここだね」


 押し込むと、石の一部がわずかに沈んだ。碑の横の地面で、小さく錆びついた音がする。蓋になっていた鉄板が半寸ほど浮き上がった。


 レオが眉を上げる。


「姉貴、こんなとこ見つけてたのか」


「記録係を甘く見るな」


 セラが答え、鉄板の縁へ短剣を差し入れて持ち上げる。下には暗い階段が続いていた。湿った空気が吹き上がってくる。海と金属、そして古いガラスの匂いがした。


「今はまだ満ちてる。入るのは夜だ」


 セラは蓋を元へ戻しながら、オリヴィアを見た。


「準備って、何がいる」


「案内灯が一つ。可能なら、旧い型のものを」


「それならある」


 ガスパールが自慢でもするように、鼻を鳴らした。


「お前らが来る前に用意してた。嫌な予感が当たるのは年寄りの特権だ」


 工房へ戻ると、老人は奥の棚から細長い箱を持ってきた。中には、乳白色の小さなランプが収められている。掌に乗るほどの大きさで、表面に細い波模様が彫られていた。


「導灯だ。保守坑道を歩く職人が使ってた。今の灯より帰巣性が弱い代わり、流れの向きに敏感だ」


「借りても?」


「返せるならな」


「努力します」


「努力で済ませるな」


 レオが笑い、セラはこめかみを押さえた。


 オリヴィアは導灯を受け取る。中にはまだ、かすかな灯が残っていた。古いが、消えてはいない。丁寧に扱われてきた光だとわかる。


 そのとき、ガスパールが不意に言った。


「あんた、灯が見えるんだな」


 オリヴィアは導灯から目を上げた。


「見えます」


「人のも?」


「場合によります」


「そうか」


 老人は少しだけ視線を落とした。


「なら覚えておけ。この街の灯心は、魂そのものじゃない。だが、無関係でもない。切り分けた癖や願いが長く外に出すぎると、人間のほうも空洞になる」


 店の炉が、ぱちりと鳴る。


「沈む灯ばかり気にするな。持ち主も見ろ」


 オリヴィアは数秒黙った。


「……承知しました」


 ガスパールは彼女の返事の薄さを責めなかった。責めるかわりに、掌を差し出した。


「もうひとつ持っていけ。わしの灯だ。使いどころが来たら勝手に使え」


「事前同意として受け取ります」


「律儀だねえ」


 老人の灯は、先ほどより多めに杖へ移された。濃い琥珀が水晶の中で静かに沈む。古い工房の熱、物を繕い続けてきた手の癖。安定した光だった。


     *


 日が傾くまでのあいだ、三人はそれぞれの用意をした。


 セラは港の巡回経路を調整し、夜の目を少しだけ別の場所へ向ける。レオは小舟の手配と、濡れても困らない綱や工具を集めた。オリヴィアは借りた灯心を杖の中で整え、導灯の揺れを読み、常灯塔の光を何度も遠くから観察した。


 白い灯は、夕方になるにつれて強さを増した。


 だが近くの屋根や海面へ落ちる色は、白というより薄い青に近い。潮の底で長く眠ったガラスが返す色だった。昼にヘイルが言った“調律”という言葉を思い出し、オリヴィアは杖先の二股で空気を撫でた。塔の光は、この街の法則とわずかに擦れている。まるで、本来もっと下にあるべきものを無理に持ち上げているようだった。


 日没後、街は再び灯で満ちた。


 だが昨夜より、人々の顔は硬い。港でひとつ灯が沈んだことは、もう噂になっているのだろう。橋を渡る者たちは足早で、家ごとの朝継ぎのような仕草を今度は夜の灯にもしていた。


 低潮の刻、三人は路地裏の排水碑で落ち合った。


 セラが先に周囲を見回し、蓋を開ける。


「誰にも見られてない。行くよ」


 鉄の階段は狭く、下へ行くほど冷えた。最後の一段を降りると、煉瓦造りの横穴へ出る。天井は低く、ところどころ塩の結晶が白く固まっていた。遠くで水の音が反響している。古い配管と排水溝が交差し、壁には消えかけた数字と矢印が残っていた。


 オリヴィアは導灯へ、ガスパールの灯心を少しだけ移す。乳白のランプにじんわり熱が戻り、波模様の隙間から細い光が漏れた。導灯の明かりは、まっすぐ前だけでなく、右の壁へ少し長く伸びている。


「こちらです」


「わかるのか」


「流れの癖が出ています」


 レオが感心したように口笛を鳴らしかけ、セラに睨まれてやめた。


 通路の途中、足元に新しい擦れ跡がいくつもあった。靴底の細い溝。レオがしゃがみこむ。


「姉貴のだ」


「見分けられるのですか」


「家族だからってのもあるけど、これ、左だけ少し減り方が違う。昔、階段から落ちて足痛めてたから」


 彼の言葉に、通路の空気が少しだけ現実へ寄る。失踪者ではなく、生活のある一人の人間の足跡だ。


 先へ進むと、行き止まりに見える煉瓦壁へ出た。だが導灯の光は、そこで揺れた。見えない継ぎ目がある。


 セラが壁面を探り、丸い金具を見つける。引くが、動かない。


「錆びついてる」


「壊しますか」


 オリヴィアが訊くと、セラは首を振った。


「できれば静かに」


「承知しました」


 彼女は杖を掲げる。


「お二人とも。もう一度、お力を」


「もちろん」


「いいよ」


 許可の言葉を受け、オリヴィアはレオとセラの灯心を薄く借りる。琥珀の水晶で、ガスパールの熱い光に二つが重なった。跳ねる潮、切り分ける刃、繕う火。


 錆びた金具へ杖先を向ける。


「解環」


 術は音を立てなかった。金具の周囲だけ、塩と錆がぱらぱらと粉になって落ちる。レオの性質が混ざって、最後にひと跳ねだけ余計に外れ、危うく金具ごと飛びそうになったのを、セラの鋭さが押し留めた。


「今の、わざとじゃないですよね」


 レオがぼそりと言う。


「半分はあなたです」


「そうきたか」


 壁が、内側へわずかに開いた。


 向こうはさらに古い石造りの通路だった。煉瓦ではなく、灰色の切石。床には薄く海水がたまり、壁には真鍮の灯具が等間隔に並んでいる。そのどれにも火はない。だがガラスだけは澄んでいた。最近、誰かが拭いたように。


 セラの手が剣の柄へかかる。


「……誰か、使ってる」


「監灯局か」


「あるいはエッダさん本人」


 オリヴィアが先へ出る。導灯の光は今度、石の床に淡い筋を描いた。まるで見えない流れがそこを通っているように。


 通路はゆるやかに下っていた。


 時々、壁の向こうから低い唸りが聞こえる。海の圧なのか、もっと大きな何かなのか、判別がつかない。進むほど空気は冷えるのに、灯だけは明るくなるようだった。


 やがて三人は、円形の小部屋へ出た。


 中央に古い作業台。壁沿いに棚。棚には、使われなくなった導灯が整然と並んでいる。どれも古い型だ。そのうちいくつかには、つい最近触れた指の跡が残っていた。


「ここ、保守員の控室だ」


 セラが低く言う。


「子どもの頃、似た図面を見たことがある」


 レオは棚を見回し、ひとつの釘に引っかかった布切れを見つけた。青い縞の入った、見覚えのある布だろう。彼の顔が強張る。


「姉貴のスカーフだ」


 その近くの作業台に、何かが置かれていた。


 薄い帳面。乾ききらないインク壺。削ったばかりの鉛筆。ついさっきまで誰かがここにいたような並び方だ。


 レオが駆け寄る。


「エッダ!」


 返事はない。


 だが帳面の最初の頁に、走り書きの文字があった。レオより先に、オリヴィアがその文字列を追う。


『読んだ人へ』


『追って来るなら、塔を先に止めて』


『白灯は帰る場所をひとつにしてしまう』


『みんな、下を“家”だと思いはじめてる』


『もう時間がない』


 その下に、さらに新しいインクで一行だけ、強く書き足されていた。


『今夜、鏡板がひらく』


 セラが顔を上げる。


「鏡板が、ひらく?」


「どういう意味だ」


 レオが帳面を握りしめる。紙が震えていた。


 そのとき、部屋の奥の壁で、かすかな音がした。


 水滴の落ちる音ではない。小さな爪先が石を蹴るような、乾いた足音。


 三人が同時に振り向く。


 控室のさらに奥、半開きの鉄扉があった。さっきまでは閉じていたはずなのに、今は指一本ぶんほど開いている。そこから白い光が細く漏れていた。常灯塔の灯と同じ色だ。


 そして扉の前の床には、小さなガラス灯がひとつ置かれている。


 丸い灯だ。中では白い花びらのような光が舞っていた。


 昨夜、水底で少女が抱えていたものと同じだった。


 オリヴィアは一歩、前へ出る。


 空気がわずかに変わった。海の匂いが消え、かわりに雨の前のような静かな冷たさが満ちる。


 白い灯のガラスに、こちら側の三人の姿が映る。


 レオ。セラ。そして、オリヴィア。


 だが次の瞬間、ガラスの映り込みが入れ替わった。


 そこにいたのは、濡れていない古い街路だった。石畳。灯柱。水のない空気。そして灯を抱えた、あの少女。


 彼女はガラスの向こうから、まっすぐオリヴィアを見ていた。


『遅いわ』


 声は、すぐ耳元で鳴った。


 レオとセラも聞こえたらしく、息を呑む音が重なる。


『あの人が、上を開ける前に来て』


 少女はそう言って、ほんの少しだけ困ったように眉を寄せた。


『でないと、今度は街じゅうの灯が沈む』


 白い光がぶつりと途切れる。


 鉄扉が、向こう側からひとりでに閉まった。


 その衝撃で控室の古い導灯が一斉に鳴り、遠く、地上のどこかで鐘がひとつ鳴った。まだ十三ではない。ただの時報のはずなのに、三人とも動かなかった。


 オリヴィアは閉じた扉の前まで歩き、手袋越しに冷たい鉄へ触れる。


 向こうから、かすかに大きな機械が回るような音がした。


 常灯塔の白い光は、この地下に繋がっている。


 そして今夜、その何かが“開く”。


 神託の曖昧さは、まだ霧のままだ。けれど問題の輪郭だけは、急速に明るくなりはじめていた。


「塔へ行きます」


 オリヴィアは振り返らずに言った。


「その前に、ここも開ける必要があります」


 レオが掠れた声で問う。


「二手に分かれる気か?」


「いいえ」


 オリヴィアは答えた。


「できるだけ、誰も置いていきたくありません」


 セラが短く息を吐く。


「難題を平然と言うね」


「難しいことは承知しています」


「それも知ってる」


 背後で帳面の頁が風もないのにめくれた。


 次の頁には、エッダの手で簡単な見取り図が描かれている。旧保守坑道、地下の白灯室、そして海上の常灯塔を結ぶ一本の線。線の脇に、小さく書き添えられた言葉があった。


『鍵は、灯のないひと』


 レオとセラの視線が、同時にオリヴィアへ向く。


 彼女はその文字を見つめたまま、ほんのわずかに瞬いた。


 胸の奥の空白が、またひやりと冷えた。だが今度は、それだけではなかった。形のないものが、そこでかすかに脈打ったようにも思えた。気のせいかもしれない。そうでないかもしれない。


 どちらにせよ、確かめる暇はない。


 地上のどこかで、二度目の鐘が鳴った。

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