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1話「沈まない灯」

 神託は、いつも短すぎる。


 白い回廊に立つたび、オリヴィアはそう思う。壁も床も天井も曖昧で、ただ光だけが形を持っているような場所だった。足音は吸い込まれ、吐く息さえ遠くへ届かない。人のために整えられた空間ではない。世界と世界の継ぎ目、その余白に近い。


 今回も、声は一つきりだった。


『沈まない灯が、いちばん先に溺れる』


 オリヴィアは数拍置いてから、静かに瞬いた。


「逆説的です。少なくとも、私にはそのように聞こえます」


 返事はない。


 いつものことだった。


 誰の声かも定かでない。男とも女ともつかず、年齢も感情も削ぎ落とされた響きだけが残る。問い返しても、説明は続かない。一文だけ渡されて、あとは現地で見ろということらしい。


 オリヴィアは長い杖の石突きを白い床へ軽く触れさせた。琥珀色の水晶は空のまま、静かに眠っている。彼女の内側にもまた、いつも通り、何もなかった。


「承知しました」


 そう告げる必要は、本当はないのかもしれない。けれど、黙って歩き出すのはどうにも落ち着かなかった。


 回廊の先に、夜の色をした裂け目が開く。塩気を帯びた風が吹き込んだ。


 オリヴィアは緑のケープの裾を押さえ、そのまま一歩を踏み出した。


     *


 最初に感じたのは、海の匂いだった。


 次いで、油と金属、濡れた石。耳に届くのは低い鐘の音と、水のきしむようなさざめき。空は暮れか夜明けか判じがたい青緑で、街じゅうに灯るガラス灯が薄い霧を染めていた。


 オリヴィアが降り立ったのは、使われていないらしい古い桟橋の端だった。足元の板は潮を吸って黒ずみ、ところどころ真鍮の鋲が鈍く光る。見渡せば、湾を囲うように石造りの建物が立ち並び、その窓には緑や琥珀のガラスがはめ込まれている。橋が幾重にも重なり、小舟が行き交い、吊り下げられた無数のランプが風に揺れた。


 海都――という言葉が、いちばん近い。


 ただ、どこか奇妙だった。水面が暗い鏡のように滑らかすぎる。波はあるのに、砕け方が静かだ。見ていると、底の方から淡い光がゆっくりと浮かび、また沈んでいく。


 オリヴィアは杖を持ち上げ、先端の二股のあいだで小さく空気を撫でた。調律の感触を確かめる。世界ごとに、術の癖は違う。火が重たい世界、言葉が物質になる世界、祈りが病のように感染する世界。ここは――。


 光と潮。


 その二つがひどく近い。


 なるほど、とオリヴィアは胸の内で呟いた。だから灯なのだろうか。沈まない灯、溺れる灯。


 だが、考える時間は長く続かなかった。


「おい、右舷寄せろ! 寄せろって!」


 怒鳴り声が霧を裂いた。


 ひとつ先の船着き場で、小型の荷舟が大きく傾いていた。船首にくくりつけられていたはずの丸いガラス灯が、まるで石のように水へ沈み、つないだ綱ごと舟を引っ張っている。荷箱が崩れ、若い船頭が必死で櫂を差しているが、間に合わない。もう一人、小柄な少年が転げながら荷を押さえていた。


 周囲の人々が叫ぶ。だが誰も飛び込まない。水が深いからではない。誰も、あの沈み方を知らない顔をしていた。


 オリヴィアは桟橋を駆けた。長い脚が板の継ぎ目を軽く越える。船との距離はまだある。術なら届く。けれど彼女一人では、発動そのものができない。


 舟の脇に、別の小舟がつけられていた。そこで綱を取ろうとしていた青年が振り向く。煤けた白いシャツ、短い外套、日に焼けた頬。鳶色の髪を後ろで雑に結んでいる。驚いたように目を見開いた。


 オリヴィアは立ち止まらず、まっすぐ言った。


「少しだけ、お力をお借りしてもよろしいでしょうか」


「は?」


「許可をいただきたいのです。急いでおります」


 青年は一瞬ぽかんとし、それから沈む灯と傾く舟を見た。


「今この状況で、そんな丁寧に聞く?」


「同意が必要です」


「必要って、何に――ああもう、いい! 好きに使ってくれ!」


「感謝します」


 オリヴィアが杖を差し向けると、青年の胸元で淡い青緑の光がふっと脈打った。目に見えるほど濃い光ではない。ただ、彼の輪郭からひとすじの潮のような輝きが引き出され、杖先の琥珀色の水晶へ吸い込まれる。そこで一拍、心臓の鼓動のように明滅した。


 借りた力は、持ち主の性質を引きずる。


 今回のそれは、せっかちで、跳ねる。


 オリヴィアは杖先を返し、短く印を切った。


「結索」


 二股の先でエメラルドが閃く。次の瞬間、海面から幾筋もの細い光が立ち上がった。綱に似ているが、もっと生き物めいている。跳ねるように沈んだガラス灯へ絡みつき、くるりと巻いて、ぐいと上へ引く。


 光の綱は素直ではなく、半分遊ぶように波間を飛びはねた。青年の性質が混ざっているのだろう。だが、手綱を取るのはオリヴィアだ。彼女は眉ひとつ動かさず、軌道だけを正確に整えた。


 沈みかけた灯が水面へ引き上げられる。重さが消えたわけではないらしく、ばしゃりと黒い飛沫を上げて船腹へぶつかった。荷舟の傾きが戻る。少年が悲鳴まじりに綱を蹴り外し、船頭がなんとか体勢を立て直した。


 ひときわ大きな鐘が鳴る。


 数拍遅れて、港じゅうから安堵のざわめきが広がった。


「助かった……」


 船頭が膝をつき、青年は櫂を放り出して肩で息をした。オリヴィアは舟べりへ屈み込み、問題のガラス灯を見下ろす。真鍮の枠で囲われた緑の灯。水滴をまとっているのに、内側の炎は消えていない。細く、青白く、まるで溺れている最中の呼吸のように揺れていた。


 沈まない灯、という言葉が頭をよぎる。


 オリヴィアが手を伸ばしかけたところで、青年が先にそれを抱え上げた。


「危ないって。触るな、手ぇ切るぞ」


「ありがとうございます」


「礼を言われるようなことしたか? いや、したのか。俺の灯心、勝手に抜かれたけど」


「許可はいただきました」


「それはそうだけどさ」


 青年はまじまじとオリヴィアを見た。黄緑色の瞳が霧のなかで不思議に冴えている。プラチナブロンドの髪は潮風に乱れても整いすぎていて、緑のケープはこの港の誰の服とも似ていない。ふつうならもっと目立っていいはずなのに、見た者の認識は不思議と“旅人のひとり”あたりに落ち着いてしまう。だが、その曖昧さごと違和感として拾う人間もいる。


 彼はどうやら、その類だった。


「……あんた、どこの人?」


「遠方です」


「雑だなあ」


「正確な説明は長くなります」


「じゃあ長くして」


「今は、あの灯について伺いたいです」


 即答すると、青年はふっと吹き出した。


「本気で交渉の主導権取りにくるんだな。いいよ、立ち話もなんだ。お礼も兼ねて、茶くらい奢る。俺、レオっていう」


「オリヴィアです」


「オリヴィアさん。覚えた」


 彼――レオは灯を船着き場の係に預け、手早く周囲へ無事を告げると、オリヴィアを港沿いの石畳へ導いた。夕靄のなか、灯りが一本また一本とともっていく。どの家の軒にもガラスのランプがあり、通りの角には背の高い灯柱が立ち、橋の欄干にまで小さな光が吊るされていた。灯の街だった。文字通り、街が灯で縫われている。


 途中、レオは親指で港の沖合を示した。


「あれ、見えるか?」


 霧の向こうに、ひときわ背の高い塔がぼんやり浮かんでいる。頂に据えられた大灯が、ゆっくり回りながら海へ光を投げていた。緑でも金でもない、白に近い灯。遠くても強い。


「灯台ですね」


「常灯塔。うちの街の自慢。嵐でも落ちないし、水浸しになっても消えないって評判さ。だからまあ、さっきみたいなのがあるとみんな縁起悪がる」


「沈むはずのない灯が沈むから、ですか」


「そう。溺れ灯って呼ばれてる」


 レオは言ってから、少しだけ声を落とした。


「最近増えてるんだよ」


     *


 食堂兼酒場らしい店は、港湾労働者で賑わっていた。塩漬け魚を焼く匂い、スープの湯気、濡れた外套を乾かす熱気。奥の席に腰を下ろすと、レオが勝手知ったる様子で二人分の温かいスープと黒パンを頼んだ。


 オリヴィアは座ってから杖を膝へ立てかけ、琥珀の水晶をそっと確認する。先ほど借りた光がまだ薄く残っていた。海色の光だ。じっとしていても落ち着かず、今にもどこかへ走っていきそうな気配がある。


「それ、杖?」


 レオが顎で示す。


「はい」


「術師か」


「そのようなものです」


「そのようなものって便利だな。俺も今度使おうかな。港の取立てに『労働者のようなものです』って」


「通るのでしょうか」


「通らないだろうね」


「では、お勧めしません」


 レオはしばらく黙ったあと、腹を抱えて笑った。


「駄目だ、あんた面白い」


「私は真面目です」


「わかってるよ。わかってるから面白いんだ」


 スープが運ばれてくる。魚と香草の匂いが強い。オリヴィアはひと口すすり、体の芯に熱が落ちるのを感じた。彼女の身体は寒暖に鈍いほうだが、それでも世界を渡った直後は少しだけ感覚がずれる。温かいものはありがたかった。


「それで、溺れ灯についてですが」


 オリヴィアが切り出すと、レオはパンをちぎる手を止めた。


「ほんとにぶれないなあ」


「重要だと思いましたので」


「……そうだな。俺も、そう思う」


 彼は少しだけ店内を見回してから、声を潜めた。


「港じゃ、灯はただの明かりじゃない。知ってるか? この街の人間、みんな少しずつ自分の灯心を持ってる。ほら」


 そう言ってレオは指先を立てた。爪の先ほどの小さな光が、青緑にひとつ灯る。火ではない。熱よりも、むしろ体温に近い。


「家の灯、仕事の灯、船の航灯。みんなこれを少しずつ分けて使う。だから自分の灯には持ち主の癖が出るし、帰る場所も覚える。海に落としても、ふつうは沈まない。浮いて戻ってくる」


「先ほどのものは、戻らなかった」


「石みたいにまっすぐ沈んだ」


 オリヴィアは頷いた。見間違いではない。


「いつからですか」


「一月……いや、二月前くらいからか。最初は漁師の家だけだった。次に倉庫番、荷運び、船大工。で、今は桟橋の管理人まで。灯が沈んだ家は、そのうち誰かがいなくなるって噂もある」


「噂ではなく、実際に?」


 レオは答える前にスープを飲み干した。


「俺の姉貴が、三日前から帰ってない」


 店のざわめきが遠のいたような気がした。


「港の記録係でさ。失くした荷の帳面とか、停泊許可とか、ああいうの扱ってた。最後に見たのは十三番桟橋。閉鎖中のとこだよ。最近、あそこで溺れ灯がよく上がるってんで、調べに行ったきり」


「役人は?」


「探してる、とは言ってる。けど大人が一人消えたくらいじゃ、本腰入れてくれない。自分でどっか行ったんだろって扱いだ」


 言い方は軽いが、指がパン屑を潰していた。


 オリヴィアは数秒考えた。神託、沈む灯、消えた人、閉鎖された桟橋。線はまだ細い。だが途切れてはいない。


「十三番桟橋へ案内していただけますか」


 レオは顔を上げた。


「今夜?」


「はい」


「真面目に言ってる?」


「いつも真面目です」


「そうだった」


 彼は困ったように笑い、それから小さく肩をすくめた。


「いいよ。どうせ俺も行くつもりだった」


     *


 十三番桟橋は、街の華やかな灯から少し外れた場所にあった。


 石畳は欠け、倉庫の壁は潮風で白く荒れている。吊り灯は半分以上が落ち、残っているものも曇っていた。立入禁止の鎖がいくつも渡され、古い荷車が放置されている。人気はなく、霧だけが低く流れていた。


 その入口で、レオが舌打ちする。


「先客だ」


 鎖の向こう、手燭を持った女が一人立っていた。濃紺の外套に、腰までの黒髪をひとつに束ね、細い剣を佩いている。足元の水たまりも踏み慣れている足取りだった。こちらへ灯りを向ける仕草に無駄がない。


「止まりな」


 低い声だった。


「ここから先は封鎖区域だよ」


「こんばんは、セラ」


 レオが手を上げる。女――セラは彼を見て、露骨に眉を寄せた。


「またあんたか。言っただろう、身内探しなら勝手はさせないって」


「俺だって勝手したいわけじゃない。でもさ――」


 言いかけたレオの視線が、オリヴィアへ流れる。


 セラの目も自然にそちらへ移った。


 彼女は一度、二度、オリヴィアを上から下まで見た。ケープ、ブローチ、細い手足、長い杖。普通の通行人なら、旅装か変わった術師か、その程度で処理してしまうはずだ。だがセラは処理しなかった。違和感をそのまま留める目をしていた。


「……あんたは誰?」


「オリヴィアと申します」


「この街の人間じゃないね」


「はい」


「観光客でもない」


「観光の予定はありません」


 セラは呆れたように息をついた。


「そういう意味じゃないんだけど」


「承知しています」


「承知してる顔に見えないんだよなあ……」


 レオが肩を震わせる。セラはそれを睨みつけて黙らせると、改めてオリヴィアへ向き直った。


「ここに何しに来た」


「沈む灯を見に来ました」


 言葉にすると、夜気がひときわ冷えた気がした。


 セラの表情が変わる。


「誰に聞いた」


「港で実物を一つ」


「ああ、さっきの騒ぎか」


 彼女は舌先で奥歯を鳴らした。


「なら余計に帰りな。あれは事故じゃ済まない」


「済まないから、見たいのです」


 セラはしばらく黙った。試すような沈黙だった。オリヴィアは視線を逸らさない。


 やがてセラは、持っていた手燭を少し下げた。


「五分だけだ。私の見えるところで動くなら」


「感謝します」


「礼はまだ早い」


 鎖が外される。三人は湿った板の上を進んだ。桟橋の先端近く、水面へ降ろした滑車のそばに、ひとつの網籠が置かれている。中には緑色のガラス灯があった。港で見たものと似ているが、こちらはもっと古い。胴に白い貝殻の意匠が刻まれ、真鍮の輪には名前らしき文字が打たれている。


 セラが膝をつき、籠の蓋を半分開けた。


「今夜上がったやつだ。水底から引っ掛けた」


 灯の中では、やはり火が燃えていた。しかも今度は、ガラスの内側に海水が半分ほど満ちている。水のなかで火が揺れている。理屈が、あまりにも綺麗に裏切られていた。


 オリヴィアは屈み込み、真鍮の輪を読む。


「……エッダ」


 横でレオが息を呑んだ。


「姉貴のだ」


 そう言った声は、さっきまでの軽さを完全に失っていた。


「間違いない。これ、家で使ってた予備灯だ。昔、親父が作ったやつで――」


 言葉が続かない。


 セラが低く言う。


「見つかったのは沖じゃない。桟橋の真下だ。誰かが落としたんじゃなく、自分から潜ったみたいに」


 オリヴィアは灯にそっと手を伸ばした。だが触れる寸前で止める。まだ力が足りない。残っているレオの灯心だけでは、壊さずに読み取れるか怪しかった。


「レオ」


「……うん?」


「もう一度、お力をお借りしても」


 レオは躊躇わなかった。


「好きに使え」


「明確な許可として受け取ります」


「だから、その確認が妙に律儀なんだって」


 かすれた笑いが混じる。ほんの少しだけ、緊張がゆるんだ。


 オリヴィアは杖を掲げた。琥珀の水晶が青緑を受け、今度は先ほどより深い色になる。そこへ、意外にもセラが一歩寄った。


「それ、私のも使えるのか」


「ご許可いただければ」


「危険は?」


「相性次第です。乱れる可能性はあります」


「曖昧だね」


「正直に申し上げています」


 セラは一瞬考え、それから短く頷いた。


「……持っていけ。必要なんだろ」


「ありがとうございます」


 セラの灯心は、レオのものとは違った。色は薄い銀青。冷えて澄んでいて、刃のようにまっすぐだ。二つの光が琥珀の中で触れ合い、少しだけ軋む。相性は悪くない。だが調和させるには繊細さが要る。


 オリヴィアは目を伏せ、指先で杖の柄を滑らせた。


「識れ」


 灯の輪郭が変わる。


 緑のガラスの表面に、見えないはずの潮流が線となって現れた。細い糸が、灯の底からさらに下へ、深く沈み込んでいる。水ではない。記憶に似た、場所への執着のようなものだ。


 レオが息を止める。


 セラの手燭が揺れる。


 オリヴィアの術は、借りた力の性質で結果が微妙に変わる。レオの軽さが糸を跳ねさせ、セラの鋭さが輪郭を切り出す。重なった軌跡は、海の底に何かの形を描いた。


 石段。


 街路。


 そして、看板らしき長方形の影。


「下に……道がある」


 レオが呟いた。


 セラは否定しかけて、言葉を失った。灯から伸びる糸は、確かに桟橋の真下で折れ、さらに奥へ続いている。人の通る道筋のように。


「この港の下に旧街区が沈んでいる、という話はありますか」


 オリヴィアが問う。


 セラがゆっくりと顔を上げた。


「昔の伝承なら。大潮で半分沈んだ古い街を埋め立てて、今の港を作ったって。でも、あくまで昔話だ」


「灯は帰る場所を覚える、とレオは言っていました」


「そうだけど」


「もし持ち主が“下”を帰る場所だと認識したなら、灯は沈みます」


 レオとセラが、同時に彼女を見た。


「つまり、姉貴は自分で下に行ったって言うのか」


「現時点では可能性です」


「理由もなく?」


「理由は、これから調べます」


 冷たく聞こえる言い方だと、オリヴィアは自覚していた。だが彼女は、慰めの文句を選ぶのが得意ではない。曖昧な優しさより、確かな事実を手繰り寄せるほうがよほど役に立つと知っている。


 レオは唇を引き結び、やがて小さく頷いた。


「……わかった。怒ってない。俺も知りたい」


 そのときだった。


 遠くで、鐘が鳴った。


 一つ。二つ。三つ。


 深夜にはまだ早い。だが鐘は止まらない。霧が震え、海面の暗さが粘るように濃くなる。九つ、十、十一。


 セラが振り返る。


「なんだ、この時刻に」


 十二。


 そして、ありえない十三度目が鳴り響いた。


 桟橋の下の水面が、音もなく明るくなった。


     *


 それは、水が光ったというより、黒い板ガラスに裏側から灯りが入ったような変化だった。


 海面が静かに透ける。


 誰も動けないまま、三人は下を見た。


 そこには街があった。


 ほんとうに、街だった。石を敷き詰めた道。アーチ型の窓を持つ家並み。倒れた灯柱。苔むした屋根。そのどれもが水の底にあるのに、奇妙なほど崩れていない。むしろ今の港よりよほど整然として見える。そして通りの両脇には、無数の灯が点いていた。緑、青、白、琥珀。ゆらゆらと揺れながら、確かに道を照らしている。


 人影が動いた。


 レオが欄干を掴む指に力を込める。


「……いた」


 通りを歩く女が一人。長いスカートの裾を濡らしながら、というより、水そのものを気にする様子もなく、静かに進んでいる。横顔しか見えない。それでも彼にはわかったのだろう。


「エッダ」


 叫びかけた声が、途中で凍る。


 女は振り向かなかった。周囲の灯と同じ速度で、ただ下の街へ馴染んでいく。手にはひとつのランプを提げていた。先ほど籠に入っていたものと同じ、貝殻模様の灯だ。ならばここにいるそれは何だ。上にあるのは抜け殻か、記憶か、それとも。


「待って、姉貴!」


 レオが身を乗り出しかける。セラが反射的に腕を掴んだ。


「飛ぶな!」


「放せ、見えただろ!」


「見えたから止めてるんだ!」


 二人のやり取りを、オリヴィアは半歩後ろで聞いていた。正確には、聞きながら別のものを見ていた。


 下の街の灯は、どれも人の気配に似ている。家々に宿る明かりというより、誰かの胸から切り分けられたもののようだった。あまりにも多い。あまりにも静かだ。


 そしてその中央、街のさらに奥。小さな広場のような場所に、ひときわ明るい灯があった。


 白い。


 港から見えた常灯塔の光と、色が似ていた。


 沈まない灯が、いちばん先に溺れる。


 胸の奥――正確には胸の奥にあるはずの空白が、ひやりと冷えた。


 そのとき、下の街の一角で、ひとつの影が立ち止まった。


 小さな影だった。子どもだ。背丈は十にも満たない。両手で丸いガラス灯を抱えている。灯のなかには火ではなく、白い花びらのような光がいくつも舞っていた。


 少女はゆっくりと顔を上げた。


 水底から見上げているはずなのに、その視線はまっすぐオリヴィアに届いた。


 黄緑の瞳が、わずかに見開かれる。


「……え」


 レオが何か言うより先に、少女の唇が動いた。


 水の底のはずなのに、声はすぐ耳もとで囁かれた。


『やっと来たのね』


 セラが手燭を取り落とす。炎が石板の上で転がった。


『灯のない人』


 オリヴィアは黙って少女を見返した。


 灯のない人。


 その呼び方は、誰かに与えられた名前より、よほど深く彼女の内側へ落ちた。


 下の街の灯が一斉に揺れる。海面の透明さがひび割れるように曇り、景色が崩れていく。レオが叫び、セラが彼の襟を引いた。次の瞬間、海はただの黒い水へ戻っていた。


 残ったのは、十三度目の鐘の余韻だけ。


 桟橋に重い沈黙が落ちる。


 最初に口を開いたのはセラだった。声が掠れている。


「……今の、見たか」


「はい」


 オリヴィアは答えた。


「よく見えました」


「俺の姉貴が、いた」


 レオの言葉は祈りにも呪いにも聞こえた。


「いたんだよな、今の……幻じゃないよな」


「幻ではないと思います」


 オリヴィアは杖を握り直した。琥珀の水晶の中で、借りた二つの灯心がまだ揺れている。レオの焦り、セラの警戒。そのどちらも、彼女の掌を通じて静かに伝わってきた。


 そして、あの少女の言葉も。


 灯のない人。


 この世界の人間は、皆、自分の内に小さな光を持っている。家へ帰る灯、名前に応える灯、海に沈んでもなお燃える灯。ならば、自分は何だろうと、ほんの一瞬だけ思う。


 彼女の内には最初から何もない。借りて、満たして、使い切れば、また空になる。


 それでも。


「明日、もう一度ここへ来ます」


 オリヴィアは静かに言った。


「下の街へ降りる方法を探します」


 レオが顔を上げる。セラは険しい目のまま、しかし否定しなかった。


「簡単に言うね」


「難しいことは理解しています」


「そういう意味じゃ――いや、そういう意味でもあるけど」


 セラは額を押さえ、長く息を吐いた。


「……協力者がいる。古い灯のことなら、たぶんあの老人だ。朝になったら工房街へ行く。あんたたちも来な」


「承知しました」


 レオが乾いた笑いを漏らす。


「もう決まりかよ」


「反対ですか」


「するわけないだろ。ここまで見せられて」


 彼は海を見下ろした。暗い水面には、もう何も映っていない。だがその奥へ、心の一部を持っていかれたような顔をしていた。


 オリヴィアも同じ場所を見る。


 神託はいつも短すぎる。


 けれど今回は、少しだけ親切だったのかもしれない。沈まない灯は、確かにここにある。そして、それはもう溺れはじめている。


 風が吹き、霧の切れ間から遠くの常灯塔が見えた。


 白い灯が、沖の闇のなかで静かに燃えていた。

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