第26話 〜算段〜
一月の最終週。
時計の変化は、一時的なものではなかった。
毎日、二回から三回。
多い日は四回。
不規則に、だが確実に、時計は熱くなった。
パターンを記録した。
スマートフォンのメモ帳に、発動した時刻と内容を書き留めていく。
一月二十日(月):朝7:15(中山競馬→月曜は開催なし。映像は土曜の分か?)→発動せず。午後14:20(川崎競輪・昼)→的中。
一月二十一日(火):朝7:30(大井競馬・ナイター分)→的中。午前11:05(平和島競艇)→的中。
一月二十二日(水):朝7:45→発動せず。午後13:15(京王閣競輪)→的中。午後17:40(大井競馬ナイター)→的中。
*(法則が見えてきた。朝に必ず来るわけじゃない。その時間帯に、どこかで開催されている競技があるかどうかで変わる。月曜の朝にJRA中央競馬の映像が来ないのは当然だ。やってないんだから)*
*(つまり、時計は「賭けられるもの」がある時に反応する。前は一日一回、翌日のメインレースだけだった。今は、リアルタイムで近い時間帯の勝負を拾ってる感覚だ)*
二週間で、この変化のルールをほぼ掴んだ。
一つ。
発動は一日に二回から四回。
五回以上はまだない。
二つ。
発動のタイミングは不定だが、次の勝負の一時間から三時間前に来ることが多い。
三つ。
映像の鮮明さにムラがある。
はっきり見える時と、少しぼやける時がある。
ぼやけている時は、確度が下がるかもしれない。
だから、鮮明な時だけ勝負する。
四つ。
以前のように「朝握って確認する」というルーティンは使えない。
時計がいつ熱くなるかわからないから、常に身につけておく必要がある。
この二週間の収支。
ギャンブルだけで約二千三百万円。
以前の一日一回のペースなら、月に五百万から八百万がせいぜいだった。
それが二週間で二千万を超えた。
*(ペースが変わった。完全に。でも、このまま国内で続けるのは限界がある)*
---
二月三日。
月曜日。
事務所。
山下さんのデスクの前に座った。
山下さんは、俺が何か相談がある時に座る位置を知っている。
デスクの横ではなく、正面。
正面に座ると「真剣な話がある」というサインだ。
「山下さん、相談があります」
「承ります」
「大田区の工場の件、本格的に動きたいと思ってます」
山下さんの表情は変わらなかった。
メモ帳を開いて、ペンを持った。
「買収を前提としたデューデリジェンスをご希望ですか」
「はい。工場の財務状況、資産、負債、従業員の雇用条件。全部洗い出してほしいです」
「承知いたしました。中島様には直接お話しされていますか」
「まだ正式には。ただ、前回の訪問で、買いたいという意向は伝えてあります」
「左様ですか」
山下さんがペンを走らせた。
数秒で何行かのメモが並ぶ。
「率直に申し上げます。現在のKY Holdingsの資金規模で、製造業の買収は負担が大きいです。買収金額に加え、設備投資、運転資金、研究開発費が必要になります。概算で一億五千万から二億円程度と見積もっています」
「足りないですよね、今の手持ちだと」
「個人資金と法人資金を合算しても、手元流動性を確保した上での余剰は六千万から七千万程度です。不足分は最低でも八千万。余裕を持つなら一億」
数字は正直だった。
山下さんの計算に、甘さはない。
「山下さん。一億、作れる方法があります」
「お聞きします」
「海外でのポーカーです」
山下さんのペンが一瞬止まった。
目が少しだけ細くなった。
それが山下さんの「驚き」の表現だと、俺は知っていた。
「四月のマカオの件と同じですか」
「規模は違います。ラスベガスのキャッシュゲーム。ステークスは高め。一週間から十日間」
「……海外でのギャンブル収益は一時所得として課税されます。五十パーセントの特別控除の後、残額が他の所得と合算されますので、実効税率はおよそ四十パーセント前後になります」
「つまり、手取り一億を残すには、一億六千万くらい勝つ必要がある」
「概算ではそのようになります」
山下さんがペンを置いた。
「桐島さん。率直にお聞きしてよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「一億六千万をポーカーで勝てる、という確信はどこから来ているのですか」
沈黙が落ちた。
山下さんの目が、俺を見ている。
穏やかだが、鋭い。
この人は嘘を見抜く。
だから、嘘は言わない。
だが、全てを言うこともできない。
「直感です」
「直感」
「今までの実績を見てください。マカオでも、国内でも、ギャンブルで大きく負けたことは一度もない。直感という言い方が気に入らなければ、確率的優位性と言い換えてもいいです」
山下さんはしばらく黙っていた。
ペンを回している。
考えている時の癖だ。
「わかりました。渡航の手配と、税務上の準備を進めます。ただし、一つだけ条件を」
「何ですか」
「損失の上限を設定してください。万が一、想定通りにいかなかった場合に、会社の運転資金に影響が出ない範囲に。個人資金の三十パーセント、つまり二千四百万を上限とする。それ以上負けた場合は、即座に撤退する」
「了解です」
「それと、海外口座の開設が必要です。ラスベガスのカジノで高額のキャッシュゲームに参加するには、カジノ口座に事前にデポジットを入れる形になります」
「任せます。山下さんの判断で進めてください」
「承知いたしました」
山下さんがメモ帳を閉じた。
閉じる音が、静かだった。
---
その週の金曜日。
夜。
ふくろうのカウンターに座っていた。
金曜の夜のふくろうは、少しだけ客が多い。
常連が三人。
初めて見る若いカップルが一組。
福田さんがカウンターの中で、いつものように穏やかに動いている。
桑原さんが来た。
いつもの時間より少し遅い。
コートを脱いで、マフラーを外して、いつもの席に座った。
俺の三つ隣。
「こんばんは、桑原さん」
「こんばんは、遊馬さん」
福田さんが桑原さんの前にグラスを置いた。
白ワイン。
桑原さんはいつも白ワインだ。
「遊馬さん、お仕事帰りですか」
「まあ、一応。最近はずっと仕事してるような、してないような」
「経営者はそういうものだと聞きますね」
「桑原さんは?」
「私は今日、締め切りを一つ出しました」
「おめでとうございます」
「ありがとうございます。でも、次がもう来てるんですけどね」
桑原さんが小さく笑った。
翻訳者の仕事は、一つ終わればすぐ次が来る。
区切りがあるようで、ない。
俺はハイボールを飲んだ。
桑原さんはワインを飲んだ。
しばらく、それぞれの飲み物を楽しんだ。
ふくろうのこういう時間が好きだった。
話さなくてもいい。
黙っていても居心地が悪くならない。
桑原さんと福田さんがいるこの空間は、タワーマンションの五十階よりも、ずっと地に足がついている。
「遊馬さん」
「はい」
「最近、何か変わりましたか」
「……変わったって?」
「うまく言えないんですけど。前より、考え事が多い顔をしてる気がして」
鋭い。
この人は、声ではなく表情を読む人だ。
「まあ、仕事のことでいろいろ考えてることはありますね。海外に出張する予定もあったりして」
「海外。お忙しいんですね」
「忙しいのは嫌いじゃないんで」
「遊馬さんらしい」
桑原さんがワインを口に運んだ。
その横顔を見ていた。
カウンターの灯りが、桑原さんの髪に反射している。
「桑原さん」
「はい」
「今度、ここじゃないところでご飯でも行きません? ちゃんとしたレストランとか」
自分でも、少し意外な言葉だった。
でも、不自然ではなかった。
この距離感なら、そう言ってもおかしくない時期だった。
桑原さんが少し驚いた顔をした。
でも、嫌な顔ではなかった。
「……いいですよ」
「本当ですか。じゃあ、場所考えておきます」
「遊馬さんが選ぶお店、楽しみにしてます」
桑原さんは微かに笑って、またワインに口をつけた。
福田さんがカウンターの向こうから、こちらを一瞬だけ見た。
何も言わなかった。
でも、口元が少しだけ緩んでいるように見えた。
---
二月に入ると、山下さんは二つの仕事を並行で進めていた。
一つはナカジマ精工のデューデリジェンス。
財務資料の取り寄せ。
不動産の調査。
設備の簿価と実勢価格の乖離。
特許の評価。
もう一つは、ラスベガス渡航の準備。
カジノのVIPホスト経由でのテーブル確保。
海外送金の手配。
税務上の処理の事前整理。
山下さんは、どちらの仕事も同じ温度でこなしていた。
町工場の決算書もラスベガスのカジノの規約も、同じ目で読む人だった。
二月中旬。
山下さんからデューデリジェンスの中間報告が上がってきた。
事務所の会議室。
俺と山下さんと西村の三人。
「まず、ナカジマ精工の財務状況です」
山下さんがA4の資料を配った。
「直近三期の売上は年間八千万から九千万で推移。ただし、決算書上の営業利益率はマイナス二パーセントからプラス一パーセントで、見かけは収支トントンですが、税理士による期末調整を差し引くと、実態は三期連続の赤字です。赤字の幅は年間三百万から五百万程度」
「赤字か」
「はい。借入金残高は三千二百万円。金融機関からの借入が二千万、残りは政策金融公庫と中島様個人からの貸付金の振替です。返済は月次で進んでいますが、新規借入で補填している部分もあり、実質的には増減均衡の状態です」
「それで回してきたんですね」
「中島様が役員報酬をほぼ取られていないこと、ご自身が毎朝五時から夜九時まで現場に立っておられることで、人件費が大きく圧縮されています。これがなくなった瞬間、損益構造は明確な赤字に転じます」
「つまり、中島さんが現場を離れたら、すぐ破綻する構造」
「左様でございます。設備の減価償却は進んでおり、簿価はほぼゼロ。ただし、五軸マシニングセンタ一台と三次元測定器は現在も稼働しており、実勢価格で計二千万程度の価値があると見積もっています」
「不動産は?」
「工場の土地建物は中島様の個人所有です。法人所有ではありません。したがって、法人の買収と不動産の取得は別建てになります。土地の路線価ベースで約四千五百万。建物は築四十五年で価値はほぼゼロ」
「従業員は?」
「現在十四名。全員正社員。平均年齢五十八歳。退職金の積立はほぼなされていません。雇用の継承は買収条件に含める必要があります」
「山下さん、経営体制の件なんですけど」
「はい」
「中島さんの息子さん——健太郎さん。現在、川崎のメーカーで生産管理の課長です。中島さんから、健太郎さんが工場を継ぐ意向があるか、相談中です」
「左様でございますか」
「健太郎さんが継ぐ意志を示してくれたら、KY Holdingsの子会社としてナカジマ精工を存続させて、健太郎さんに雇われ社長として入ってもらう構想です。俺たちはオーナー、健太郎さんは雇われ社長。中島さんは技術顧問として残留」
「承知いたしました」
「健太郎さんの年収、現在八百万くらいだと中島さんから聞いてます。給料体系は、KY Holdingsの親会社から見た時に不自然じゃない水準で組みます。現在の年収から極端に落とさない」
「雇われ社長として、退任オプションも含めた契約書を、事前に整備いたします。お互いに逃げ道のある契約の方が、長く続きます」
「助かります」
「それと——」
山下さんが少し言葉を選んだ。
「健太郎様には、売却条件が整った上でご面談を設定されることをお勧めします。まだ何も決まっていない状態でお会いになると、健太郎様にとっても、返答に迷いが生じます」
「そうですね。中島さんの気持ちの整理と、DDの結果が出てから」
「はい」
西村が腕を組んだ。
「で、結局いくら要んの」
山下さんがページをめくった。
「法人の株式取得に三千万から四千万。不動産取得に五千万。既存借入金の精算に三千二百万。設備投資に三千万。研究開発の初期費用に五千万。運転資金の余裕を見て二千万。合計で二億一千万から二億二千万が妥当と考えます」
「二億か」
「ただし、これは全額を即時に必要とするものではありません。研究開発費と設備投資は段階的に投入可能です。初期に必要な金額は、株式取得と不動産取得と運転資金で一億二千万程度です」
*(一億二千万。手持ちから出せなくはない。でも、出したら会社の運転資金がカツカツになる。余裕を持つには、やはりラスベガスで稼ぐ必要がある)*
「山下さん。ラスベガスの方の準備はどうですか」
「三月中旬で手配を進めています。ベラージオのポーカールーム。キャッシュゲームのVIPテーブル。ブラインドは百ドル−二百ドルから五百ドル−千ドルまで対応可能です。デポジットは五十万ドルを予定しています」
「五十万ドル。七千万くらいか」
「はい。為替は渡航時点のレートで確定します」
西村が椅子にもたれかかった。
「遊馬。ラスベガスでポーカーって、マカオの時と同じだろ。で、勝てるんだろ」
「勝つよ」
「何でそこだけは自信あんの」
「直感」
「出たよ、直感」
西村は笑った。
だが、その目は笑っていなかった。
心配しているのだ。
親友として。
「西村。工場の件、お前が持ってきた話だ。責任持って最後まで付き合ってくれ」
「当たり前だろ。親父さんとの橋渡しは俺の仕事だ」
「頼む」
「任せろ」
西村が拳を突き出した。
俺も拳を合わせた。
山下さんが静かに資料をまとめた。
その手つきに、迷いはなかった。
---
二月十四日。
バレンタインデー。
アンちゃんから、チョコレートが届いた。
ゴディバの箱。
メッセージカードが入っていた。
*「遊馬くんへ。いつもありがとう。体に気をつけてね。アン」*
シンプルなメッセージ。
以前なら、直接持ってきてくれたかもしれない。
最近は、宅配で届くことが増えた。
アンちゃんとは、まだ会っている。
週に一、二回。
でも、頻度は確実に減っていた。
タワーマンションに引っ越してから、何かが変わった。
アンちゃんのほうから来ることが少なくなった。
俺のほうから誘うことも、少しずつ減っていた。
嫌いになったわけじゃない。
離れたいわけでもない。
ただ、距離感が変わった。
お互いの生活のリズムが、少しずつずれていった。
チョコレートを一つ食べた。
甘かった。
美味かった。
でも、何か物足りなかった。
何が足りないのかは、わからなかった。
スマートフォンを取って、LINEを開いた。
*「チョコありがとう。美味い。今度飯でも行こう」*
送った。
既読がつくまで、三十分かかった。
以前は、五分以内に返事が来た。
*「ありがとう! うん、行こう。来週あたりどう?」*
*「いいよ。場所考えとく」*
*「楽しみにしてる」*
画面を閉じた。
*(距離が開いてるのは、わかってる。でも、どうすればいいかがわからない。時計は未来のレース結果は教えてくれるけど、人との距離の取り方は教えてくれない)*
窓の外を見た。
二月の東京。
空気が乾いている。
遠くに富士山のシルエットが見えた。
白い雪を被っている。
ポケットの中の時計は、今日は三回、熱くなった。
三回とも的中した。
合計で六百万ほど増えた。
*(金は増える。でも、金で買えないものが少しずつ減っていく気がする。……いや、考えすぎだ。チョコ食ってセンチメンタルになってるだけだ)*
ゴディバの箱を冷蔵庫にしまった。
残りは明日食べよう。
---
**── 残高メモ(第25〜26話)──**
### 個人資金(桐島遊馬)
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(個人) | 約8,796万円 |
| 1〜2月ギャンブル収入(時計進化後・複数回発動) | +約4,800万円 |
| 個人生活費(1〜2月分) | ▲約40万円 |
| **桐島遊馬 個人資金** | **約13,556万円** |
### 法人資金(KY Holdings)
| 項目 | 金額 |
|:--|--:|
| 前話繰り越し(法人) | 約6,326.2万円 |
| アプリ収入(1〜2月分) | +約950万円 |
| 賃料収入(1〜2月分) | +約85.6万円 |
| 法人経費(1〜2月分・役員報酬/人件費/家賃等) | ▲約1,800万円 |
| 育成預託料(八十七番・1〜2月分) | ▲約30万円 |
| **KY Holdings 法人口座** | **約5,531.8万円** |




