傷ついた騎士に癒しの光を
「48、49、50、51……」
腕立て伏せが50回を超えると耐えきれない者が出てくる。
「64、65、66、67…」
回数を数える声に混じって、まだやるのか、いい加減にしろという苦しい呟きが目立つようになってきた。
しかしこの腕立て伏せはいつまで続くかわからない。
この責め苦を終わらせる権限を持つ者は、視閲台の上に立ち、延々と腕立て伏せを続ける新隊員を見下ろしている教官だけなのだ。
「そこっ、勝手にくたばるな!!71、72」
訓練に参加するシュイリュシュカも流石にきつくなってきたが、副部隊長である自分が崩れてはダメだと思い直して気合いを入れる。
別にシュイリュシュカが副部隊長だと知る者など新隊員にはいないのだが、そこは意地だ。
「88、89、90……91」
腕を痙攣させている者が地面に転がり、それを教官たちが無理矢理起こしてまた腕立て伏せをさせる地獄絵図にも怯まずシュイリュシュカは必死に食らいつく。
訓練着が汗で湿り、気持ちが悪い。
あの教官はどこの所属だろうか…若く筋骨隆々なその姿に飛び蹴りでも入れたいくらいだ。
「99、100!!…よーし、お前ら立て!!休むんじゃねぇぞ。さっさと隊列を組め」
やっと腕立て伏せ地獄から解放されたと思ったら今度は訓練場を周回する地獄の隊列走が待っていた。
この一連の流れはここ一週間の訓練でやってきたことなのでシュイリュシュカも四列縦隊に並んだ隊列の最後尾につける。
総勢100名近い長い列が掛け声と共に一斉に走り出した。
さあ、今日はいつまで走るのかしら。
昨日と一昨日は日没前に小雨が降ってきて中止になったので、今日は日没後まで走り抜くのだろうか。
もう少し経てば小雨だろうが大雨だろうが泥まみれになりながらの訓練も始まるはずだ。
「おらーっ!!前の奴から順番に掛け声をかけんかーっ!!」
隊列の横を取り囲むように並走する教官から檄が飛ぶと、新隊員たちの掛け声が大きくなる。
「なんだその声は?!聞こえんぞーっ!!」
先頭で隊列を牽引している教官が速いペースを保ったまま怒鳴り散らす声が響くが、明らかな体力の差があるため新隊員たちはついていくので精一杯だ。
シュイリュシュカは段々と落ちていく新隊員の背中を押しながら声を張り上げる。
「ほらっ、がんばって…ついていかなきゃ、騎士になるんでしょ!!」
「ひぃっ、はあ、は、はいぃ…」
隊列から遅れそうになっていた小柄な新隊員はシュイリュシュカに背中を押されて必死についていってはいるが、この様子では後数周のうちに後方で待ち受ける教官の餌食になるに違いない。
五週もしないうちにもう十名以上の新隊員が隊列から脱落していった。
しかし、それも無理はない。
彼らはつい一ヶ月前まで普通に生活を送っていたのだ。
こうして一ヶ月間集中的に激しい訓練をこなし一般人よりは格段に体力がついてきたものの、騎士に比べるとまだまだ非力だ。
ここ、ヴェルトラント皇国で騎士になるには二通りの方法がある。
一つは騎士学校に入る方法で、シュイリュシュカやアストラードは騎士学校出身のいわゆる職業騎士だ。
騎士学校は近衛騎士学校、公衛騎士学校、警務騎士学校の三校があり、学び舎が隣り合わせになっている。
警務騎士学校については、入校資格は心身共に健康な18歳から26歳までの男女で、入校試験を受けて合格しなければならない。
毎年300人程度の募集があり、半年ごとに150人ずつ入校してくるのだ。
それから約二年間、騎士としての体力作りや一般教養、魔導術の訓練、実習等を修得して、各部隊へと配属されていく。
もう一つは年に三回募集がある警務騎士の入団制度で、心身共に健康な18歳から30歳までの男女が対象となる。
簡単な筆記試験と魔導術試験、身体検査をくぐり抜けた者が、全体で毎期500人近く入団してくるのだが、この募集は各地区の地方本部ごとに行われているため現地採用といった意味合いも併せ持つ。
この場合は任期が定められており、期間は三年間で三年ごとに契約を更新するか否かを選択できるのだ。
この制度で入団した者は各地方本部に隣接する訓練施設で四ヶ月間訓練し、各部隊へと配属される。
今シュイリュシュカが共に訓練をしている新隊員は不死鳥の月の初旬に入隊したばかりであり、まだまだ体力的に騎士に及ばない者たちばかりであった。
そんな姿を見ながらシュイリュシュカは自分が騎士学校に入校したばかりの頃のことを思い出す。
決していい思い出ではなく、汗と涙と血と土にまみれた泥臭い思い出だ。
最初などは貴族であったシュイリュシュカには当然ついていけるはずもなく、直ぐに脱落して時には嘔吐もした。
しかしそれでも何とか食らいつき、辞めてしまえという教官をいつか見返してやろうと思いながらしごきに耐えた。
あの時のことを思えば今のシュイリュシュカにはこれくらいの訓練など朝飯前…と言いたいが、やはり体力が落ちているのか正直きつかった。
「よーし、今日はここまでだ。各自整理体操をしておけよ!」
何周走ったか数えてはいなかったが本当に日が暮れるまで走り続けた結果、訓練場の至るところに疲労困ぱいの体で地面に転がる新隊員の山が出来上がった。
余力のある者は整理体操まできちんと行っているが、そのほとんどが教官である。
鬼のような彼らも死屍累々の惨状を見て少しは心配になったようで、あまりに酷い状態の新隊員たちに肩を貸して寮まで連れ帰っている。
シュイリュシュカも整理体操をしながらその様子を見ていると、斜め前にいた女性新隊員が突然何かに躓いたようにばったりと倒れこんだ。
「マーシア、しっかり!!」
マーシアと呼ばれた女性のすぐ側にいた別の女性新隊員が慌てて助け起こそうとするが、彼女自身も体力の限界であるのかその場に座り込んでしまった。
「大丈夫?!歩けそうにないなら肩を貸すわ」
シュイリュシュカも流石にくたくたになってはいるが、もう少しだけ余裕がある。
何とか自力で起き上がろうとしているマーシアの手を掴もうとしたその時。
パシッ
「貴女の手なんか借りないわよ!」
シュイリュシュカはいきなり振り払われた手を持て余し言葉もなく固まった。
叩かれた手の甲が少しじんじんとしたが、そんなことよりもマーシアと呼ばれた新隊員が敵意丸出しの感情をぶつけてきたことに驚く。
一方マーシアも手を叩くつもりはなかったのか、気まずそうに視線を逸らしてよろよろと立ち上がった。
「何よ、余裕ぶって。貴女なんかに負けないんだから!!」
土の付いた訓練着を払い、まだ座り込んでいる女性新隊員を促す。
「行きましょ、プルーデンス。…貴女、特別扱いだかなんだか知らないけど、騎士はそんなに甘いものじゃないのよ」
日が落ち、薄暗くなった訓練場でもはっきりとわかるくらいのマーシアの緑の瞳がシュイリュシュカを憎々し気に見やる。
シュイリュシュカのぽかんとした目に視線がぶつかると、何も言わずにキッと睨みつけて踵を返した。
「マーシア、待って!」
フラつきながらも立ち上がったプルーデンスが歩み去るマーシアを追いかける。
彼女も立ち尽くすシュイリュシュカを振り返って眉を寄せるとそのままプイと顔を背けて寮の方向へ戻っていった。
「……何なのあれ」
一人残されたシュイリュシュカがポツリと呟く。
何か悪いことでもしただろうかと自問するも、特に接点があったわけではないので邪険にされる理由が思いつかない。
もしかしたら手を貸したことが彼女たちの自尊心を傷つけたのかもしれないが、それでは『特別扱い』という言葉の説明がつかずしっくりこなかった。
騎士はそんに甘いものじゃない…か。
マーシアの捨て台詞はシュイリュシュカが騎士学校にいた頃に散々聞いてきたものだ。
今期の募集では女性新隊員はたったの三人しかいないと聞いていたが、うち一人は既に訓練に耐え切れず辞めている。
今の二人が残った女性であるが、この二日間くらいは何故かシュイリュシュカの挨拶を無視するようになっていた。
しかし今日のように明らかな敵意ははじめてだ。
ここでシュイリュシュカの身分と階級を明かしたらどうなるのか。
ただでさえ教官たちがシュイリュシュカに遠慮している素振りが見受けられるというのに、さらなる混乱を招きそうである。
シュイリュシュカは身分と階級を隠して訓練に参加し、新隊員たちと変わらぬ訓練を受けることで短期間のうちに体力を戻そうとしているのだ。
第一特科警務部隊の副部隊長が新隊員に交じって訓練をしなければならないくらいに弱っているなどと思われたくはないというシュイリュシュカの気位もある。
何よりアストラードの命令でもあるので、穏便にことを進めたかった。
彼女たちとは立場も違うのだし、気にすることはないか。
これから残った本業を片付けなければならないことを思い出したシュイリュシュカは、汗を流すためいそいそと訓練場を後にした。
シュイリュシュカが地獄の新隊員訓練を受けていた頃、アストラードはアレンヴィル夫妻の別邸を訪ねていた。
今日はアレンヴィル男爵は不在であったため、リーリヤが出迎えてくれる。
「それでヴェストランディア卿、あの子はどうしていますの?」
「アレンヴィル夫人、私のことはアストラードとお呼びください。私に称号など有ってないようなものですので…」
シュイリュシュカを取り戻した日とは違い今度は応接間に通されたアストラードは、座り心地のよい柔らかい革張りのソファに腰を落ち着け自嘲気味に苦笑した。
「いいえ、貴方は騎士の中の騎士よ!…でも名前で呼び合う方が親しくて良いわね。わたくしのこともリーリヤと呼んでくださると嬉しいわ、アストラード」
リーリヤはアストラードにすっかり骨抜きになっているが、アストラードとしては複雑だ。
「では失礼して、リーリヤ様…シュイ嬢に関してはつつがなく騎士団に復職しました。今は体力を戻すための訓練に励んでおりますよ」
今日で一週間、午前中は副部隊長の執務をこなし午後から新隊員訓練に参加するシュイリュシュカを周囲の者は心配していたが、本人はここまで何とかやっている。
最初の二、三日は家に帰り着くなり食事もそこそこに泥のように眠っていたが、昨日などはアストラードに筋肉痛の箇所をマッサージさせるまでになっていた。
隊長の命令通りにしているんですから、少しは労ってください、とむくれたように文句を言うシュイリュシュカもとても可愛かった。
マッサージを受けて気持ちが良さそうにしている姿も堪らなかったが、そのまま眠り込んでしまった時にはアストラードも可哀想になってきた。
少しずつでいいから体力を戻していけばいいのだが。
シュイリュシュカにも自尊心があるので強くは言えないが、本当に無理をしている兆しがあれば直ぐにでも通常勤務に戻すつもりだ。
今はきついと言いながらも自分の執務を疎か(おろそか)にすることもなく、むしろ生き生きとしている。
「まあ、それは安心しました。あの子がふさぎ込んでいる姿はもう見たくはありませんからね」
「ええ、私も同感です。ところでリーリヤ様、あれから何か変わったことはございませんか?」
アストラードは今日ここに来た本題をまるで天気の話でもするかのようにさらっと尋ねた。
「変わった…ああ、あの件ね?いいえ、今のところは何もありませんわ」
シュイリュシュカの父親であるルドニコフ子爵は近いうちに、娘が騎士から『忠誠の誓い』を受けたことを知るはずである。
貴族の集まる夜会場で誓ったのだから当然と言えば当然のことだ。
そのうちにシュイリュシュカが騎士団に戻ったことも知り得るに違いない。
そうなった場合にどう出てくるのか。
警務騎士団にはアストラードが布石を打っているので直接どうこうは出来ない。
後はルドニコフ子爵の実の妹であるアレンヴィル夫人に対して圧力をかけるか、シュイリュシュカ本人と接触を図るに違いなかった。
「どう出るにせよシュイ嬢の邪魔はさせません…切り札はこちらにあるのですから」
「切り札?」
「そうです。ルドニコフ子爵が今一番欲しい情報を私が持っているのですよ…そこでリーリヤ様にお願いがあります」
「あら、わたくしに?」
「はい、リーリヤ様にしか頼めないことです」
アストラードが声を潜めると、リーリヤも辺りをキョロキョロ見回して頭をアストラードに近づける。
「リーリヤ様はシュイ嬢の兄上殿と仲がよろしかったと伺っています」
「ええ、ロディオンのことも可愛がっていましたよ。あの子も可哀想に…兄の期待が大き過ぎたのね。窮屈な家から飛び出してしまって…もう十年以上姿を見ていないわ」
リーリヤが悲しそうに顔を歪める。
聡明なロディオンは聡明過ぎたが故に期待され、それに応えようと必死になり…自由を知った途端にいなくなってしまった。
従順に見えたロディオンが実は父親を憎み、反発していると知っているのはリーリヤだけである。
彼はリーリヤにだけ自分の本当の思いを話していたのだ。
「辛いことを思い出させてしまって申し訳ありません。ですが、私の話を聞けば元気になること間違いなしですよ」
「それは本当?」
「ええ、本当です…実は………」
さらに声を潜めたアストラードの話を聞き終えたリーリヤは驚きのあまりぽかんと空いた口を慌てて両手で押さえる。
そうでもしないと叫び出しそうであった。
「本当なの?…ああ神様、何と言うこと」
「だからリーリヤ様にしか出来ないことなのです…どうかご協力を」
感極まるリーリヤに畳み掛けるようにしてアストラードが協力要請をすると、リーリヤはあっさりとそれを承諾した。
「わかりました…これもシュイリィとロディのためですものね。きっとうまくやれますわ」
それから、立てた計画についてしばらく話込んだ後、アストラードはアレンヴィル夫妻の別邸をお暇した。
アストラードをいたく気に入っているリーリヤはもう少しと引き止めたが、アストラードにも仕事がある。
時計を確認すると午後四時を回ってしまっていたので少々急ぐことにした。
シュイリュシュカが訓練から戻った時にアストラードが執務室にいないと大変なことになる。
二年半前と同じく、もしかしたらその頃より厳しくなったかもしれない彼の可愛い副官が、どこをほっつき歩いてきたんですかと目くじらを立てる姿を思い浮かべたアストラードは一人にんまりしながら、騎士団本部から乗ってきた馬を走らせた。
「で、どこをほっつき歩いてきたんですか、隊長?」
アストラードがやっとのことで執務室に戻った時には彼の可愛い副官は大層ご立腹であった。
訓練後に汗を流したのかふんわりと石鹸の香りがするが、今はそれどころではない。
アストラードの予定であれば午後四時半には執務室に戻っているはずが、時計は既に六時半を回っている。
「遅くなったのは悪いと思うが、悪いのはかっぱらい犯だからな…中々足が速くて手こずった」
「かっぱらい犯を捕まえたことは称賛に値しますが、何故隊長がトゥールーズ通りの犯行の現場に居合わせたんですか?…こんなに決裁書類を残して」
シュイリュシュカがアストラードの執務机に置いてある未決裁書類の箱をバンッと叩く。
蓋が閉まりきれないくらいに書類が入った箱にアストラードは顔をぽりぽりと掻いた。
「まあなんだ、あれだ…事件が俺を呼んでいたということだ」
アレンヴィル夫妻の別邸から帰る途中、近道をしようとトゥールーズの裏道に馬を入れた直後、事件は起こったのだ。
「かっぱらいよ〜!誰か〜っ!!」という婦人の声に顔を向けると、転んでいる老婦人の向こうに似つかわしくないバッグを提げて走り去ろうとする男の姿が見えた。
アストラードは馬の頭を男が逃げる方向に向け直すと猛然と男を追いかけたまではよかったのだが、追ってがついたことに気が付いた男が狭い裏路地に逃げ込んだのだ。
馬では不利と判断したアストラードが馬を降りて駆け出すがこの男が中々にすばしっこく、結局アストラードが張った捕縛の結界に追い込むかたちで逮捕せざるを得なかった。
さらに悪いことに多少の魔導術の心得があった男の思わぬ抵抗に遭い、結局男をボコボコにしてしまった。
駆け付けた警務騎士に引き継ごうとしたが、かっぱらい男はボコボコ、アストラードも多少の傷を作ってしまっていたので今の時間まで警務隊の執務棟で逮捕書類を作成していたという訳だ。
「まったく隊長は…困った方ですね」
シュイリュシュカも警務隊から連絡は受けており事情を知っていたのでこれ以上は咎めることは出来ない。
しかもよく見ればアストラードの腕や顔に擦り傷や打ち身がある。
「治療しますから、大人しくしてくださいね」
シュイリュシュカは溜め息を付きつつも痛々しい傷に浄化の魔導術をかけ、皮膚の再生能力を活発化させる魔導術を重ねてかけていく。
「……腕を上げたな」
暖かい魔導力の輝きに包まれた己の腕の状態を確認していたアストラードが感嘆の声を上げた。
血が滲んでいた皮膚がみるみるうちに元に戻っていき、男に殴られた口の端の鈍い痛みが消えていく。
「治癒の魔導術だけは毎日のように自分に使っていましたから…自分で自分にかけてもあまり効果はないんですけどね」
治癒の魔導術は自分で施すよりも他人の魔導力を受ける方が効き目が高い。
しかしないよりはましなので、シュイリュシュカは手術後やリハビリ中は丹念に自分で治療していた。
その成果もあって、治癒術師とまではいかなくともそこそこ高度な治癒魔導術を使えるようになっていたのだ。
「そもそも警務隊で治療してもらえなかったんですか?」
「逮捕書類を作るのが忙しくてな。やっと出来上がったと思ったらこんな時間だろう?そんな暇はなかったんだよ」
本当は警務隊で治療してもらえたのだが、アストラードは頑なに断った。
シュイリュシュカから治療を受けたいからなどとは告げることが出来ず、集中して書類を作るから邪魔はするなともっともらしい理由を付けたのだが、実際はそういうことである。
「次回はうまく立ち回ってくださいね」
「相手次第だな」
シュイリュシュカが副官となってから続いてきたこの治療の時間は、アストラードにとって何ものにも変え難いものであるのだ。
不死鳥の月……四月くらい。