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TRILOGY  作者: eleki
[#;01 B-PART]
18/18

第七章『旅立ち』

 窓の外からは、月の光が射し込んでいた。

 寝台の上で眠る顔は、安らかで、この眠りを妨げてはならないと思った。

 ずっと見てきた。次第に成長していく、日を追い美しくなる姿を。

 これからも見守っていてあげたかった。

 見守っていたかった。

 けれど――。

「さようなら、ミューザ」

 触れることもなく、別れを告げた。

 触れてしまえば、もう離すことはできないとわかっていたから。

 

     ◇◇◇

     

「さようなら、ミューザ」

 それは、もう完全な悪夢だった。

 なぜ彼が、自分に別れを告げなくてはならないのだろう。あまりの理不尽さに怒り狂いながら目を覚まし、飛び起きた。

 寝台の上に半身を起こし、辺りを見渡すとまだ闇の中。真夜中だ。

 ――嫌な胸騒ぎがする。心がざわざわと音を立てて、波打つように。

「……セルバン……?」

 名前を呼びながら、起き上がる。眠る前までそばにいてくれたはずのセルバンは、部屋のどこにも見当たらない。

 そのまま、廊下に出る。

 彼の眠っているはずの部屋のドアをノックしてみると、返事がない。

 血の気が引いていく音を、ミューザは耳許で聞いた気がした。

 力一杯にドアを開け放つ。どの程度力を入れればドアが開くのかなど、忘れてしまった。

「セルバン……」

 呆然とする。

 部屋のどこを見ても、セルバンの姿はなかった。

 身を翻して、ミューザは食堂に駆け込む。半ばで覚悟していたとおり、そこにも人影はなかった。

 理屈ではなく体でわかる。セルバンはこの家のどこにもいない。

 十五年間感じ続けた存在感なのだ。不在など、視覚に頼らずに判断できる。

「どうして――」

 だがその理由が見当たらない。

 ただの気まぐれとか、そんなものではないことはわかった。でなければ、こんな胸騒ぎはしない。

 何をすればいいのかの判断もなくして、うろうろと意味もなく歩き回る。

「どこに……そう、そうだ、捜さなきゃ。でも、ああ――どこに!?」

 ミューザは泣き顔になった。

 かぶりを振った視界の隅に、食卓が入った。正しくはその上に置かれた白い紙が、だ。

 紙をもぎ取り、ミューザは吸い込まれるようにその紙に書きつけてある文字を目で追った。

『最愛の娘 ミューザへ』

 見覚えのある綺麗な字で、そう始まっている。

『ファムスのところへ行きなさい。すべては彼に任せます。

 どうか悲しまないように、どこにいても、どんな時にでも、お父さんは君のことを見守っている』

 最後に『セルバン』と署名されたその紙から、ミューザはしばらく目を離さなかった。一読した後は、すでにその文字を見てはいなかったのに。

「何が……ッ!」

 紙を持つ手が震える。ミューザは堅く目を瞑り、何度も首を振った。

「何がお父さんよ! 何が、見守って……っ」

 ミューザは叩きつけるように手紙を食卓に置くと、寝間着のままだということを気にも掛けず、夜道へ飛び出した。靴を履くのももどかしく、裸足で走る。

 途中何度も躓きそうになりながら、夜の下を走り、森を抜け、ファムスの家へと辿り着いた。

「セルバン!」

 ドアを叩く暇もあらばこそ、ミューザは入り口のドアを力一杯開け放った。鍵は掛かっていなかった。

「セルバン、いるの?」

 いつも通されていた食卓には、誰の姿もない。ミューザは奥部屋に続くドアに目を遣り、それも音を立てて開け放つ。

「……セルバン!」

 セルバンは、いた。

 地面に石で描かれた、円の中心に佇むように。

 息を切らすミューザのことを、セルバンは緩慢な動きで見遣った。

「……ミューザ……、来てしまったんだね。朝まで眠っていてほしかった」

 困ったように微笑むセルバンから少し離れた壁際に、椅子に座ったファムスの姿がある。暗いのでよくは見えないが、消耗しきった表情をしているようだった。

「セルバン……」

 部屋の中は、外界からの光を拒んでいた。

 円のあちこちに据えられた蝋燭の光が、足許からセルバンの姿を照らし出している。

 ぞっとするくらい、セルバンの顔には力がなかった。体から精気が感じられない。寒気がするほど――それは、死期の迫った者の顔だった。

「やだ……いやだよ、セルバン」

 足が、全身がガクガクと震える。ミューザは恐怖のあまり、気が遠くなっていった。現実のこととして、目の前のものが映らない。

 この数日で見たどんな怖ろしい事実よりも、今の状況が耐えきれないほどに怖い。

「入っては駄目だよ。出ていきなさい」

「嫌! 帰ろう、ねえ帰ろうよセルバン! こんなの嫌だ!」

「お願いだ、ミューザ。見られたくないんだ、僕が死ぬところなんて」

「嘘! 死ぬわけなんてないでしょう? 嘘をついちゃ嫌!」

「……見てほしくないんだよ。頼むから、ここを出ておいで」

 そう言いながら、セルバンの体は不自然にぐらついている。立っていられるのは気力だけのおかげだ。

 ファムスは、無言でミューザを見遣った。口の中で何ごとかを呟く。

 ミューザが涙を流す目を閉じ、ゆっくりと床に崩れるのと、セルバンが激しく吐血して倒れ伏すのが同時だった。

「果たしてどちらが倖せなのか」

 ファムスは呟き、立ち上がった。

 最愛の者の死に様を間近で見届けるのと、見ずにすむのと。

 すでにファムスは、右足の足首から下も喪っている。他の部分も、腐敗が進みつつあった。ミューザがこの場所に姿を現してから、顔の反面も崩れ始めてしまった。

 ファムスはどうにかして歩み、再び口の中で呪文を唱えた。

 ふわりと、ミューザの体が浮き上がり、静かに部屋を出て行く。手を触れず彼女の出て行ったドアを閉じると、ファムスは陣の中心まで歩んだ。その過程で、以前はファムスの体を構成していたものが液状になり、泡立ちながら流れ落ちる。

 顔の片側は完全に朽ちた。

 ファムスはセルバンの遺体のそばに跪くと、その半身を起こさせた。セルバンの体の前面が血で汚れている。だが静かな死に顔だった。

 ファムスはセルバンの顔についた血液を、着ていた服で拭い取ってやると、彼から手を離し自分は立ち上がった。

 これからが大仕事なのだ。


     ◇◇◇

     

 目が覚めた時、自分がいる場所がどこなのか把握するのに、かなりの時間がかかった。

 自分の部屋ではない。セルバンの部屋でも、居間でも――

(ああ)

 そうか、と納得した。ここは、ファムスの家なのだ。

 昨夜のことははっきりと覚えていた。夜中に目を覚まし、隣人の家までやってきた。そして。

「……」

 自分が横たわっているのが寝台だとわかると、ミューザは体を起こした。見渡した部屋は、とても閑散としていた。必要最低限のものしかない。

「起きたのか」

 声がして、ミューザはその方に目を遣った。

 朝日が射し込む窓の方を向き、ミューザに背を向けている後ろ姿をみつける。

「……悪趣味ね、ずいぶん」

「ああ。おれもそう思う」

 答えた声は、愛想というものをどこかに忘れてしまったような、投げやりな口調。

 薄い茶色の髪を、大雑把にまとめて結わえてある。服は、見たこともない黒衣だった。長身だがひょろりとしていて、少し頼りない体つき。

「……どうして」

 声が同じだった。姿が同じだった。

 だから、間違えっこないのだ。これは、セルバンではない。ミューザが心から愛した、大好きだったセルバンではないのだ。

 振り返る、見慣れたはずのその顔は、穏やかで優しい微笑を浮かべてはくれない。無表情でミューザを見返している。

 絶叫したかった。泣いてしまいたかった。

 なのにミューザは、ただ疲れた表情で寝台に座っているだけだ。

「驚かないんだな」

 ファムスは、セルバンの声で訊ねた。

「死んだもの、あの人は。それなのに動いているなら、それはセルバンじゃないわ」

 口を動かしているのは誰だろう、とミューザは不思議に思った。よく知っている声に似ている。

 自分の声だ。自分は、今、喋っているのだろうか。

「セルバンから言い出したのね、きっと。自分の体をあげるって。……あの人らしいな、魔導士に体を譲るなんて。聖職者のくせにね」

「責めてもいいんだぞ。詰る権利くらいはあるはずだ」

 ファムスの言葉に、ミューザは首を振った。

「セルバンが望んだんでしょう。でなければ、あの人なら死んでも自分の体を乗っ取られたりなんてしないわ。自分で自分の体を焼くくらいは、平気でやる人だもの」

 言うと、ミューザは体を揺らした。ふ、ふ、と息を吐き出すように笑う。

 ファムスがわずかに眉をひそめた。

「ひどい話だわ。最期に愛してるの一言くらいあってもいいと思わない?」

 くすくすと、ミューザは声を上げて笑い出した。

「こんなふうに放り出して――」

 顔を伏せ、しばらく肩を揺らしていたミューザは、言葉を途切れさせ、ただ息を吐き出した。

 両手の拳を振り上げ、寝台に叩きつける。

「……こんなのってないじゃない! どうしてあたしを置いていくの!? ひとりで勝手に死んでしまうなんて狡い、最期くらいそばにいさせてくれないなんてひどいじゃない! 苦しかったら、苦しいって言ってくれれば抱き締めてあげるくらいはできたのに!」

 全身から絞り出すように、ミューザが叫ぶ。

 ファムスは黙って、大声で泣くミューザのことをみつめていた。


     ◇◇◇


「……落ち着いたか」

 絶叫が啜り泣きに変わる頃、ファムスはようやく声を発した。

 ミューザの泣き声を聞いているのは、正直拷問に近かった。手に入れたばかりの身が切られるように痛かった。それでもこの場を逃げ出すことが、ファムスには何となくできなかった。

「……落ち着いた」

 虚勢であったとしても、ミューザはとりあえず頷いた。両目を手の甲で拭いながら顔を上げた時、瞼が赤く腫れ上がっていた。

「理由は聞かせてもらえるわよね。どうしてセルバンがファムスに体を譲ったのか」

 泣きすぎで声は嗄れていたが、思いのほかしっかりとした眼差しで、ミューザはファムスを見上げた。

 芯の強い少女なのだろうと、ファムスは改めて感じた。泣きわめきはするが、それで何かが変わることなどないのを知っているのだ。悲しみだけに我を忘れ、考えることをやめるようなやわな人間ではないらしい。

 それがいささか、ファムスには哀れにも思えたが。

(おれが哀れむ筋合いじゃない)

 ファムスは、ミューザがきちんと話に耳を傾け、飲み込むことのできる状態であることを確認すると、昨日自分がセルバンから聞いた話を彼女に告げた。

 十五年前のできごと。

 ミューザの出生の秘密。

 ――自分の正体。

 そしてこれから、自分たちが何を為すべきか。

「じゃあ……その、聖剣を探すのね、これから」

 驚きもしたし、何度も『信じられない』と言ったような表情にもなったが、ファムスの話を聞き終えたミューザは、はっきりとした口調と眼差しでそう言った。

「いまいち真実味に乏しいけど……セルバンがそう言ったのなら、あたしは信じるわ。何でもやってあげるわよ。それがあの人の望みならね」

 言い切るミューザに、ファムスは感嘆の眼差しを向けた。

 大したやつだ、と思った。

 こんなにすごい女は、今まで見たことがない。

「じゃあ、おまえもグーマーだかそれに代わる魔導士だかの退治に乗り出すのか」

「あたりまえじゃない、そんなこと」

 ミューザはファムスの問いに、こともなげに頷いた。

「別に、このまま平穏無事に暮らしていっても構わないんだぞ。たとえ国が滅びたって、他にも住める場所はいくらでもある。へたな使命感に燃えて、人生投げ出すこともないんだ」

「使命とか、そんなもの関係ないわよ。あたしの正体が守護聖女だろうが単なる女の子だろうがどうでもいいの。この場合重要なのは、セルバンがあたしにそうしてほしいと望んでるってことだもの。だから、あたしは行くわ。剣を捜し出して、あなたと、妖霊を操っているっていう黒魔導士を倒す。平穏無事な人生なんて、その後いくらでも送れるんだから」

「死ぬかもしれないんだぞ。楽な仕事ではない」

「構わないわ、それならセルバンに会える時期が早くなるだけだから。――死ぬのなんて怖くないの。セルバンが先に待っているんだもの。怖いことなんてあるはずないわ」

「……そうか」

 ファムスは静かに頷きを返した。

 セルバンにとって、ミューザのこの気性は、何物にも代え難い大切なものだったに違いない。残り少ない生命の中で、彼女は光にも見えただろう。

 わかるのだ。この体はセルバンのもの。

 彼の脳が、全身が、ファムスに記憶を伝えるのだ。

 彼がいかにミューザのことを愛していたのか。

もちろん、それは娘としてや、彼が保護すべき守護聖女としての想いではない。純粋に、ひとりの人格としてミューザを愛していた。

 いつまでもそばにいて、見守りたいと全身が願っていた。

 セルバンの体にファムスが術を使って入り込んだ時、彼の体にもっとも強く残っていたのはミューザに対する愛情だった。

 だが、ファムスはそれをミューザに告げる気はない。『愛している』と口にするのは、セルバンでなくてはならないのだ。彼の顔を、姿を、声を保つファムスだったが――だからこそ、その姿でミューザに告げてはならないのだ。

 それはただひとり、セルバンにだけ与えられた権利だったのだから。

「そうとなったら、早く支度をしなくっちゃね」

「気が早いな」

 寝台から降りるミューザを、ファムスは我に返って見遣った。

 ミューザは少しだけ困ったように笑った。

「何かやらなくちゃいけないこののある方が、今のあたしにはありがたいもの」

 辛くないわけではない。あたりまえだ。

 それでも彼女は笑って見せるのだ。

「いろいろい、整理したり、することがあるんじゃないのか。荷物とか――」

 遺品、という言葉はファムスには口にできなかった。

「いいの。だって、あなたがいるでしょう?」

「……そうだな」

 あらためて、ファムスは自らの魂を入れた『器』を見た。

 心臓は動いていない。呼吸も必要ない。だが、元が人間のものなので、昨日までの『人形』とは違い、陽光を浴びても大丈夫だ。ミューザのそばにいても、苦痛は感じない。むしろ、彼女がそばにあることがあまりにも自然だった。セルバンの体の記憶なのかもしれない。

「あ、そうだ」

 旅支度をするため、ファムスの部屋を出ようとしたミューザは、思い出したようにファムスを振り返った。

「あなたのこと、カナン様とか、王子様って呼ぶべきなのかしら」

「……よしてくれ。背中がむずがゆくなる」

「よかった、強制されても呼ぶ気なんてさらさらなかったから」

 にこ、と笑ってミューザは部屋を出て行った。

 ファムスは思わず苦笑を浮かべる。

「たいした女だよ、おまえの娘はさ……」

 元の体の持ち主に、そう語りかける。答えはなかったが、もし彼が聞いていたとしたら、笑顔で「当然ですね」とくらい返してくれるだろうか。

 ひとつ溜息をつくと、ファムスは自分も旅の支度を始めるために動き出す。

 簡単な旅にはならないと、覚悟はしておいた。


     ◇◇◇

     

 自分が町を離れることを聞いて、きっとひどく泣くだろうとミューザは覚悟していたのに、マナは意外なほど落ち着いた様子で微笑んでいた。

「そう、ミューザも、行ってしまうのね」

 マナは学校を休んでいたが、ようやく熱も下がって起き出せるようになった。

 彼女を誘い、よく学校帰りに寄った、ドモスの美しい景色が見渡せる丘にミューザは向かった。

 途中でレスマインの家に寄り、こちらも町を出る支度をしていたエリスバートも誘って。

「そんな気がしていたの。遅かれ早かれ、ミューザはここを出て行くんじゃないかって」

「マナ……」

 マナは丘から街の方を眺め、ミューザの顔を見ないようにしている。

「ぼくも、今晩中にはドモスを出て行くよ」

 マナの隣に並び、エリスバートも彼女と同じ方を見渡した。

「こんなに早く?」

 自分もすぐに発つとふたりに告げておきながら、ミューザはエリスバートの言葉に驚いた。

 エリスバートが苦笑気味、頷く。

「ルカや、他の人たちに合わせる顔がない。みんな、優しくしてくれるけど……」

「……」

 我に返ったルカや死んだ子供の母親、そして町の人々は、決してエリスバートやクレディスを責めることなく、リエインを口汚く罵ることもなく、ただ淡々と町を清め、新しい領主を迎えるための準備に没頭していた。

「クレディスは親戚の居る町に引き取られることになった。ぼくは少し早いけど、試験を受けて寮のある上級学校に行くつもりだ。クレディスの行くことになる家が、援助してくれることになったから。感謝しなくちゃいけない」

 リエインの治めていた領地も、財産も、すべて国に召し上げられた。わずかに残ったエリスバートやクレディス個人のものは、すべて死んだ者たちを弔うために手放したらしい。

「……頑張って。きみならきっと試験に受かるわ、エリス」

「もちろん。きみと同じ学校に入って、寝る間も惜しんで勉強したからね」

 悪戯っぽく笑うエリスバートに、ミューザも自然と笑顔を返せた。

「きみはどこに行くんだ、ミューザ。セルバン先生と一緒に発つんだろ」

「うん……行き先はまだ、決まっていないんだけど」

 旅立つ目的は、もちろんふたりには話せない。

 少なくとも、今は。

「手紙をくれる? ミューザ」

 堪えきれず、目に一杯の涙を溜めたマナが、それでも笑ってミューザを振り返った。

「もちろん。必ず出すわ。それに……いつか必ず、ドモスに帰って来る」

 とうとう泣き出してしまったマナの肩を抱き、ミューザもドモスの景色を見下ろした。

 十五年過ごした町。

 セルバンと暮らした場所。

「……わたし、神学校に入ることにしたの」

 涙に声を震わせながら、マナがミューザを見上げて言った。

「父様も母様も反対しているけれど、でも、頑張って説得する。わたしの力でも誰かが救えるように、頑張って勉強するわ」

「マナなら、できるわ」

 おとなしいマナが両親に逆らうのは、きっと辛く勇気のいったことだろう。

 だけどミューザは、そんな友人を心から誇りに思う。

「エリスも。きっとまたここで会いましょう。みんな行き先は違ってしまうけど、帰る場所は一緒だわ」

「うん、でもミューザ」

 まじめな声で呼びかけたエリスバートを、ミューザが首を傾げて見返す。

「え?」

「次に会う時は、その名前で呼ぶなよ」

「……」

 三人とも顔を見合わせて、とうとう、一緒になって吹き出した。

 明るい笑い声が丘に満ちる。

「――そろそろ、行くわ」

 立ち止まってしまえば、この場所から動けない気がして、ミューザは残る気持ちを振り払うようにふたりへそう告げた。

「うん」

 頷いて、マナとエリスバートは、丘を降りる道筋までミューザと一緒に歩いた。

「ここでいいわ。町の入口で、セルバンが待ってるから大丈夫」

 荷物はすべて、ファムスに預けてあった。大した量じゃない。

 振り向いたミューザの前で、マナと、エリスバートが彼女をみつめる。

「……いつでもあなたのために祈るわ、ミューザ」

「きみに、世界中からの祝福と加護を」

 祈りの詞を告げるふたりの頬へ、ミューザは順番に接吻けた。

「さようならマナ、バーティ。幸運を」

 笑って手を振るミューザを、マナとエリスバートは静かに見送った。

 まっすぐに背筋を伸ばしたミューザの後ろ姿が、丘の下へと見えなくなっていく。

「いいの? バーティ」

 小さく訊ねたマナの言葉の意味が、エリスバートにはすぐわかった。

 結局、ミューザに気持ちを伝えないままだった。

「いいんだ」

 自分でも不思議なほど晴れ晴れした気分で、心から、エリスバートはそう言った。

 ミューザはきっと、高いところへ向かう存在な気がする。

 だから――今はまだ。

「ぼくはまだ、彼女に一度も勝ったことがないから」

 言って、エリスバートはマナに笑ってみせた。

「今度会う時には、絶対、ミューザを負かしてやるぜ。そしたら、言うよ」

 くすくすと、マナが濡れた瞳で笑い声を立てる。

 空は春らしく、鮮やかに晴れ渡っていた。

 ミューザの姿は、もうふたりの目には届かなくなっていた。


     ◇◇◇


「まずは、やっぱり首都に向かうべきなのかしらね」

 ドモスを出て、街道沿いをファムスと並んで歩きながら、ミューザは問いかけた。

「バーンズか……まあ、この姿なら大丈夫かもしれないな」

 複雑な気分でファムスは相槌を打つ。あの場所にはいろいろとこだわりのようなものがあるのだ。

 曖昧な調子で呟いたファムスを、ミューザは隣を歩きながら見上げた。相変わらず鬱陶しい黒ずくめ、手ぶらに等しい出で立ち。荷物は少なく、家は面倒なのでファムスの手で破壊してしまった。これで、謎の美青年・ファムスは、妖霊にでもやられ、死んでしまったことになるだろう。

「そういえばさ」

 セルバンの服は自分が持ってきたから、後で着替えさせねばならないとミューザはひそかに決意する。穏やかだったセルバンの目つきはすっかり悪くなり、その上この黒マントでは、いかにも風体が悪い。どうして一国の王子ともあろう者が、こんなに陰険そうな姿になれるのか、ミューザには不思議だった。

「どうしてあなたって、こんなところにいるわけ? 王子様でしょう、普通は王宮にいるべきじゃない?」

 ミューザに指摘されて、ファムスは渋面を作った。いつかは訊かれるだろうと思っていたが、朝話した時は、故意にその説明を避けていたのだ。

「サンファール王家は白魔法を使うのが伝統だろう。次期国王が、黒魔導に走るっていうのは、あまり普通じゃないんだ。だから……」

「ああ、だから、追い出されちゃったのね?」

 端的に言ったミューザを、ファムスは上から睨みつける。

「追い出されたんじゃない、自分で出てきたんだ」

「同じことでしょ、出て行かなくちゃ行けない状況に陥ったってことなんだから」

 ミューザはまた、単純明快に辛辣なことを口にする。言い返してやることもできたが、ファムスはこの姿でミューザに喧嘩を売れるほど、冷酷非道にはなれなかった。

「あたしたちってつまり、国から追われるお尋ね者ふたり組なのね」

「まあ――そういうことだろうな」

 気が重くなる。

 が、むっつりとするファムスとは対照的に、ミューザは楽しげな表情になった。

「試練試練、また試練、とかいってね」

「お気楽な娘だな」

「言ったでしょ、その方がいろいろとありがたいのよ」

 溜息をついて、ファムスは軽く空を見上げた。半月ぶり、まともに見上げる太陽だった。

「まあ、当面の捜し物はおれだな」

「は?」

 呟いたファムスに、ミューザが怪訝な顔で問い返す。

「何を捜すって?」

「だから残りのおれを――ああ、言ってなかったか」

 今さら思い至って、ファムスはミューザを見返した。そういえば、肝心なことは何ひとつ説明していなかった気がする。

「『おれ』はひとりじゃないんだ。おれの他に、あとふたりほど『カナン』がいる」

「……ごめん、あたし、突然馬鹿になってしまったみたい。意味がちっともわからない」

「だから。おれは『カナン』というものを構成する人格のうちのひとつなんだ。カナンは三人いる。おれの他に、白魔法マニアと剣術マニアの馬鹿どもだ」

「……」

 ミューザはまったく不得要領といった顔をしている。

「ま、おいおい話すさ」

 ファムスはすぐに説明を放棄した。こんなややこしいことを、短時間で説明する自信はない。

 首を捻るミューザを放っておいて、ファムスは軽く自分の拳を握った。今までの仮の体と違い、リアルな感触がある。息を吸い込むと、花の香りを感じた。心臓が動いているわけではないのだが、神経は繋がっているのだろう。仕組みはまだよくわからない。勉強が必要だと思った。

 黒魔導については、資料が少なくて、ファムスはずっとそれが不満だった。

(旅のついでに、新しい魔導書でも捜すか)

 いずれ力の強い白魔法士に、体を治してもらわなくてはなるまい。黒の魔導では体の腐敗を喰い止めることしかできない。セルバンの体は邪霊に受けた妖力のせいで、あちこちがぼろぼろに傷んでいた。よくも、こんな体で昨日まで生き存えていたものだと感心するほど。

 治してもらえれば、もうしかすると心臓も動くようになるかもしれない。自分の鼓動が感じられない状態は、いまいち不安定だ。

 何なら、あの白魔法士のやつを捜し出した時に治させてやればいい。ついでに、任務を押しつけてそこでさよならだ。敵は倒したいやつが倒せばいい。国は治めたいやつが治めればいい。こっちは、たとえ妖力が支配する世の中になっても、一向に困らないのだから。

「よくわからないけど、とにかく」

 何かしら自分の中で整理をつけたのか、ミューザが、やっと困惑の表情から立ち直り、ファムスを見上げた。

「頑張りましょう、これからは戦友だわ」

 にっこりと笑う、健気とも言える表情を見て、ファムスは少しだけ沈黙した。

(――まあ……後のことは、後で考えればいいさ)

 いつ終わるともわからない旅は、もう始まってしまった。もうひとりの『おれ』がどこにいるのか見当もつかないが、捜すしかない。捜して、めでたく仕事を押しつけてしまおう。

 それまで自分の隣にいるのがこの少女だということに、不安は感じる。どうにも一言多い同士だから、道々喧嘩は絶えない気がする。

 だが退屈はしないだろう。少なくとも。

「とりあえず、次の町を出たら北に向かうぞ」

 頭の中で地図を思い浮かべながら、ファムスが言った。北方には首都バーンズ、さらに北へ上がればパラスの国がある。

 行き先はまだ決めていないが、ドモスがサンファールの南端、つまり大陸の南端にある以上、北に進むしかない。

「それで、どうやって捜すの? (サンファルナ)にしろ、もうひとりのあなたとかいうのにしろ」

「歩いてりゃそのうちみつかるだろ、集まるのが理だそうだから」

「いい加減ねえ」

「おまえの父親が言ったんだぞ」

 ファムスの反論を、ミューザは見事に無視した。そのままファムスを、なぜか睨めつける。

「そうだ、言っとくけどあたし、お金ないからね。セルバンは薄給だったんだから」

「そんなことを威張って言うな」

「ファムスはどれくらい路銀、持ってるの?」

 ふっと、ファムスは口許で笑みを浮かべる。

「体すらなかったんだ。路銀なんて持っていると思うのか、このおれが」

「……あんたこそ、わけわかんないことで威張らないでよ」

 白々とした空気がお互いの間に流れ、ミューザは癇癪を起こしたように足取りを荒くした。

「もおおっ、さっさとみつけるわよ、捜し物!」

「どうやって捜すつもりだ」

「そんなの、歩いてりゃそのうちみつかるわよ、集まるのが理だそうだから!」

「……おまえ……」

 脱力して、ファムスの足取りが遅くなった。

「ほらほら、さくさく歩きなさいよ!」

 ミューザがファムスを急き立てる。

 ファムスは力一杯嘆息した。

(……先が、思いやられる……)

 とにもかくにも、彼らは旅立ったのだった。

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