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生活影響明細の回収命令は、読んだ人の名前を消せません

回収命令は、銀の筒に入って届いた。


 筒の口には王宮翻訳室の封蝋があり、青い保留札の上へ影を落としている。薬棚の前で待っていた薬師の老女が息を呑み、北門から戻った門番トマが片手を腰の剣へ寄せた。


「手を出さないでください」


 サラは先に、トマを止めた。


 筒を持つ回収係は、肩を少しだけ上げた。勝った顔ではない。命じられた物を運ぶ者の顔だ。


「王宮翻訳室より。不備確認票、補完前記録、一時保留札、旧保守印関連品を、祝灯式安全確認のため回収する」


 ユリウスが安堵したように顎を上げた。


「聞いたか。原本は回収だ。後日、翻訳室で整える」


「整える前に、何が動くかを読みます」


 サラは筒から出された命令紙を、薬棚の横板に置いた。紙そのものは一枚だけだ。けれど、そこに並んだ言葉は広すぎた。


 不備確認票。

 補完前記録。

 一時保留札。

 旧保守印関連品。


 ひとつにまとめれば、簡単に運べる。


 けれどそのひとつの箱には、ミナの夜薬も、マリナの帰り道も、トマが押さなかった確認印も、ロウナが空けたまま守った本人確認欄も入ってしまう。


「これは、書類の回収命令ではありません」


 サラは声を低くした。


「誰が読めず、誰が拒み、誰が保留したかを、一緒に回収する命令です」


「言葉遊びをするな」


 ユリウスが言った。


「生活に影響するなら、言葉遊びではありません」


 サラは薬棚の前へ膝をついた。棚の下段には、小さな瓶が六本並んでいる。ミナの瓶札だけが、角を青い糸で留められていた。


「ミナさん」


 母親の背に隠れていた少女が、こわごわ顔を出した。


「ここに『王宮翻訳室確認済み』とあります。あなたは、この確認で薬を受け取れましたか」


 ミナは首を横に振った。


「薬の名前は、読めません。でも、おばあちゃん先生が、わたしの名前を呼んでくれたら飲めます」


 薬師の老女が、唇を結んだ。


「患者名欄が空白なら、わたしは呼べません。瓶を出せば、違う子の薬になるかもしれない」


「では写します」


 サラは新しい薄紙を出した。原本ではない。青い保留札の横へ、生活影響明細と小さく書く。


 患者名欄空白により、ミナは薬を受け取れない。

 薬師ロウナは、患者名未確認のため投薬を保留。

 読了者、ロウナ。未読者、ミナ。


 ミナの母が驚いたように紙を見た。


「この子の名前を、書いていいんですか」


「薬を渡した証明ではありません。渡せなかった理由を、ミナさんの名前で守るだけです」


 サラは筆を置き、ミナへ見せた。


「読めない欄を、読んだことにされないための名前です」


 ミナは小さくうなずいた。


 回収係は薬棚の札を剥がした。ユリウスが勝ち誇るより早く、ロウナが生活影響明細の写しに自分の名を書いた。


「原本は持っていきなさい。でも、この棚は、患者名を呼べるまで閉じません」


 次に、北門二十七番灯の返却記録が広げられた。


 油と雨の匂いが、紙からまだ残っている。灯りを待っていた者の手が触れた跡だ。マリナは外套の紐を握りしめ、トマの隣に立った。


「灯火系統は祝灯式設備だ」


 ユリウスが急いで言った。


「工房内記録として回収すればいい」


「北門で灯りを待った人には、工房内ではありません」


 サラはマリナを見た。


「マリナさん。あなたは、あの灯りが点くのを待ちましたか」


「待ちました。日没鐘のあと、半刻。市場の荷を持ったままです」


「点かなかったので、どうしましたか」


「遠回りしました。東の階段は暗くて、弟を先に行かせられなかったから」


 サラは明細へ書き込む。


 北門二十七番灯、帰宅灯として未確認。

 マリナ、日没鐘後に点灯待機。帰宅路を変更。

 生活影響、荷の遅延、弟の帰宅同伴不可。


 トマが重い声で続けた。


「俺は、確認済みとは書けなかった。灯りを見ていないからだ。返却済みの札も、押せなかった」


「では、拒否名を残します」


「拒否名?」


「確認済みと書けない責任を、誰かの怠慢ではなく、あなたの判断として残す欄です」


 トマの目が、わずかに揺れた。


 門番は、命令を断るためにいるのではない。人を帰すために立っている。その人が「見ていない」と書ける場所がなければ、灯りが消えた夜も、朝には確認済みになる。


 トマは太い指で筆を取り、ぎこちなく名を書いた。


「北門門番、トマ。点灯を見ず。返却済み確認を拒否」


 マリナも名を書いた。文字は細かったが、最後の払いだけが強かった。


「灯りを待った人の名前は、工房の棚には入りません」


 サラが言うと、回収係は目を伏せたまま返却記録を筒に入れた。


 最後に、旧ヴィント工房の印箱が出された。


 角の欠けた木箱。サラが鍵と一緒に返したはずの、保守印の箱。そこには旧印関連品として、回収札が貼られようとしていた。


 ユリウスが箱へ手を伸ばす。


「これで分かる。旧保守印の扱いが混じったせいで不備が出た。サラ、君が返したあとの整理不足だ」


「返した後の責任者名は、どこですか」


 サラは箱を開けずに聞いた。


 ユリウスは答えなかった。


 記録係ノエルが、脇から小さな控え紙を差し出す。若い指先が震えている。


「旧印箱の移動欄です。受領者名が、空白です。ただ、封蝋番号だけあります」


「空白なら補完すればいい」


「いいえ」


 ロウナが、今度はサラより先に言った。


「本人が読んでいない欄を、後で読了にしてはいけない。薬棚で、それをしたら子どもが薬を間違える」


 サラはうなずいた。


「旧印箱も同じです。印そのものが本物か偽物かより先に、何を確認した責任なのかを分けます」


 彼女は三つの欄を明細に引いた。


 物。旧ヴィント工房印箱。

 確認内容。旧保守印の所在、使用日、生活影響先。

 責任行き先。受領者名空白のため未完了。


「空白を埋めるのではなく、空白のまま守ります」


 ノエルが封蝋筒を見下ろした。


「サラ様。この番号、旧保守印の欠けと合いません」


 回収係の手が止まった。


 ノエルは控え紙を薬棚の光へ傾けた。封蝋の端に、数字ではない細い曲線がある。花びらのように丸まり、最後だけ針のように跳ねる。


「これ、番号ですか。花文字みたいです」


 サラの胸の奥で、冷たい音がした。


 リリアの名で出された修理済み札にだけ残る、飾り罫に似た未読確認番号。手柄として押すには甘く、責任として読むにはあまりにも薄い線。


 ユリウスが声を荒らげた。


「偶然だ。原本は回収された。これ以上は――」


「はい。原本はどうぞ」


 サラは、回収筒の口を自分から閉じさせた。


 銀の筒が重い音を立てる。けれど、その外側にはもう五つの名前が残っている。


 ミナ。読めなかった欄。

 マリナ。帰れなかった灯り。

 トマ。確認済みと書かなかった門番。

 ロウナ。空白を空白のまま守った薬師。

 ノエル。封蝋番号を読んだ記録係。


「回収命令で原本は消せます」


 サラは封蝋に咲いた花文字を見た。


「でも、読んだ人の名前と、読まなかった人の空白は、回収筒には入りません」


 その花文字は、リリアの手柄ではなかった。


 誰がまだ読んでいないかを示す、王宮翻訳室の最初の綻びだった。

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