帰宅完了は、本人の足跡が北門灯をくぐってからです
北門の石畳は、雨を吸って黒く光っていた。
灯は点いている。けれど門の下だけ、細い。
片側の敷石には、門番の長靴跡が二列残っている。もう片側には、途中で途切れた小さな靴跡が、薬棚へ戻る方向にだけ濃く残っていた。
「……私のです」
夜番見習いの少女が、濡れた靴を胸に抱いた。名札には、カヤ、とある。爪先の泥はまだ乾いていない。
「帰ったことにされた時刻には、私は西診療所の薬棚前にいました。ネリアさんに瓶を渡して、灯が細くなったので、戻れませんでした」
門番控えは、帰宅札だけを指で叩いた。
帰宅完了。本人帰路未確認。
「完了印がある。半刻賃金も、翌朝出勤札も閉じる手順だ」
その声に、カヤの肩が縮んだ。帰ったことにされれば、宿舎には戻っていないまま欠勤扱いになる。半刻分の賃金も消え、明日の朝、薬棚に立つ理由まで失う。
私は札を取り上げず、まず石畳へ膝をついた。
「エレナ。鍵箱の開閉時刻を」
「はい、サラさん」
「門は開いています。でも、この細い灯の下を人が通った記録ではありません。鍵が動いた時刻と、カヤさんの足が帰った時刻は別です」
エレナは鍵束を鳴らし、門下の影を指した。灯が細いせいで、足跡は半分しか読めない。けれど薬棚側へ戻った泥の線だけは、カヤの靴底の欠けとぴたりと合った。
ネリアが瓶籠を抱えて息を整える。
「その時刻、カヤは私の隣にいました。ミナの薬を届ける棚前で、帰り灯が細くなったのを見ていました」
宿舎窓から、ロウナが小さな返事灯を掲げた。
「こちらには戻っていません。寝台札も、食事札も空のままです。けれど賃金札だけ、閉じかけています」
リリアは焦げた帰宅札を見て、唇を結んだ。
「この札を、わたしの読了で閉じません」
彼女は朱線ではなく、札の上に青い細布を重ねた。
「この子の帰り道を、わたしの読了で終わらせません。本人が灯の下を通り、宿舎が返事をして、明日の札を読めるまで、完了印は読みません」
カヤが靴を履き直した。
まだ震えている。けれど、今度は誰かに引かれて歩くのではなかった。自分で門の細い灯の下へ進み、濡れた石畳に足を置く。
一歩。
欠けた爪先の跡が、青い灯の下に残る。
もう一歩。
宿舎窓の返事灯が、細くとも確かに揺れた。
「カヤ、戻りました」
ロウナの声が門の向こうから返る。
カヤは帰宅札の裏に、自分の字を書いた。
帰ったことにされた時刻には、私は薬棚前にいました。
いま、北門灯をくぐって、宿舎の返事を受けました。
半刻賃金と翌朝出勤札は、本人帰路確認後に閉じてください。
私はその下に、青い保留札を一枚重ねる。
「帰宅完了は、印の時刻では閉じません。本人名、足跡、宿舎の返事、明日の働き口。この四つがそろって、初めて閉じます」
門番控えは何か言いかけたが、石畳の足跡と宿舎の返事灯を前に、札を閉じる手を止めた。
カヤの半刻賃金札は、閉鎖済みから本人帰路確認済みへ戻された。翌朝出勤札にも、細い字で同じ名が残る。
大きな灯が戻ったわけではない。
でも、帰ったことにされた少女が、自分の足で帰った。
その足跡が乾く前に、焦げた帰宅札の写し番号が、もう一つ浮かび上がる。
――明朝パン窯火、同番号にて稼働確認済み。
帰る道を閉じる印は、明日働く火まで先に閉じようとしていた。




