冷えた薬棚には、患者の名前があります
西区慈療院の裏口では、夜明け前の鐘が鳴るより先に、薬師の老女が木箱を抱えて立っていた。
木箱の中には、白い瓶が六本。
解熱薬でも、聖水でもない。熱を持った子どもの舌に一滴ずつ落とす、冷却薬だった。
「棚がぬるいんだよ」
老女はサラを見るなり、蓋を開けた。
瓶の表面に、水滴がついていない。
本来なら西区慈療院の薬棚は、夜のあいだだけ薄く霜を結ぶ。朝、薬師が開けるころには瓶の肩が白く曇り、最初の患者の名札を読み上げるまで冷たさを保つ。
今は、ただの木箱の匂いがした。
「修理済みだと札には書いてある。だけど棚は冷えない。子どもたちは待っている。あんた、もうヴィント家の人じゃないんだろう。見てもらっていいのかね」
「修理済みにする権限はありません」
サラは膝をつき、薬棚の側面に貼られた桃色の札を見た。
リリア・ヴィント。
花文字の修理済み印。
その横に、空白が二つあった。
温度確認欄。
患者名欄。
「でも、冷えていない理由は読めます」
背後で、ユリウスの声がした。
「また勝手に現場を騒がせているのか、サラ」
祝灯式の臨時外套を着たユリウスは、眠っていない顔をしていた。銀の留め具だけが朝の光を拾っている。
「その薬棚はリリア名義で修理済みだ。慈療院への説明も済んでいる。棚の中身は予備薬だろう。祝灯式の控室で使う冷却皿に、少し魔力を回しても問題ない」
老女の手が木箱を抱きしめた。
「予備薬?」
サラは瓶札を一枚ずつ並べた。
ミナ。五歳。夜明けの発熱。
ロイ。石工見習い。腕の腫れ止め。
北門薬配達人、エル。昨夜の帰宅後に凍傷確認。
名前が六つ、細い紐で瓶に結ばれている。
「予備ではありません。まだ飲まれていないだけです」
ユリウスは眉をひそめた。
「細かい名前を並べるな。薬棚全体としては受領済みだ。慈療院は受け取った。だから処理は完了している」
「薬棚は、受け取ったら完了ではありません」
サラは棚の扉を開けた。
内側の冷却石は七つあるはずだった。けれど中央の一つが抜け、代わりに祝典用の薄い銀皿へ伸びる線が挿されている。
昨夜、リリアの髪飾りで見た予備石の大きさと、欠けた穴は同じだった。
「冷却棚の完了条件は四つです。瓶が棚に届くこと。温度欄が夜明けまで閉じないこと。患者名が読み上げられること。薬師がその名で瓶を渡せること」
「そんな規則はない」
「今ここに必要な規則です」
サラは工具鞄から青い保留札を取り出した。北門二十七番灯に下げたものと同じ、正式な封印ではなく、生活条件を閉じないための札だ。
薬師の老女が、棚の横に小さな燭台を置いた。
「何を書けばいい」
「患者名を、ご自分の字で。温度欄には、今は『未確認』と書いてください。修理済みの横に、未確認を残します」
「修理済みの横に未確認など、矛盾だ」
ユリウスが言う。
「矛盾しているから、飲ませられないんです」
サラは冷却石の穴へ触れた。魔力が足りないのではない。石の戻り先が変えられている。祝典の銀皿を冷やすために、患者名のついた棚から一晩分だけ借りた形にされている。
一晩分。
その言葉は、空の数字ではなかった。
ミナの熱が下がるまでの夜。
ロイが明日の足場に戻る前の夜。
エルが凍傷を深くしないための夜。
「これは祝典控室の冷却皿ではありません。西区慈療院の薬棚冷却予約分です。まだ患者の口に届いていないものを、余り冷気とは呼べません」
サラは自分の名を書かなかった。
代わりに、棚の側面へ青札を差し込む。
西区慈療院薬棚。患者名六名。温度確認未了。祝典冷却皿への転用保留。
老女が最初にミナの名を書いた。
続いて、ロイ、エル、ほか三つの名が並ぶ。
名前が六つそろった瞬間、棚の奥でかすかな白い息が立った。
抜かれた石そのものは戻っていない。
けれど、サラは棚の下段に小さな補助線を見つけた。以前、彼女が冬の停電用に残しておいた半刻だけの予備線だ。
「半刻だけなら、冷えます」
「半刻で足りるのかい」
「最初の三本を渡せます。残り三本は、北門の帰宅路から戻ったエルさんが配達記録を持ってくれば、患者名と温度欄がつながります。棚を閉じるのは、そのあとです」
老女はミナの瓶を両手で包み、初めて笑った。
「名前を呼べるなら、子どもも起きるよ」
ユリウスが一歩踏み出した。
「サラ、その青札を外せ。祝灯式の控室で王妃殿下がお使いになる冷却皿だぞ」
「王妃殿下が必要とされるなら、生活影響明細を添えてください」
サラは桃色の修理済み札を剥がさず、青札で囲んだ。
「リリア名義の修理済み印は残します。誰が、温度欄と患者名欄を空白のまま修理済みにしたのか、あとで読めるように」
廊下の向こうから、小さな足音がした。
薬師の弟子が走ってくる。
「先生、ミナちゃんが起きました。名前、呼べますかって」
老女は瓶を抱え、棚の前で声を張った。
「ミナ。西区慈療院、朝一番。薬を渡すよ」
扉の向こうで、かすれた返事がした。
サラはその声を聞いて、青札の端を折った。
薬棚は、冷えたから終わるのではない。
名前で薬が届くまで、終わらない。
そのとき、桃色の札の裏から、薄い紙片が一枚落ちた。
――補完命令。祝灯式関連設備は、生活影響欄未記入でも王宮翻訳室確認済みとして処理する。
サラは紙片を拾い上げた。
翻訳室。
リリアの花文字だけではない。
誰かが、空白を読める言葉へ変えないまま、読んだことにしている。
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