↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/48

冷えた薬棚には、患者の名前があります

西区慈療院の裏口では、夜明け前の鐘が鳴るより先に、薬師の老女が木箱を抱えて立っていた。


木箱の中には、白い瓶が六本。


解熱薬でも、聖水でもない。熱を持った子どもの舌に一滴ずつ落とす、冷却薬だった。


「棚がぬるいんだよ」


老女はサラを見るなり、蓋を開けた。


瓶の表面に、水滴がついていない。


本来なら西区慈療院の薬棚は、夜のあいだだけ薄く霜を結ぶ。朝、薬師が開けるころには瓶の肩が白く曇り、最初の患者の名札を読み上げるまで冷たさを保つ。


今は、ただの木箱の匂いがした。


「修理済みだと札には書いてある。だけど棚は冷えない。子どもたちは待っている。あんた、もうヴィント家の人じゃないんだろう。見てもらっていいのかね」


「修理済みにする権限はありません」


サラは膝をつき、薬棚の側面に貼られた桃色の札を見た。


リリア・ヴィント。


花文字の修理済み印。


その横に、空白が二つあった。


温度確認欄。


患者名欄。


「でも、冷えていない理由は読めます」


背後で、ユリウスの声がした。


「また勝手に現場を騒がせているのか、サラ」


祝灯式の臨時外套を着たユリウスは、眠っていない顔をしていた。銀の留め具だけが朝の光を拾っている。


「その薬棚はリリア名義で修理済みだ。慈療院への説明も済んでいる。棚の中身は予備薬だろう。祝灯式の控室で使う冷却皿に、少し魔力を回しても問題ない」


老女の手が木箱を抱きしめた。


「予備薬?」


サラは瓶札を一枚ずつ並べた。


ミナ。五歳。夜明けの発熱。


ロイ。石工見習い。腕の腫れ止め。


北門薬配達人、エル。昨夜の帰宅後に凍傷確認。


名前が六つ、細い紐で瓶に結ばれている。


「予備ではありません。まだ飲まれていないだけです」


ユリウスは眉をひそめた。


「細かい名前を並べるな。薬棚全体としては受領済みだ。慈療院は受け取った。だから処理は完了している」


「薬棚は、受け取ったら完了ではありません」


サラは棚の扉を開けた。


内側の冷却石は七つあるはずだった。けれど中央の一つが抜け、代わりに祝典用の薄い銀皿へ伸びる線が挿されている。


昨夜、リリアの髪飾りで見た予備石の大きさと、欠けた穴は同じだった。


「冷却棚の完了条件は四つです。瓶が棚に届くこと。温度欄が夜明けまで閉じないこと。患者名が読み上げられること。薬師がその名で瓶を渡せること」


「そんな規則はない」


「今ここに必要な規則です」


サラは工具鞄から青い保留札を取り出した。北門二十七番灯に下げたものと同じ、正式な封印ではなく、生活条件を閉じないための札だ。


薬師の老女が、棚の横に小さな燭台を置いた。


「何を書けばいい」


「患者名を、ご自分の字で。温度欄には、今は『未確認』と書いてください。修理済みの横に、未確認を残します」


「修理済みの横に未確認など、矛盾だ」


ユリウスが言う。


「矛盾しているから、飲ませられないんです」


サラは冷却石の穴へ触れた。魔力が足りないのではない。石の戻り先が変えられている。祝典の銀皿を冷やすために、患者名のついた棚から一晩分だけ借りた形にされている。


一晩分。


その言葉は、空の数字ではなかった。


ミナの熱が下がるまでの夜。


ロイが明日の足場に戻る前の夜。


エルが凍傷を深くしないための夜。


「これは祝典控室の冷却皿ではありません。西区慈療院の薬棚冷却予約分です。まだ患者の口に届いていないものを、余り冷気とは呼べません」


サラは自分の名を書かなかった。


代わりに、棚の側面へ青札を差し込む。


西区慈療院薬棚。患者名六名。温度確認未了。祝典冷却皿への転用保留。


老女が最初にミナの名を書いた。


続いて、ロイ、エル、ほか三つの名が並ぶ。


名前が六つそろった瞬間、棚の奥でかすかな白い息が立った。


抜かれた石そのものは戻っていない。


けれど、サラは棚の下段に小さな補助線を見つけた。以前、彼女が冬の停電用に残しておいた半刻だけの予備線だ。


「半刻だけなら、冷えます」


「半刻で足りるのかい」


「最初の三本を渡せます。残り三本は、北門の帰宅路から戻ったエルさんが配達記録を持ってくれば、患者名と温度欄がつながります。棚を閉じるのは、そのあとです」


老女はミナの瓶を両手で包み、初めて笑った。


「名前を呼べるなら、子どもも起きるよ」


ユリウスが一歩踏み出した。


「サラ、その青札を外せ。祝灯式の控室で王妃殿下がお使いになる冷却皿だぞ」


「王妃殿下が必要とされるなら、生活影響明細を添えてください」


サラは桃色の修理済み札を剥がさず、青札で囲んだ。


「リリア名義の修理済み印は残します。誰が、温度欄と患者名欄を空白のまま修理済みにしたのか、あとで読めるように」


廊下の向こうから、小さな足音がした。


薬師の弟子が走ってくる。


「先生、ミナちゃんが起きました。名前、呼べますかって」


老女は瓶を抱え、棚の前で声を張った。


「ミナ。西区慈療院、朝一番。薬を渡すよ」


扉の向こうで、かすれた返事がした。


サラはその声を聞いて、青札の端を折った。


薬棚は、冷えたから終わるのではない。


名前で薬が届くまで、終わらない。


そのとき、桃色の札の裏から、薄い紙片が一枚落ちた。


――補完命令。祝灯式関連設備は、生活影響欄未記入でも王宮翻訳室確認済みとして処理する。


サラは紙片を拾い上げた。


翻訳室。


リリアの花文字だけではない。


誰かが、空白を読める言葉へ変えないまま、読んだことにしている。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・★★★★★評価で応援していただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。