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夜灯は、祝宴ではなく帰宅路のために点きます

伯爵家を出たサラが最初に聞いたのは、祝灯式の楽隊ではなかった。


 王都北門へ向かう石畳の上で、洗濯籠を抱えた女たちが立ち止まっている。川沿いの夜番を終えた手は赤く、濡れた袖からは冬前の水の匂いがした。


「北門の標識灯が消えたって。迂回すれば西橋だけど、あそこは荷馬車が詰まってる」


「明朝の洗い場に戻れなかったら、半日分の賃金が消えるよ」


 灯りが一つ消えただけで、人は帰れなくなる。


 サラは肩にかけた工具鞄を抱き直した。工房の鍵は返した。保守印も返した。けれど、帰れない人の名前まで返した覚えはない。


「その標識灯、番号はいくつですか」


 問いかけると、年かさの洗濯女が警戒した目を向けた。


「二十七番。あんた、ヴィント家の工房の……」


「元、です。今は確認だけをします。修理済みにする権限はありません」


「確認だけで何が変わるんだい」


「帰る条件が未完了か、単に暗いだけかは変わります」


 サラは北門脇の灯柱に近づいた。石の台座には白い札が貼られている。祝灯式予備火力へ転用済み。保守責任者、リリア・ヴィント。


 妹の名を真似た花文字は、妙に丸かった。


 だがサラが見たのは文字の美しさではない。札の下端、使用時間欄の小さな空白だった。


 本来なら、二十七番灯には三つの名前が並ぶ。


 夜番洗濯組。北門薬配達人。小麦倉庫の見習い。


 誰が何時に通り、灯りが消えたらどの仕事が翌朝止まるか。それを書く欄が、まるごと切られていた。


「祝灯式の予備火力ではありません」


 サラは声を少し大きくした。


「これは帰宅路確保分です。まだ誰も帰っていない灯りを、余り火とは呼べません」


「何を勝手に――」


 背後から、派手な外套の青年役人が近づいてきた。祝灯式の臨時係だ。胸にはユリウスの家紋に似た銀の留め具がある。


「その札は正式に処理済みだ。修理係の名も入っている。女工たちには西橋を回らせればいい」


「西橋を回ると、洗濯組は寮の門限を越えます。薬配達人は冷却瓶を二十分長く持つことになる。見習いは小麦倉庫の朝鍵に間に合いません」


 サラは工具鞄から青い細札を取り出した。


 工房の正式な封印札ではない。部品を預かるとき、使用者の名前と未確認条件を残すための仮札だ。


「処理済みというなら、生活影響明細を出してください。誰の帰宅を済ませ、誰の賃金を守り、どの薬瓶を朝まで冷やすのか」


「そんな細かいことを、祝典の灯りにいちいち――」


「祝典ではありません。二十七番灯です」


 サラは灯柱の点検口を開いた。中の魔導芯は抜かれていない。ただ、火力を王宮側へ流す細い銀線が、仮結びで追加されている。


 壊れたのではない。帰宅路の灯りが、祝宴の飾りへ呼び名を変えられていた。


 サラは銀線を切らなかった。勝手に切れば、証拠も責任も消える。


 代わりに青い細札を銀線の結び目へ通し、灯柱の表へ垂らした。


「北門二十七番。帰宅条件未完了。夜番洗濯組三名、薬配達人一名、小麦倉庫見習い一名。本人帰着まで転用保留」


 洗濯女の一人が、赤い指で札の空欄を指した。


「ここ、名前を書いていいのかい」


「はい。ご自分の字で。誰かの名誉ではなく、あなたが帰るための欄です」


 女は少し迷ってから、濡れた指を拭き、炭筆で名を書いた。


 マリナ。


 その横に二人分の名前が続く。薬配達人の少年は、冷却瓶を抱えたまま震える字で署名した。小麦倉庫の見習いは、明朝五時の鍵番、と小さく添えた。


 名前が五つ並んだ瞬間、灯柱の奥で小さな音がした。


 サラにはわかる。魔導具は、火力だけで動くのではない。誰のために、いつまで、どの条件で点くのかを読む。


 青い札は正式な保守印ではない。それでも、未確認の生活手順を示すには足りた。


 二十七番灯が、薄い蜂蜜色に戻った。


 歓声は大きくなかった。洗濯女たちは籠を持ち直し、薬配達人は瓶を胸に押しつけ、小麦倉庫の見習いは何度も頭を下げた。


 人が帰れる灯りは、祝宴の花火より静かだ。


 臨時係の青年は唇を曲げた。


「仮札など、明朝には外される。正式な保守印はリリア嬢のものだ」


「では、明朝まで外せない理由ができました」


 サラは銀線の結び目を指した。


「この花文字、私の旧保守台帳に残るサラ印の角度をなぞっています。けれど針の入りが逆です。誰かが、私の返納前の印影を写してリリアの名で流しました」


 青年の顔色が、灯りより先に白くなった。


 サラは青い札の端を折り、証拠として封じた。


「二十七番は今夜、人を帰します。明日は、この印がどの台帳から来たのかを確認します」


 北門の向こうで、五つの背中が順に灯りの下を通った。


 祝灯式の音楽は、まだ遠い。


 けれどサラには、帰る人の足音のほうが、王都を支える灯りに聞こえた。

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