前編(夏~冬)
倒れているその童を抱き留めた刹那、私の止まっていた刻は確かに動き出し、彼の微かな鼓動と共に、私の腑の震えも、現のものとして我が肉体へ甦った。
私は彼を抱えながら、庵へ急ぐ。彼の若く健康な肉体を狙い、物怪が襲いかかる。それを、私は、指からの炎で射止めると、瞬く間に夜の闇を照らし、灰になった。その後も、続々と魔の手が忍び寄ってくる。この「山の奥」は、今や、この新鮮な獲物を捕らえんとする争奪戦の舞台になっていた。
「お前たちには……渡さぬ」
それは幾年も前に、全てを失ってから、すでに葬っていたはずの衝動だった。それに突き動かされ、私は飢えた魑魅魍魎どもを焼き、斬り、薙ぎ倒し、返り討ちにする。奴らの血と、彼らの牙や爪の一撃で流した私の血で、来た道は、紅の絨毯が敷き詰められた。
まだまだ、奴らは追ってくる。だがそれが罠だった。彼らが絨毯―私がまき散らかした血の跡を踏むと、そこから黒い大蛇が現れ、地の底へと飲み込んでいく。その異形を極めた光景は、連中に恐慌を与え、追跡を躊躇させた。私たちは更に距離を稼いだ。
庵が見えて来た。その四方は、清めの札で結界が形作られており、連中の追撃はそこで留まることになった。
童を、刻が止まっていたあの部屋に連れ込んだ後、押し入れから、同じく刻を眠っていた布団を取り出した。当然ながら黴や虱で冒されていたので、術を使いそれを再生させた。純白に蘇ったそれを見た瞬間、あの穏やかな日々を思い起こし、胸に釘を打たれたような衝撃が走る。
……いや、まだだ。感傷に浸るな。今は童を救え。
彼を布団に下ろす。呼吸が荒く、意識は戻らない。その顔は、初々しさはあれど、飢えと憔悴が皴となって刻まれており、「山の奥」での、孤独なる奮闘を物語っていた。
彼の足は傷だらけで、泥にまみれていた。まず清めなければ。
湯で温めた手拭いで、汚れを拭うと、童は苦痛で顔をゆがめた。私の心も、それに呼応するが如く、ちくりと針でつつかれた。
私は香を焚いた。これは鎮痛作用のある煙を発するものである。部屋がその芳香に包まれた後、私は彼の手を抓る。彼の表情は動かない。狙い通りだ。
香が煙る間に、私は彼の足を清め、包帯を巻く。骨や腱に異常はなさそうなので、それは良かった。
措置を終えると同時に、香は力尽き、再び部屋は空虚に包まれた。
布団から伸びる彼の腕を見る。齢さながらの未熟さは認められるが、その骨の張り、筋の太さは、確かに女の物ではないと感じた。これからわずか数年で、この手と腕は、誰かを守り、財を得、争いで生き残れるだけの逞しさを有するのであろう。
私の齢は四十ほどのはず。自らの細く、皴が刻まれ始めた手で、彼の氷のように冷たい手を包む。顔をしかめ、呼吸がさらに荒くなる様子を見て、私の心に暗雲が立ち込めた。
(今度こそ……今度こそ、逃さない)
私は札を彼の腹に貼り、手を載せた。そして、目を瞑り、「それ」を試みる。
手には汗がにじみ出ていた。
体が震え、息が乱れる。
それでも、やるしかない……!
腹を括った瞬間、私の掌より、命が抜け出していく。それと同時に、回るような眩暈と、割れるような頭痛、腸に燃えるような痛みが走る。
(……っ!?)
不覚にも目を見開いた。かつて、あの人とあの子にも施したものだったが、その際には、ここまでの苦しみを伴っただろうか。
私は、激しく咳きこみながら倒れこんだ。振動する世界の中、彼を見ると、明らかに呼吸が落ち着き、表情も穏やかになっていた。心なしか、頬に紅も差しているようだ。そうだ、これで、いい……。
彼の手を再び握った。生命の熱がこもりだしていた。……もう二度と、この温もりは手放さぬ。
私は体に傷を負い、力を喪いながらも、心の奥は、深い安堵と、暗い支配欲に満ちていた。
私が触れると、童の眉は一瞬動いたが、呼吸は乱れることなく、その晩は穏やかに眠り続けた。
「……すみません」
童の声で、目が覚める。朝が来ていた。
彼の寝顔を見守り、横になっていたところ、いつの間にか眠っていたらしい。
陽光が彼の顔を照らす。まだ青白さは残っていたが、唇は桃色が帯びていた。
「……ここは、どこですか。あなた、顔色が随分悪いけれど……大丈夫ですか」
「……何か欲しいものはある?……」
「え、えっと……お水が、欲しいです……」
確かに、彼の声は掠れている。
「……お待ちなさい」
私は姿勢を起こすと、頭の芯が疼き、吐き気が襲った。ふらついた体を何とか立てなおす。
心配そうな童の視線を背で受けつつ、二つの湯呑に水を注ぎに、井戸へ向かった。
水を汲んだ後、彼のいる部屋に行く前に、私は、自身の部屋から特製の丸薬を取り出し、水と一緒に飲み込んだ。
血の味が舌と喉を巡った後に、乱れていた鼓動が穏やかになり、憑き物が落ちるように、頭痛と吐き気が鎮まっていった。私は軽くなった足取りで彼の寝床に戻り、湯呑を差し出した。
私の顔を見るなり、彼は一瞬驚いていた。血色が変わったためであろう。水を飲み干し、落ち着いた彼に、私は一部始終を話した。
私には事情があり、この「山の奥」の庵に住んでいること。
妖怪ではない何かが、庵の近くに現れたのを感じたこと。
見に行くと、それが童であったこと。
酷く弱った様子で、昨晩ここに連れ込んだこと。
「ありがとう……ございます」
長い話を、童は口を挟むこともなく聞いていた。そして恭しく礼を告げた。
「お目覚めになった時と比べて……ずいぶん、覇気のあるお声ですね」
「……本当に、私のことは、お気にせず」
体調が良くなるとともに、私は彼から並々ならぬ妖力が滲み出ているのを感じ取った。
まず、私は「山の奥」に来る前、何をしていたのか聞いた。おずおずと彼は答えた。
「……修行、です。……信じていただけないかもしれませぬが……僕の家系は、代々強い妖力を持った血筋なのです」
(……やはり)
私は彼の話を否定せずに、じっくりと傾聴する構えを見せる。それは計算によるものではない。純粋な興味と、自身のことを打ち明けようと努力する姿勢への慈しみだった。
そんな様子を見て安心したか、彼は続けた。
「……齢が十三の時、人里離れた山にこもり、『人』を徹底的に遠ざけるしきたりがあります。狙いは、『邪念』を除き、力を研ぎ澄ますこと。……その中で、愚かにも僕は迷い込んでしまったのです」
自嘲する彼を見て、咄嗟に言葉が出た。
「愚かじゃないわ」
「えっ……」
「あなたはまだまだ子供。……童と言っても良い齢の中で、必死で藻掻いていただけ」
「……左様なことはありませぬ。僕が愚鈍である、それのみです。兄たちはみな、この試練を乗り越えているし、弟も才知にあふれている。もっとも、修行で亡くなった兄弟もおりますが……」
「……私のもとで、修行をなさらない?」
「は?……」
「これをご覧に」
私は墨をすり、盥に水を張った。墨に念を込めて、水に落とすと、私たちの顔を写していた水面は、昨晩私の目に焼き付いたもの―魑魅魍魎が跋扈し、童を救い出すあの光景へと変わっていった。「水鏡」の術である。
童は呆然とそれを見ていた。でもその顔に、未知なるものを目にした驚きは籠っておらず、どこか見覚えのあるものを眺めている、そんな表情だった。
しばらく、時間をあげるから、どうするかお考えなさい。そう告げて部屋を出た。
私は自分の部屋に戻ると、机から、かつての日々を綴った手帳を捲る。文字はところどころ、涙で滲んでいる。
「身籠りながら、夫と彷徨う中で、この庵を見つけた。妖術と占いを究めたい私に、本当に家庭を持てるのか、楽しみと不安で心は満ちる。そんな矛盾だらけの私を、彼は受け入れてくれた。お腹の子のためにも、前を向いていく」
「あの子が初めて歩くようになった。拙い歩みを見たときの、温かい想い。慈しみというものか。これを知るために、私は生まれたのではなかろうか」
「母として名前を呼ばれた。二十二年生きてきたが、その時の感激は生涯忘れられないだろう。たとえ生まれ変わったとしても」
「あの子の熱が下がらない。夜中は常に、彼の譫言が続く。夫も看病をするが、彼が妖術師の仕事を屡々休むようになってから、我が家は困窮に喘いでいる。それにしても、夫の腕はあれほど細く、頼りないものだっただろうか。いや、弱音を吐いている場合ではない。苦しいのは私ではなく二人だ。支えねばならぬ」
「夫が骨と皮になり、二十三の同い年の筈なのに、翁のようだ。夫婦になって三年、精力は衰えていたが、原因もなく、かくまで憔悴するという、奇想天外なことが起こるだろうか。焦りと恐怖が私を包む」
「齢三年にして、あの子まで。皆、私を置いて行くな。愛を注ぐほどに、命が零れていく。理も想いも、完膚なきまでに叩きのめすのは、いったい何者か。今はただ、休みたい。けれど、再び誰かを愛し、慈しむ機会があるのならば、同じ過ちは繰り返すまい」
手帳を抱きしめ、私は瞳を閉じた。童の顔と、あの大切な二人の顔を重ね、目から熱いものが溢れた。
数日間は、修行のことはおくびにも出さず、童と日々を過ごした。
私の妖力で満ちた肉体は、もはや、食うということを不要としていたが、食を自らも摂り、愛する者へ供していたころの、微かな記憶を頼りに、彼に朝餉と夕餉をしたためた。作り方で、僻覚えと思われる部分が出て来たら、童にも協力してもらい、あの水面に、彼の記憶を映し出して真似た。
足を負傷していた彼は、歩くのが難しくはあったが、外の空気に当たりたいというので、私は彼の腕を取り、庵の周りを頻繁に散策した。彼には黙っていたが、妖力で重さを操り、その歩みを補助してもいた。
すでに、暑い季節に入りだしていたが、私は、白き手套をはめて彼に触れた。これは妖力の流れを遮断する特殊な素材で織られたものだった。
興味深そうに彼が聞いてきた。
「暑くはありませぬか。……お好きなのですか。手套が……」
「ええ。……これは、どうしても必要なものなの」
彼の温もりに触れられないもどかしさを、そう告げて押さえ込んだ。
彼は私の蔵書にも関心を示した。妖術の指導本、古今東西の占術本、古の思想書、説話の短編集、などなど。数多く納められたものではなかったが、ここから遠く離れた、外国の思想も抑えているところが、彼の、若い旺盛な好奇心を刺戟したようである。
特に彼が興味を持ったのは「占星術」だった。
「これは、どのような占いなのですか。初めて拝見しましたが……」
「西洋由来の占術ですよ。……その時その場所の、天にある星の位置から、運命を見定めるという、古くからある知恵なの」
「……実際にあちらへ?」
「いいえ。私は占いの仕事で、国の有力者や、外国の占術師とも関わる機会がある。その伝手で断片の情報を得て、それを纏めただけ。……だから体系立ってはいないけれど、もし面白ければ、ご遠慮なくお読みなさい」
「左様ですか……試行錯誤の跡ということですね」
「それが学びの醍醐味だと思う。仮説を立て、実践し、結果を検証する……その繰り返しによって学問や思想、技術は磨かれていく。心や肉体への負担の強さは、必ずしも重要ではない」
実際に仕事の様子を見に行くか彼に聞いたが、首を横に振った。
「……庵を離れるのが怖いのです。……物怪に肌を舐められ、牙が間一髪、僕の着物を切り裂き、飢えの中、夜の闇を何日も彷徨ったことが、脳裏に焼き付いている……それでも、ご迷惑でしょうから、いつかは出て行かねばならないと考えております」
「……それは問題ない。十分な蓄財と、何よりも私には時間がある。あなたのお気が済むまで、いらっしゃって構わないわ」
夜は風呂も沸かす。清められ温まった彼を見て、私の心も澄み渡る思いがした。
純白の布団で眠る、安らかな彼の寝顔を、私は眺める。この平穏を、守り抜きたい。この端正な顔貌を、恐怖や痛みで崩したくない。何もない日常を、手放したくない……。
私を師として選ぶかどうか。それは彼に委ねることにしたが、せめてこの日々だけは、長く続くよう祈っていた。
ある朝、私は芳しい香りで目が覚めた。台所から物音もする。
童が、自らの足で、朝餉の支度をしていたのだ。
「あ……おはようございます。ずっとお世話になっていたので、勝手ながら……」
「……お怪我は大丈夫なの」
「はい、お陰様で……僅かに痛みますが、お散歩くらいであれば差し障りないかと思います」
彼は自身の分と、私の分の味噌汁を供じた。今日の実は豆腐と茄子である。切られたそれらは、多少大きさは不揃いだったが、火は充分に通っていそうだ。
飢えの苦しみと、味わいの愉悦を喪っていた私は、食卓を囲んだここ数日、彼に不審がられぬよう、一口か二口は、手をつけていた。それに情動は何もなく、単なる作業だった。ごく僅かな量だったが、彼の方も同じく、回復途上の人間がそうであるように、食が細くなっていたようなので、あまり問題視はされなかった。
今の彼は、光るような意志をその双眸に宿し、紅色の頬は、あどけなさと生命力を滲ませている。食思が旺盛となっていたことは想像に難くなかった。
「どうぞ、お召し上がりを……」
言われるがまま、私は彼の味噌汁を口に付けた。
温かく、強すぎない塩気と香りが、かつて私も、これを親しんでいたという記憶を呼び起こす。若干不揃いだった実を頬張ると、彼の想いが胸に落ち、空虚なるものが満ちていく感覚が走った。
それはまさしく、命と心の味がした。
「はあ……」
私は嘆声しか出せなかった。
「いかがでしょうか……」
不安そうな彼の視線を認め、私は告げた。
「真心を、ありがとう。……何かを思い出せる味がするわ」
弾けるような笑みが、私を祝福した。私が護りたいのは、まさにその顔だった。
朝餉を済ませると、童は真剣な面持ちで私に話し始めた。私と修行する決意ができた、とのことだった。
「……もう、かくまで過酷な修行は懲り懲りです。お優しいあなたを師匠と呼び、妖術師として学ばせていただきたく」
私の凍て付いていた何かが、溶けていく音が聞こえた。
「……喜んでお迎えするわ。あなたには優れた才がありつつも、その磨き方が合っていなかっただけだと思う。……私は、あなたの力になりたい。是非とも、一緒に励んで行きましょう」
童は目に涙を滲ませながらも、その眩しい笑顔を私に差し出した。
師弟関係を結ぶにあたり、私は彼の名を聞いた。「桜雅」と名乗った。
「素敵な名ね」
「はい、父と母が、三日三晩悩み抜き授けてくれたものです」
「父と母が。……」
晴れ渡るような想いを抱えていたのに、暗雲が立ち込めてしまった。
折角だから、違ったお名前を名乗らない?
その日は戦慄が止まらなかった。桜雅という童を形作るその過去への嫉妬と、禍々しい提案が頭に浮かんだ自身への恐ろしさで。
その年の冬は特別に寒くなると、太占で用いた鹿の甲骨は告げていた。
桜雅との修行の日々が始まった。私は、自身の習得していた術の基本型ーすなわち、炎、光の刃、水鏡、重みの操作、依り代の召喚であるーを一通り見せた後に、こう告げた。
「……これが、私から教えられることの全てよ」
桜雅は驚いた表情を浮かべていた。今度こそ、彼の身には初めての経験であったようである。
「あとは、ここの蔵書を読んだり、私と話をしたり、外の世界を眺めるなどして、自らの興味の向く方向へお進みなさい。……私があなたへできることは二つ。倒れた時に立ち上がるのを助けること、五里霧中を彷徨った際に、一寸先を指し示すこと。……以上よ」
「それで、修行になるのでしょうか……家族は全てが手取り足取りだったのに。全く違う」
「申しましたでしょう。これが醍醐味なのだと……」
この段階で桜雅ができる術は、自らの手を光の刃に変える物だけだった。その刃は礫や岩を容易く両断するなど、確かに斬れ味には優れていたが、武器としては長さが心許なかった。
「この術だけは、山籠りの前、父から徹底的に叩き込まれ、このお陰で、あの地獄を数日生き延びることが出来ました。……兄弟の中で、僕の刃が最も鋭利だったけれど、同時に最も短く、頼りないものでした」
「そこまで鋭い刃を作れるのは、才能がある証よ。では長さを出すにはどうすれば良いか。……仮説を立てて、実践してご覧なさい」
当初は呆然としていた桜雅だったが、私があまりにも何も教えてこないので、まず、彼は、好奇心が刺戟されたあの書籍群を、貪るように読み耽った。そこで何かを掴むや否や、早速術の実践に移った。僅かに刃は伸びてはいたが、一分と変わったかどうかという所であった。
落胆する桜雅を横目に窺いつつ、私は、努めて彼に日常を提供していた。朝は陽が登ると同時に目覚めさせ、静寂かつ新鮮な空気に包まれた、庵の周囲を散歩し、鍛錬の合間にも、朝餉と夕餉、風呂は欠かさなかった。晩も定刻に床に就くよう彼に命じ、充分な眠りを与えた。
「何故ですか……何故、あなたは何もご教示せぬのですか」
「私から教えることは全て申しました。……仮説を立てたうえでのご質問は歓迎します。ただし答えを代わりに考えることは出来ない」
私がわざとらしく首を横に振ると、彼は半纏を着込みながら言った。
「あの夏の終わりごろから、修行を始めてというものの……未だに僕の光の刃は、手を僅かに伸ばした程度の長さしかなく、他の術も決して成功しない。それはあなたが何も語らぬからです。それだのに……」
「それは間違っているわ」
私は語気を強めて言うと、桜雅は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「……今のあなたは雑念に満ちている。私や親たちに承認されたいという欲、兄弟たちへの劣等感、術が成り立たぬ焦り。……どれもこれも、『光の刃』を成立させるに必要な感情ではない。大切なのは、『無我の境地』で徹底的な集中をすること。その瞬間に、あなたは一切の感覚が遮断され、知らぬ間に術が成功している。あなたは日常を重ね、健全な肉体を有しましたが、それは完全なる精神統一の土台となるのです。きっと、出来る。おやりなさい」
私がそう指摘すると、桜雅は沈痛な面持ちで、暫く黙り込んだ。
「試してみる?」
私があの「水鏡」の術で、彼の内面を映し出した。その状態で、彼に『光の刃』を試みさせると、水面は俄かに波打ち始め、畳へ水が溢れ出してしまった。
「では、ご覧なさい。……これが『無我の境地』の真髄」
今度は、私の内面を映し出した。私が『光の刃』を念じると、肘から先が瞬く剣となり、三尺ほどの長さに伸びた。その瞬間も、水面には何のさざ波も立たなかったので、彼は驚きの表情を浮かべた。
その日から、彼は何か決意したような表情を浮かべ、妖術の研磨に一層真剣に取り組むようになった。あの好奇心が甦り、書物を捲る速さは目を見張るほどになっていた。
「師匠、お願いがございます。……剣の筋を、見極めていただけませぬか」
桜雅から『光の刃』の練度について相談があり、私は聞き入れた。
彼が術を試みると、その剣は一尺ほどの長さに成長していた。刃を振るう姿は、若ささながらの勢いは認められるが、確かに筋は向上の余地を残していた。
私は例の白い手套をはめ、彼の腕を取って筋を訂正し、その動きを体に染み込ませた。
汗ばみ、息が切れだした彼に、暇を勧めた。今日の茶請けは柿である。
「今日の物は間違いないわ。……最近、漸く、甘柿と渋柿の区別がつくようになったの」
「最初は驚きました……齧った際のあの感覚は、僕は味わったことがありませんで……」
「……申し訳なかったから、色々勉強して、山に入って、自分でも採って食べて……どんなことも学びにつながるものね」
柔らかく甘い実を味わいながら、私はくすりと笑った。彼もそれに応えるように、笑みを浮かべて、私の努力の結晶を口へ運んでいた。
「師匠の笑みを、初めて見た気が致します」
そう言われて私は驚嘆した。その発言を引き出した、自分自身と、かくまで彼が、私を観察しているという事実に対して。
彼は私に尋ねてきた。
「師匠のご生誕はいつごろでしょうか?」
「……四十年ほど前の、春の初め頃らしいけれど、詳しくは判然としていないわ」
「僕は記録がありますが、それでも一刻か二刻の幅があるので、大体の時間帯でございますね。正確な天宮図を確認したいのですが……この国では難しいのでしょうか」
「そう、権力者であっても中々難しい。西洋では、こちらでいう寺や神社が、記録を取っているそうだけれど。この地は習慣がないからね。……占星術の話かしら?」
「左様です。……この夏、西の国で、未曽有の洪水が発生したのはご存じですか」
「ええ。……占断でも予兆があって、然るべき人たちには警告していた」
「その時の天宮図を作成したところ、幸運とされる三角形が形作られていたのです。……これはどういうことなのでしょうか」
「成程、もうそこまで読み解けているのね。……私も、すぐには分からないわ」
彼は私が残した占星術の記録を持ちこんだ。そして、参考にした部分の記載を指し示した。
(随分と、几帳面ね)
「西洋でも、同様にその三角形が出来た時期、飢饉や疫病が流行したという記録があるようです。……どうして『幸運』と見なされているのか、不可解です」
「……私もそこは研究が必要そう。これは私の印象だけれど、占星術で『幸運』の配置の人は頭角を現すのが早く、『不吉』な人―いわゆる『丁の字』や『正方形』の配置の人など―は大器晩成、という気がするの。一見すると前者の方が恵まれた人生を送るように見えるけれど、逆に言えば若いころから老いるまで、同じような生き方を強いられ、否が応でも、周囲から重い期待を背負う可能性もあるのだと考える。後者は才能が育つまで時間がかかるけれど、その分、ゆとりが持てるとも言えるわね」
「……前者は走り続けねばならず、後者は走り出すまでに困難があるということでしょうか」
「良い例えね。世相に当てはめた時、どう考えるかは難しいけれど、『幸運』の時は物事が何か動きやすく、『不吉』な時期は停滞する、と考えても良いかもしれない。……ただ、留意してほしいのは、占いは絶対ではないということ。あくまで何かの出来事が起こる予兆があるかどうかを示すものだから。『当たるも八卦、当たらぬも八卦』というのはその戒めが込められているのでしょう」
「全くですね。師匠の仰る、『正方形』の時期に何も生じぬ、ということも記録されておりましたので……。年明けも近いので、新年の状況も視てみようかと思いました」
北風が強く吹き、力尽きた銀杏の葉が舞うのが見える。桜雅は、自分の両手に息を吹きかけた。無邪気な顔でこんなことを聞いてきた。
「ところで、寒くなりましたから、その師匠の手套もお召しになる甲斐がございましょう」
「ええ。……これは、絶対に必要なものなの」
彼の表情から、無邪気さが消えた。何かを見透かされたようで、背筋がヒヤリとした。
「その、前から気になっていたのですが……どうして必要なのでしょうか」
私は生唾を飲み込んでから言った。
「……自分を護るため、かな。日に当たると爛れてしまうの」
「……お顔は隠さずとも、平気なのですね。他に護りたいものがお有りですか」
「……何が言いたいの?」
「師匠は誰かを護ったり、育んだご経験がお有りですか」
「……」
黙り込んでしまった私に、彼は慌てて声をかけた。
「も、申し訳ありませぬ……!つい、脈絡のないことをお伺いしてしまい。これでは、『無我の境地』に程遠いですね」
彼は戯けていたが、その目には、何か違う感情が混じっていた。私は乾いた笑みを零すことしか出来なかった。
その後も桜雅は鍛錬を重ね、ある日突然のことだった。
光の刃が、三尺に迫る長さまで成長した。そのほかの炎、水鏡、重みの操作、依り代の召喚も遺憾なく発揮できるようになったのである。
「師匠……感謝申し上げます。僕は妖術師として、大きく飛躍できました」
歓喜に満ちていた私は、微笑みながら答えた。
「いいえ……これは、あなたの持っていた才が、あるべき姿になっただけ。努力したのはあなた自身ですよ」
彼はまた、あの咲き誇るような笑顔で私に応じた。私は、そんな彼を手套ごしで抱き留めたのだった。
その日の晩、就寝前のこと。彼は水鏡の術で何かを始めていた。
「これは、我が一族でも得意な術で、見かける機会が多かったのです。自身でも試せるとは、まさに感無量です」
私の心に、微かな亀裂が走った。
「何をするつもりなの」
「師匠。あの時の、魑魅魍魎どものことを思い出して下さらぬか」
私は彼の言葉通り、桜雅を助けたあの夜のことを想い起した。すでに霞み始めた記憶であった。
「では、僕の念じた墨も」
彼は墨を二つ用意していた。一つは私の記憶を込めた墨。もう一つは彼が想いを込めたものだ。
その二つの墨を混ぜ合わせ、水面に落とすと、あの化物どもと桜雅が、死闘を繰り広げる光景が示された。
「これで、僕の恐怖心を払拭するのです。奴らに必要な術や、弱点、そのようなものが必ずあるはず。それをこちらを拝見して見極めます」
私は部屋の蝋燭を消した。暗黒に包まれ、水面は見えなくなった。
「もう遅いから、今日は修行は終わりましょう」
私は彼の目を見ずに言い放ち、逃げるように自室に向かった。
もう、心は完全に断裂していた。布団に潜り、ボロボロと見苦しく泣いた。
太占の結果は誤りではなかろうか。禁忌ではあるが、縋る思いでもう一度試したところ、やはり厳冬は避けられない見通しだ。
まだ冬に入って間もなかったが、早くも雪が降りそうだった。
一口でも吸えば、肺腑は瞬く間に凍て付き、土壌は生そのものを停止させたかの如く、固まり切ってしまうほど寒を極めている外気の中、我が庵の内部は、私の腐敗した泥濘の様な暗い感情と、術と桜雅の熱が渦巻く、底知れぬ沼と化していた。
「たす……けて……あつ……い……」
意識を失い、譫言を漏らす桜雅の苦痛を除くことも出来ず、私は、ただただ眺めるだけだ。
(あの時と、全く、同じ……)
夫とあの子を喪い、孤独となり、全ての愉しみと興味を棄ててからというもの、私は、どうすれば救えたのか、何が間違っていたのかを、亀の様な歩みで研究を重ねていた。それは、今日のような、千載一遇の好機を活かすための執念に他ならなかった。
桜雅と接する際に用心したのは他でもない。日常的に外気と陽光を浴びさせ、私からの妖力の影響を弱めること。健全な肉体と精神を保たせること。そして……あの白い手套を着用し、彼に触れることだった。
戸を開けると、凄まじい暴風と叩きつけるような雪が部屋に吹き込んだので、私は反射的に閉ざした。ここ数週間、君臨している冬将軍は、まさに魔王とも言うべき勢力を誇り、この地を蹂躙したのだ。
雪や寒さに関しては、私と桜雅が炎の妖術を応用すれば、凌ぎ切れるので問題ではなかった。……庵に熱を循環させ、厳寒と積雪を防いだのである。課題は、換気と日光であった。悶々と籠る私の妖気を、吸引し続けた結果、彼の無垢な魂は少しずつ澱み、蝕まれていったのである。
しかし、これだけであれば、吹雪が落ち着いた折、彼を外に連れ出せば、回復するものだから、気にしすぎることはない筈だった。……思うに、止めを刺したのは、私が彼の肌を直に触れ続けたことに違いない。
彼が活力を滾らせ、明るい笑みを浮かべ、外への想いを語る中、私は暗い感情がむくむくと湧き上がってきた。
その笑顔を消し去り、私の依り代にしてやる。
護ろうと決めたはずのそれを眺めるたび、そんな悪鬼のような囁きが聞こえる様になった。
私は必死でその声から耳を背けてきた。否、もう一方の声をぶつけたのだ。
彼は世界に一つの花なのだ。それを素直に認められずして、師を語る資格はない。
この二論は平行線となり、大激論の収拾は付かなかった。そこで、私は、ある妥協案を提示したのだ。
彼の温もりを直に感じるのはどうか、と。
あくまで、手套が必要だというのは「仮説」だった。仮説は検証せねばならない。もし不要であれば儲け物で、実際に必要ならばその時対処すれば良いではないか。
そんな甘えは、無情な現実を持って是正されることになった。
「師匠のお手は……かくまで温かいのですね」
庵の掃除を終え、悴んで青白くなった彼の手を、私は握った。それは柔らかくも、将来の膂力と逞しさを感じさせる、禁断の果実だった。
かつて愛していた、あの人の顔が脳裏を駆け抜ける。
(ああ……甘い……これだ、私が遠い昔から求めていたものは……。一度だけ、一度だけだから……)
「し、師匠……大丈夫ですか。必死なお顔をされて……」
桜雅の声で、私は表情を改めた。
「そ、そう。緊張していたのかしら……」
「な、なんだ……師匠も緊張されるのですね」
桜雅は微かな恐怖をにじませつつも、またあの幼さの残る笑顔を私に見せてきた。
時の止まった自室で、私は内省する。その時の私の表情は、彼の指摘通り、餓鬼の様に、執念に取りつかれたものだっただろうか。……人間の顔ではなかったのか。
違う。あれは、彼の手を温めようと、緊張していただけだから。
風呂から上がり、ぽくぽくとした彼の温もりを、私は彼の腕から、頬から感じ取る。男の逞しさというより、童らしい柔らかさを多く残しているその感触は、将来の我が子も備えていたものだっただろうか。
壊してはならぬ。護らねばならぬ。そう誓ったはずなのに。
「お湯にのぼせそうだったので……師匠のお手が、冷たくて気持ち良うございます」
桜雅は恍惚の表情を浮かべていた。それを目に焼き付けたその時、奴が目を覚ました。
(そうか。なら、存分に堪能させてもらう……ッ)
師匠……あなたは、想ったより、お力が強いのですね……。
(ああ……溶ける……満ちる……。……否、まだだ。まだ足りぬ。幾年も飢えていた我が心を満足させるには、こんな程度では……)
……師匠。……
(うるさい。暴れるな。絶対に放すものか。お前の、その全てを、私に……)
「し、師匠!……痛いです!」
我に返り、すぐに手を放す。
「ご、ごめんなさい!……加減がわからず」
桜雅は怯えの表情を見せた後に、心配そうに、こんなことを言い出した。
「……師匠、何かお悩みがおありなのですか」
ドキリ、と胸に鎹を打ち込まれたような気がした。
「い、いいえ、大丈夫よ……心配ばかりかけて、申し訳ないわ」
「不勉強ながら、僕が、占って差し上げましょうか……」
「そ、そうね……あなたも占いに興味がおありだから、そのお話に集中しましょう」
「はい。……占いと妖術の話をしている時の、落ち着いていてお優しい師匠が、僕は一番好きです……」
想いがけぬ言葉に面食らったが、私の表情は緩んだ。
「ありがとう。私も、几帳面に努力するあなたが、誇らしいし、好きよ」
桜雅も安堵の顔を浮かべた。
「良かった……」
それはそれとして、気になることがあった。
「……そこまで、違うかしら」
「……はい?」
「そこまで、先ほどの私と、あなたと修行に励む私……違うのかしら」
「……恐縮ながら、率直に申し上げると、そう考えます。……もしかしたら、僕もあの森でそんな顔だったかもしれませぬ」
「……え?」
「僕があの森で彷徨い、飢えていたころ……わずかに刃の術を使えたというお話を差し上げたと思います。あの術で、僕は獣どもを何体か狩り、糧としておりました。……生家では戒められていた獣肉食の禁を破らざるを得ないほどの飢えの苦しみは、筆舌に尽くせませぬ。その時の表情は鬼気迫るものだったと形容できましょう」
「……それは、仕方がないわ。生きるためのことだから。兎に角、先ほどのことはごめんなさい。……明日から、また修行に励みましょうね」
桜雅はしばらく考え込んだのち、笑みで私に応えた。
その後、泥のように眠る彼を眺めながら、私は頭を抱える。
彼の腕を掴んだ時の、私の力。あれは、まさしく人ならざる存在が授けたものなのだろうか。占いと妖術に没頭する私。指摘されたように、その際の私の心は、澄み切った凪である。彼との絆も、それを経て築き上げたのだ。……それにしても、彼は何ゆえに、ここまで疲れ切った顔なのだ。まさか……。
違う。そもそも、愛しているのだから、多少触れ合うことに何の問題があるのだ。思い出しなさい、彼も満更ではない表情だったではないか。気持ち良いとも言っていたはずだ。
違う。違う。……違うはず。
ある朝を境に、異変は始まった。
彼が起きてこないので、様子を見に行くと、布団の中で惚けた表情の彼がいた。
「何故だか、昨晩は眠ることが出来ずで……特に昂奮している訳でもございませぬが。……寧ろ、頭と体が重く……」
不安定な足取りで、朝餉に向かわせたが、味噌汁を一口啜って終わりだった。
「申し訳……ありませぬ。……とても、受け付けず。……最近……お外に出られていないからでしょうか」
彼は弱々しい表情で笑った。
最早心当たりしかなかった私は、慌ててあの手套をはめてみたが、その晩から彼は発熱した。
「これも……修行、なのでしょうか。……山伏のように、寝食を忘れられているので……」
「やめなさい、可笑しな事を。……お願い。何か食べられないかしら」
「……出来ませぬ。……何かを口に含むだけで、胸が詰まります……」
「そう。……では、兎に角、今はお休みなさい」
「……厭です。眠るのが、怖い」
うだるような熱に包まれている筈の彼の体が、わなわなと震え出す。
「酷い夢を見るのです。……全身が燃えている何者かや、黒い大蛇に、追われ、身を砕かれる、恐ろしい夢を……」
一種放心していた貌がにわかに変わり、目が見開かれ、恐怖に苛まれているのがわかると、私の息も苦しくなる。……ああ、真っ当な親子であれば、母親の愛と抱擁で、その戦慄を止められるものを。
私は唇を噛み締めつつ、こう言った。
「……精神を鎮め、安眠を誘う香を焚くわ」
「ありがとう……ございます……」
香から甘い煙が漂い始め、部屋を満たしていく。それが功を奏したのか、穏やかな表情で眠りだした彼の顔を見て安堵した時、こんな声が聞こえた。
(全てお前が原因であろう。如何に責任を取るのだ)
我が身からの囁きに応えるように、私は碌に休まず、手套越しで、彼の汗を拭き、額の手拭いを取り換え、衣類の交換などの世話を続けた。
そんな付け焼刃のような贖罪は、私の強すぎる妖力が、ことごとく握りつぶすかの如く、彼の容体は悪化の一途であった。今や骨と皮となり、理性を崩され、まじないにもならぬ譫言を漏らす彼は、熱い霧を彷徨い続けた者の、成れの果てだ。
太占で、彼の将来を視る。間違いなく、このままだと彼は死ぬ。助かる方法は三つ出た。私から離れるか。あるいは、彼を救出した日に行った、「あれ」を試みるか。まずこの二つから検討した。
一つ目の方法は覚悟していたことだが、二つ目の方法が私を悩ませた。わかるのだ。四度目はもう、無事ではいられない、と。そもそも、「あれ」は、生涯に幾度と行って良いものではない。夫にも、息子にも、彼にも施したことで、既に限界が来ていたのである。
では、三つ目は何か。救われたい一心で、それを確認した。
幼い頃の記憶を、『私』で塗り潰せ。
「うわあああああッ!!」
私は悲鳴を上げながら、その甲骨を粉々に叩き割った。
忌々しい我欲を示したその証拠を始末すると、庵に静寂が訪れた。
私は、机に伏せていた。
倒れたら助けるから。
迷ったら、道を示すわ。
一体全体、あの言葉は何だったのか。
身を犠牲にする覚悟もなく、のうのうと生き恥を晒す私。
ごめんなさい……ごめん……なさい……。
手套に、私の汚い涙が染み込んでいった。




