二人のエピローグ
「ねえ俊!」と綾が呼びかけてくる。僕はまだ長谷川綾のことを「綾」と呼べたり、時々呼べなかったりする。できるだけ名前で呼ぶようには頑張っているのだけれど、なんだか気恥ずかしくて、つい長谷川と呼んでしまうこともある。
そんなとき、綾は不満げなふくれっ面になるのだ。ふくれた表情をする綾は、それはそれでとても可愛いのだけれど。
「もう俊、遅いって!」
「ちょっと待てよ綾。俺、今日は荷物が多いんだからさあ」
春になって、僕は綾と同じ第一志望の大学に辛くも受かっていた。学部は違うけれど一緒のキャンパスなので、こうしてほぼ毎日一緒に通学している。そしてこの横国という大学は、山の上にあるせいで結構坂道が多い。今日の講義に使うパソコンや重い資料などをたっぷり持って来ていた僕は、綾の背中を見ながら息を切らして坂道をついていく。
「ねえ、ところで俊はアルバイト先決めたの?」
坂の上で待ってくれていた綾が僕に聞いてきた。一応二人とも給付型の奨学金をもらえるようにはなっていたけれど、それにしてもアルバイトをしないとこの先の生活は苦しい。
「一応塾講しようかなって、思ってるけど」
「ああ、やっぱりそうなんだ。俊は数学教えるの上手だもんね」
「えっと……、綾は?」
「う~ん、やっぱりパン屋さんかな……」
「そっか、お父さん、喜ぶかな」
「まあね」
綾が少し嬉しそうにしながら、そう返事をする。
それはつい最近のこと、綾と僕が大学に合格した数日後、二年近くぶりに綾の家族四人が再会したのだった。一時は失意のあまりにリハビリをやめてしまった綾のお父さんは、再起を賭けてリハビリを再開していた。
その甲斐もあって、お父さんはなんとか自分一人で身の回りのことは出来るようになり、そして自分の店をもう一度開こうと決意を持ち始めているという。まだまだ資金面とか、お父さん一人ではパンを作れないこととか幾つかの課題はあるものの、二年の月日を経て綾の家族は昔にもどりつつあった。
『ほら、これが弟。似てるでしょ?』
家族で集まったという次の日、綾がスマホの写真を僕に見せてくれた。画面に映っていたのは中学生くらいの男の子。ちょっと拗ねた時の表情が僕に似ていると綾は言うのだけれど、画面の中の弟さんは僕なんかよりもずっと整った顔立ちで、綾の弟なだけはあるなと妙な納得をしてしまった。
「で、お店の再開は決まったの?」
「ううん、まだだけどね、でもそれまでにもう一度一緒に暮らそうか、って話になりかけてる。だけどやっぱり私……」
そう言って、綾は少し顔を伏せた。その先は聞かなくても僕にはわかっている。それはこの前も綾が気にしていたことだったからだ。
「私、やっぱりね、自分があんなことをやっておいて、結果的には俊の家族を壊しちゃって。それなのに私だけ……」
私だけに家族が戻ってもいいのだろうかと、綾はまた僕に言った。僕は綾を恨んだことなんて一度も無い。恨むどころか、いまの僕は長谷川綾のことを誰よりも大切にしている。だから綾には幸せが訪れて欲しいし、家族が戻っても欲しいし、そして――この先もずっと僕の側にいて欲しいと思っている。
「そんなこと心配しなくてもいいよ綾。俺は綾に幸せな家族が戻ってきて欲しいし、それに綾にはこの先も……」
――綾にはこの先もずっと側にいて欲しいと思ってるから、と僕は続けて言おうと思ったのだけれど、よく考えると朝っぱらからこんなことをシラフで言うのは恥ずかしくて、ちょっと言いづらい。
「なに俊? 私にはこの先も?」
少し不思議そうな目になった綾が僕を見る。
「えっと、まあ、この先も綾にさあ……」
言いよどむ僕の目の前にいるのは、僕の大切な女性。セミロングの黒髪に綺麗なまつげ、そして僕を見つめる優しげなまなざし。
坂の下から吹いてくる横浜の風が、ほぼ一年前の長さに戻った彼女の綺麗な髪を、サラサラと揺らしていた。
<パンドラの恋人 おわり>




