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パンドラの恋人  作者: 櫛名田慎吾
第六章
38/46

キミは、長谷川綾という女の子を知っているよね

 △


 翌日の昼頃、弁護士の先生から「逮捕された案件については被害者との示談が成立し、もう一方の事案についても示談をした」と、連絡が入った。


 それは昨日から大丈夫だろうと言われていた示談にプラスして、反省の意を検察に示したことになる。すべての示談が成立して家族三人は一応安堵はした。特に兄などは、もう大丈夫などといって上機嫌で昼飯を食べに出かけたのだ。


 母親と僕はそういう脳天気な発想までは出来ず、特に母親は食欲が無いといって、家で簡単なお茶漬けしか食べなかった。


 そうするうちの昼下がり、弁護士の先生がやってきた。先生は成立した示談についてひとしきり説明をしたあと、僕に手伝って欲しいことがあると、なぜか僕だけを連れて父親の部屋を案内させた。


「えっと先生、父の部屋にあるものはパソコンとか、紙の資料とか、全部警察に押収されちゃいましたけど」


 昨日も父親の部屋を確認した弁護士の先生が、なぜ今日もまた何かを探すのか。僕は気になって聞いてみる。しかも僕に手伝って欲しいこととはなんだろうか?


「俊くん、そこに座って」


 僕は先生に言われるままに、座布団のうえに座る。先生は相変わらず顎ひげを触りながらも、僕の方を真剣な表情で見ていた。その目はまるでなにかに同情しているような目の色をしていた。


「実は私にもキミと同じくらいの息子がいてねえ、まあなかなかキミぐらいの年齢は難しい。男の子でも女の子でも」


「はあ……」


 それは父親が援交で捕まった僕への、心のカウンセリングかと思うような話し方だった。実際にこんな経験をする子どもも少ないだろうし、それを機会にひねくれる息子や娘も多いだろう。


 父についての事件の話を少しばかりしたあとで、先生は僕が思ってもいなかった女性の名前を出した。それはあまりにも突然のことで僕の息は一瞬止まってしまう。


「俊くん。キミは、長谷川綾という女の子を知っているよね」


「えっ、……長谷川ですか? ええ、まあ同級生ですから」


 その返答にその通りだと言わんばかりに先生は深く頷く。


「うん、そのようだね。じゃあ、今から言うことは私の独り言だからね。私にも守秘義務というものがある。キミは僕の独り言を偶然聞いたんだ、いいね、約束できるね」


「先生、いったい長谷川がどうして……」


「今から独り言を言うから、約束できるね」


 僕の質問を遮った弁護士先生の口ぶりからして、これは父の事件に長谷川綾が関係しているのだと否が応でも察しがつく。僕は、「約束します」と、黙って先生の独り言を聞くことにした。


 △


 その独り言を聞いているあいだ、僕は信じられない思いで頭がパンクしそうだった。まさか長谷川と僕の父親がホテルで会っていたなどと想像も出来なかった。


 もしかするとここ数日学校を休んでいるのは、この事件で警察の取り調べを受けていたのかもしれない。そうすると昨日部屋にいなかったことも合点がいく。


 話の途中で何度も先生が「関係は持たなかった」、と強調したのは僕の気持ちを推し量ってのことだろう。長谷川は「怖くなって逃げた」、と証言し、なにもしていないので加害者としての処罰は望んでいないと言っていた様子。それでも示談を受け入れれば処罰が軽くなると説得した結果、示談金などいらないから紙切れ一枚で済ませて欲しいと親子で言ったという。

 

 そして続いて、弁護士の先生がそれとなく僕の家庭のことを口に出したときだったらしい、長谷川綾が「私が悪いんです」、ときっぱりと言って、それ以上の話を聞いてくれなかったとのことだった。


「たぶんあの娘さんは、どこかで俊くんの父親だと気づいたんだろうなあ。そうじゃなけりゃ、あんな態度はとらない。私も長い間弁護士をしてるけどね、なぜあんな聡明そうな娘さんが援交なんかに手を出したのか、事件のことは別にして興味はあるけどね」


「そう、ですか」


 弁護士先生の独り言、という名の長谷川の話を聞き終わった僕は、七月以来の長谷川の変わり様を思い出した。髪型を変えたのはちょうど父との援交から逃げ出したあとの頃。その後、行きがかりで僕とラブホテルに一泊をして、そして夏期補習の頃から僕に対する様子がおかしくなった。


 なにもしていないとはいえ、ラブホテルに泊まったときまでは普通だったような気もするけれど、思い返せばあの模試の朝からちょっといつもの長谷川綾らしくはなかったような気もする。


 ――でも、どちらにしても本格的に態度がおかしくなったのは……。


「そうか、もしかしたらあのとき……」


「なにかね?」


「いえ、父親の様子が夏の初めに、ちょっとおかしかったかなと思って」


 それはとっさについた僕のウソ。


 長谷川の態度が変わった原因は、もしかしたら僕の父親の職業を言った時かもしれない。そういえばあの時、早朝の駅で妙に長谷川がソワソワしていたような気がする。それは朝帰りを誰かに見られたら、という動きだと思っていたけれど、もしかしてあれが。


「まあとにかく俊くん。キミにはまったく責任は無い。その長谷川綾という女の子のことにしても、キミが知っていたほうがいいと思って独り言を言った。まさかキミが逆恨みをするような男の子とは思えないし、相手もトラブルを避けるだろうけれど、とにかく冷静にね」


「ええ、もう二ヶ月程度で年が明ければあとは自主登校になりますし。長谷川とは、何も……」


 この時の僕は、心から本当にそう思っていた。父親が明日か明後日に釈放となっても、もしも十日間の勾留となっても、さらに言えばたとえ父親が職を失っても、長谷川とはもう何の関係も持たないようにしよう。これ以上長谷川の心を乱すのはやめようと、本当に僕はそう思っていたのだった。

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