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パンドラの恋人  作者: 櫛名田慎吾
第二章
14/46

兄貴

 △


「ただいま」


 玄関を開けるとすぐに兄貴の靴が目に入って、僕はちょっとブルーな気持ちになる。僕より五歳年上の兄は今年から就職していて、会社の独身寮に入っていた。今日は土曜日だから家に洗濯物でも持って帰って来たのだろう。


「お帰り俊、ご飯すぐ食べる?」


 母親がリビングから声を出す。


「いや、ごめん。帰り道で粕谷とラーメン食べちゃって、もう少しあとでいい」


「あらそう、じゃあお父さんが帰るまで作らないから」


「うん、それでいいよ」


 僕はそれだけを言うと、リビングには入らずに自分の部屋にあがるつもりだった。けれどやっぱりというか、兄貴に話しかけられた。


「なあ俊、お前やっぱり理系に行くのか?」


「まあ、一応そのつもりだけどさ」


 開いているドアから兄貴の姿が見える。僕よりも背が低くて、肩幅も広くて、髪はくせ毛じゃなくて、兄弟なのにあまり似ていない兄だった。


「理系だったら半分くらいは大学院まで行くんだろ、六年も大学に行ってなにすんの?」


 それを聞いて兄貴はどうするの? と、逆にこっちが言いたいところだったけれど、口喧嘩になるのも嫌だったので何も考えていないことにする。


「俺、まだそんな先のことまで考えてないよ」


「それ考えとかないとダメだろ、母さんたちだって金の都合があるんだからさ」


「まあ、そうなんだけど」


 兄貴は僕が理系に進むのをあまり好ましく思っていなかった。真意は分からないけれど、とにかく学費が掛かって、結構な割合の学生が大学院に行くことが気に入らない様子だった。


 僕の家族の中で理数科目が好きなのは僕だけだった。四十七歳になる父親は私立の文系を出て銀行員。そのひとつ歳年下の母も短大を出て結婚するまでは普通の会社の事務員。そして兄貴はこれまた私立の文系学部を出たのだけれど、父のような都市銀行には就職できずに都下の地方銀行に勤めている。僕だけが理系が好きで、父も兄貴も僕のことを変わったヤツだという目で見ていた。


 兄貴と僕は子供の頃からそんなに仲がいいわけでもなかった。五歳年上だから兄弟げんかをしても負けるに決まっているし、弟だからといって可愛がられた記憶もない。兄貴が高三で受験だったときには気が散るからと、テレビの音もゲームの音も小さくさせられ、友達を家に呼ぶことも出来なかったほどだ。


 僕が中二になる頃には兄貴の背を追い抜いてしまって、それから一層風当たりが強くなった気もする。父親似の兄貴と、母親似の僕。性格が合わない兄弟なんて世間を探せばそこら中にいるだろうけれど、僕と兄貴もその中の一組だった。


「私立の理系なんて出るまでに学費がいくらかかるか知ってる? 母さん」


 兄貴は隣でお茶を飲んでいる母親に言う。


「ウチの支店の教育資金のパンフレット見たんだけどさ、四年で六百万くらいいるらしいよ。大学院まで行ったら一千万近いんじゃない?」


 そんなことを言う兄貴に僕はちょっとうんざりする。自分がそういう道に進まなかったといって、告げ口みたいに言う必要はないと思う。だから僕は出来るだけ学費の安い国立に行きたかった。父親が悲観するほどの薄給ではないとはいえ、兄貴にブツブツと言われるのは嫌だった。


「だからさ、俺、一応国公立目指してるんだけど」


 そんなことを兄貴に言っても仕方ないかもしれない。けれど、言わずにはいられなかった。


「ホントに受かるの、コイツ」


 疑わしそうに僕を指さす兄貴に向かって、母は「気を抜かなければ受かるって聞いてるけど」と返事をする。兄貴も五年前に国公立を受けたけれど、前期も後期も、そして中期も全部落ちていた。そして受かっていた大学の中で一番良かった大学に行ったのだった。


「へえ、まあ一応地方の田舎にも国立大学あるし、けど下宿するんだったら余計に金がかかると思うけどな」


「まあいいじゃない、俊がやりたいことがあるんだったら」


「母さんは昔から俊に甘いんだよ」


 そんな兄貴の憎まれ口には慣れていたけれど、いろいろ聞いてもやっぱり気持ちのいいものではない。僕が口答えをすると倍くらい言い返してくるし、子供の頃はそれこそ「生意気だ」と叩かれもした。だからもう、こんなときには何も言わずに立ち去るのが一番だと心得ている。


「母さん、晩ご飯できたら呼んで」


 反論することもなく二階に上がる僕の背中に、「勉強しとけよ」と兄貴の声が届く。いったい自分の人生に何が関係するのか知らないけれど、たぶん大人になったら兄貴とは疎遠になるのだろうなと、僕は感じていた。


 人間だからウマが合う合わないはあるに違いない。ただ僕の周りで一番合わないのは兄貴だった。いっそのこと他人であれば合わないで済むのだけれど、なまじ兄弟だけにそりが合わないのは辛い。僕は自分で決して人付き合いが悪い人間だとは思ってないし、思いたくもない。人付き合いが悪いといえば、長谷川綾なんてひどいものだ。あの粕谷を凹ませるほどに喋らないなんて、さすがに氷姫と粕谷が呼ぶだけのことはある。


「はあ……」


 僕は制服の上着を脱いでベッドの上に寝転がった。


 うつ伏せになりながら、さっきまで粕谷と話していた内容を思い出す。その話もたいして面白い話ではなかったにしても、兄貴との会話を思い出すよりははるかにマシだった。


 粕谷は長谷川綾のことが好きかもしれないと言った。まあ長谷川は美人だから、その外見から惚れてしまっても仕方はない。ただ粕谷はラーメンを食べながら「僕にはまったく脈が無さそうだった、まさに氷姫だったよ」と自虐的に笑ったのだ。「俊を見てたら僕にも出来ると思ったのになあ」と、チャーシューをつつきながら話す粕谷は、本当に残念そうだった。


 実際のところ、「なあ俊、お前どんな魔法をかけたのさ」などと粕谷に言われても、僕にはさっぱりわからない。それこそ兄貴と僕の関係じゃないけれど、ウマが合うだの合わないだのという話になってしまう。


 ただ僕にとっての長谷川の印象は昨日今日でだいぶ変わった。本当はもう少し素直な女の子で、どんな理由があるのか知らないけれど、他人との間に故意的に壁を作っているのだと感じた。


 それは恐らく粕谷から聞いた家庭の事情があるのだろうと想像は出来る。それでも今日粕谷が言ったように、「もっと高校生活を楽しんだらいいのに」という部分には僕も賛成だった。僕が考えるまでもなく、粕谷はこれからも長谷川綾のことを心配して放っておけないはずだ。アイツはそういう性格だし、だから僕も中学からずっと友達でいる。まさか僕が長谷川と付き合うわけにはいかないけれど、粕谷の想いを少しでもかなえるために僕も協力してやろうなかと、ぼんやりと考えた。


「ホントに粕谷が付き合えばいいのに」


 僕が口に出してそう呟いたとき、不意にポケットの中のスマホが震え出す。この振動はメッセージアプリじゃない、着信だ。僕の携帯に電話を掛けてくるなんて粕谷か優花くらいしかいない。案の定スマホを見てみると優花からの着信だった。


「ねえ俊、いま打ち上げやってるんだけど」


 優花はガヤガヤとした場所から電話を掛けて来ていた。たぶんこの雰囲気はカラオケボックスの中。


「カラオケ?」


「ピンポーン、当たり」


 そう言って嬉しそうに電話口で打ち上げのことを話す優花だったけれど、今から違うクラスの僕に一緒に打ち上げに混ざれという訳でもないだろうし、たぶん終わったら迎えに来いという話だとピンときた。


「で、迎えに行ったらいいの?」


「当たり当たり! たぶんねえ九時くらいには終わるから」


「しょうがないなあ」


 面倒くさいといえば面倒くさい話だ。でも女の子が夜道で危ない目にあっても困るし、優花の家の側はちょっと薄暗い場所もある。電話を切ったあと「カノジョに甘いんだなあって思って」、と言った長谷川の表情を思い出したけれど、これは甘いんじゃなくて心配なだけだから、と自分に言い訳をしてスマホを充電するためにベッドを出たのだった。

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