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ヤーさんのお姫様  作者: 不知火 初子
五章 ひとりでだって強くはなれるよ
325/643

参佰弐拾伍




病院に着いて、手術室前に設けられた待合室にいて、今は椎名と二人きり。


それくらいのことしか、まだちゃんと認識できていない。




怪我をして血を流している人に、怒る気はさらさら無かった。


だけど、もどかしい思いは残っている。




悠二くんは先に救急車で運ばれ、わたしと椎名は、黒スーツとラフな格好の舎弟さん二人と一緒に病院を訪れた。



珋二さんは病院側と数分話して、柳一さんと涸沼さんの乗った車で梓先邸へ戻った。


涸沼さんの今後について警察もまじえた話し合いをするため、玲二さんがそこで待っているそうだ。



珋二さんも柳一さんも、こういう状況には慣れているのだと思う。


梓先家と知り合いの病院らしいし、傷口を縫合するだけだから半日もかからないと珋二さんは帰り際に言った。





車の後部座席で膝を見つめ続けるわたしに、舎弟さんたちはただの怪我だと告げた。


でも、刃物でお腹を切られているわけだし、出血の量だって多かったはずだ。


理解力の乏しいわたしでも、大変な負傷だということくらいは分かる。


ひとつも安心なんてできない。




ここへ来る道中のことを思い返しながら、何がただの怪我だ、と少なからず恨みがましい気持ちでチラリと視線をあげた。


手術中ランプが点灯してから、まだ10分も経ってない。



緊張している場面では、時間の進みを遅く感じることがある。


自分だってそういう経験がないわけじゃあない。


だけど人の、それも大事な人の重要な局面ではその比では無いくらいに時間の進みが悪いんだなと、一瞬だけ斜め上の方向に思考を逸らす。



永久に、彼は戻ってこないんじゃあないだろうか。


もう、その姿を隣に見ることはできないんじゃあないだろうか。



そんな後ろ向きな考えばかり浮かぶのに、頭のなかは悠二くんと過ごした楽しい思いでいっぱいだ。




終わるまで、あと何分かかるのだろう。


珋二さんたちと別行動を取ってから、どれくらいの時間が過ぎたのか分からない。


悠二くんの声を聞いたあの瞬間が、あまりにも遠い記憶のように感じる。




時間の感覚なんて曖昧だった。


スマホで何度確認し直しても、それが正しい時間だとは思えないから。




ただ待つことすら耐えられそうにない。


こんなに息苦しいのに、吐き出すものを持っていない。


手のひらの汗が止まらない。



よほど深刻な顔をしていたのか、離れて座っていた椎名が隣に座り直した。




「死ぬような怪我じゃあないことは確かだよ」


「どうして、……そんなことが分かるの?」


「何故って、深く食い込ませないために僕の手を犠牲にしたんだよ?」




一瞬、そうかと納得しかけて、無言で首を振る。




「……。でも怪我はしてないじゃん」


「あ。バレた?」




傷の加減が浅かったかどうかなんて、もう記憶の彼方だ。


今でも鮮明に思い出せることと言えば、悠二くんのお腹に半分くらい刃がおさまっていたことくらい。


そして血がたくさん出ていたことくらいなものだ。




どの程度こちらが解っていると考えているのかは知らないが、椎名の言葉は質が悪い。


彼のタイミングの悪い冗談はいつものことなのに。


今の自分には聞き流せる余裕がないのだと気付いた。




「捻挫までしてるのに、怪我してないなんて言ってごめん」


「いいよ、それは」


「ごめん」


「…………僕もごめん」




気まずい沈黙だ。


はじめての経験でもないのに、今日この瞬間ほど心に響く寂寥感はないだろう。




「姫ちゃん、ちょっと寝る?」


「それは嫌だ」


「実は眠いんでしょ?」


「違う」


「強情だなあ」


「この状況で眠れるほど強くないよ、わたし」




でも、と呟きかけて、椎名の肩にソッと自分の頭を置いた。


相手も静かに力を抜くだけで、何も言ってこない。



拒まれないのは、居心地がいい。



時間の概念なんてないみたいに朧気なひとときで、確かに椎名はちいさく鼻をすすった。




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