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「なっ、」

「何言ってんの!!」

「にゃぁ」

 

 嬉しそうな彼の全快の笑顔を前に。

 彼女と猫と自分の声が重なる。

「おーお。驚くタイミングも一緒で気が合うねぇ。名前の音も似てるし、本当ぴったし」

「お兄ちゃん、何がしたいの?」

 眉をしかめた彼女が小さな声を出す。今にも泣き出しそうで、見てられなかった。

「・・・伊吹。お前がおれを頼りにしてくれてるのは分かってるよ。だけど。いつまでもこのままだと、お前が困るんだ。この先、ずっと一緒にいられる訳じゃない。伊吹の事を一番に考えてくれる奴が必要だ」

 ふいに真面目な顔になった惺が、静かに諭す。

「それが、」

「それが僕だと言いたいのか」

 泣きそうだと思っていた彼女の目が強く惺を見返して、口を開く。我慢できずに声に出した自分の言葉とまた重なった。

「なぁ。お前、今彼女いないんだろ?試しに付き合ってくれないか?」

「そんな簡単な問題じゃないだろ? 第一、何で僕なんだよ? 何かあったらどうするんだ!? 大事な妹じゃないのかよ」

 すがるように自分を見た惺に腹が立って。同時にそこまで必死になる彼の意図は何だと疑問に思う。

「大事だよ」

 小さな笑みを浮かべて、彼女を見ながらそう呟く。

「だから、おれが一番いいと思ったお前に頼んでる。別に結婚してくれって言ってる訳じゃない。伊吹に少し付き合ってやって欲しいだけ」

「伊吹ちゃんはどうするんだよ。僕が何かするとは思わないのか?」

 唇を引き結んだ彼女を見やると。惺は穏やかに笑う。

「お前は無理やり伊吹の嫌がる事したりしないだろ? 優しいし、マメだし、常識的だ。ちょっとデートとかするだけでいいんだ。誰かと付き合う、ってのがどういう事か、教えてやって欲しい。それでお前が伊吹の事何とも思わないのなら、諦めるから」

「そんな事・・・」

 静かに、けれども内には何か強いものを秘めて。そう言われた言葉を、突き返す事ができなかった。

 確かに今の自分には彼女がいない。

 もし、いきなり誰かに付き合ってくれと言われて。その相手に特に不満や嫌悪がなければそのまま付き合うのだろうと思う。それ位に軽く、試しに付き合うという事は、今までにあった。

 けれどもその相手が同僚の、しかも友人と呼べる人間の妹となれば話は別だ。そうやって気軽に付き合えない。

 

「お前が何で僕を選んだかは疑問に思うけど。そういう事は本人の問題だろう? 無理やり押し付けるものじゃない」

 頭の中を整理して、彼に返すと。苦笑して首を振る。

「ほっといて、どうにかなるもんじゃないんだよ。伊吹は試しに自分から誰かと付き合おうなんて考えないから。今しかないんだ。おれが知ってるお前となら、安心して預けられるだろ?」

「・・・なんで? そんなのいらない。誰もいなくていい!」

 

 震える瞼。

 泣くまいと必死で抑えた声が、逆に切なかった。きっと彼女としては、大好きな兄に裏切られた気分になっているのだ。

 

「駄目だ」

 そして、そんな彼女に厳しい口調を向ける惺の横顔。

 容易に口を挟める空気ではなかった。

「試すだけでいい。誰とでもいいと本当は言いたいところだけど、今は変な奴が多い。だから司月と付き合ってみろ」

「何でそんな事、お兄ちゃんが決めるの? 失礼だよ、あたしにも、司月さんにも!!」

 

「結婚するんだ」

 

 頬を上気させて、怒りの空気をまとう彼女に。

 そんな静かな声が浴びせられた。

 

「結婚する。だから、もう。お前は解放されなきゃ駄目だ。少しずつ、外に目を向けないと、一人で生きる事になるんだよ」

 

 彼女の周りの空気が冷えていくのが分かった。

 紡がれた惺の言葉は、優しく感じられたのだけれど。

 

「・・・わかった」

 

 一言、ぽつりとそう呟いて。

 彼女はゆっくりと動く。出てきた時とは全く逆の様子で、家の中へと入る。閉まりかけたドアの隙間へ、素早く惺の肩から飛び降りた黒猫が飛び込んだ。

 

 

「・・・あのさ。良く分からないけど、とにかくおめでとう」

 全然知らなかった。

 彼が結婚しようとしている事など。彼女がいるのは知っていたが、そこまでの深い付き合いだった事なども。

「さんきゅ。っていうかさ、この前決まったばっかだから、まだ会社の奴らには言うなよ。相手の親に挨拶もしてないんだ」

 彼の言葉通りだとすれば、きっと自分と伊吹は、彼の口からそれを聞かされた初めの人間だ。

「伊吹ちゃん、放っといていいのか?」

 家の中を示すと、彼は笑う。

「じゃあ、お前が行ってきて。正直、今は顔合わせづらい。久しぶりに泣かしたから」

「理由は分かったけどね。他にも方法があっただろうに。あんな言い方したら、捨てられた子供の気持ちになる」

「なぁ、本気で頼めない?」

「・・・彼女の話を聞く事? それとも、試しに付き合う事?」

 惺の気持ちも分からなくはないが、それでも今泣いている彼女があまりに可哀想だった。

「両方。・・・お前しかいないんだよ」

「・・・どうだか。でもお前の気が済むのなら、どこかに遊びに行ったりとか、そういう事はする。伊吹ちゃんは行くと言わないと思うけどね」

 

「上出来。それでもいいよ。後はどうなるかお楽しみ、ってね」

「めちゃくちゃだな、お前は」

「司月に言われたくないね」

 


 

 

 数回のノックの後。

 かちゃり、と小さな音を立てて。部屋のドアが開いた。

「・・・伊吹ちゃん」

 静かに掛けられた声は、兄ではなく。その友人のもの。

「勝手に入るけど。ごめん。先に謝っておく」

 彼には謝られてばかりだ。

「惺が心配してる。このまま無視しておく? そのくらいはしてもいいと思うよ」

 隣に彼が座る気配がした。そして発せられた言葉に少し気が楽になる。

「僕にも妹がいるから。さっきの電話がそうだったんだけど。だからあいつの気持ちも分かる。・・・いつまでも僕が妹のそばにいる訳じゃない」


 膝の上で丸まるロンドの温もり。

 寂しさを含んだ彼の声。


「緋天には。あ、妹の名前が緋天っていうんだけど。緋天には、ちゃんと緋天だけを大事にしてくれる奴がいるんだ。僕の方が緋天の事をずっと大事にしてきたのに、って腹が立ってどうしようもないんだけど。でもね。仕方ないんだ、って最近そう思えるようになった」

 ふう、と溜息をついて。彼は続ける。

「緋天の笑顔がね、なんて言うか・・・こう、すごくね、輝いてる感じがするんだ。相手の男の話になると。そういう顔はどんなに頑張っても僕は引き出せない。だからね」

 うつむいた頭のてっぺん。温かい手がのせられた。

「伊吹ちゃんにもそういう相手がいて欲しいって。惺はそう言ってる」

 

「・・・っあたしは」

「うん」

「あたしのせいで、お兄ちゃんが今まで色んな事、我慢してたの。今日、それに気付いて、すごく恥ずかしかった」

 小さい頃の事。外に遊びに行くなら、必ず惺の後を追いかけた。気管支が弱い自分が無理な事をしないようにと、彼は同級生のからかいの声を無視して常に自分を気遣っていた。

「・・・我慢してたとか。そういう事じゃないと思うよ」

「違う。違うのっ」

 困ったような声を出す司月には分からない。

 どれだけ惺が自分の為に犠牲を払ってきたか。

「あたしが、こんなんじゃなかったら。お兄ちゃんは何も気にせずに、結婚するよ、って言えたはずだもん・・・。言わせなかったのはあたしのせい。それがものすごく嫌」

 

 自分勝手。

 消えてなくなりたい。きっと自分は長いこと兄を縛ってきたのだ。

 それを知らずに、ぬくぬくと過ごしてきた自分が恐ろしかった。

 

「それはどうかな・・・少なくとも僕にはそうは見えないよ。この前、惺が電話してきた時だって、伊吹ちゃんの事本気で心配していたよ。すごい剣幕だったから。別に嫌々伊吹ちゃんのそばにいた訳じゃないよ」

 

 そっと出された緩やかな流れの言葉。

 寒い冬の夜に、暖かなベッドで眠りにつくような。

 彼の声が、ゆるゆると自分の中に取り込まれていった。

 

「だから。惺が何も言えなくなるような相手を見つければいいよ。ゆっくりね、伊吹ちゃんのペースで」

 頭にのせられた手が、髪を撫でる。

 そんな事、家族以外にされた事がないのに。優しいその手つきに、涙が更にこぼれそうになった。

「それでさ、あいつが悔しがる所を見ればいいんじゃないかな」

 小さく響いた笑い声は、冷たかった体に温かい風を送り込む。

 

「僕で良ければ、いつでも付き合うよ。気分転換に遊びに行けるようになったら」

 

 ふわりとした暖かさがふいに離れる。

 横にいた彼が立ち上がったらしい。たったそれだけの事。けれども今の自分には、それは言い知れない不安を募らせる。

 

「っ、・・・あの」

「ん?」

 

 置いていかないで。

 誰かの温もりを感じていたかったのだ、隣で優しさを与えてくれた彼がここから立ち去ろうとする、それが怖かった。

 

 見上げたそこには。

 何故これ程優しく笑えるのだろうかと思うくらいの笑顔。

 

「ありがとう、ございます」

 

「どういたしまして」

 

 軽く驚いた様子の彼は、それでも笑ってそう口にして。部屋を出る。

 どうしてそんな反応をされるのだろうと思ったら。

 少しだけ、口元が緩んでいる事に気付いた。

 

「にゃぁ」

「・・・すごい。笑顔で癒されちゃった・・・」

 

 あんなに寂しさでいっぱいだったのに。

 何だか霧が晴れたような気分。

 

「・・・ロンド。お兄ちゃんに謝りに行くの、ついてきてくれる?」

「にゃあ」

 

 嬉しそうな黒猫の鳴き声。

 立ち上がって、頬の涙を拭う。

 

 窓の外には満月。

 自分の部屋の中が、違うものに見えた。

 まるで泥棒に入られて、きれいに並べ直されたように。


 End.


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