7.恋する乙女
明け方に、父親の吉報を耳にしたイェリンは、それまでの疲れが押し寄せたせいか、昼近くまでぐっすり眠り込んでいた。
目覚めたばかりのイェリンは、いつものように侍女のニーナになされるがまま、身支度をしていた。
「こんなに素敵な衣装や装飾品が、用意されているのですもの、身に着けない手はありませんわ」
サイズやデザインなど、まるでイェリンのためにあつらえられたような品々だった。
ドレスや宝石などに無頓着なイェリンとは対照的に、ニーナの見立ての腕は大したものだった。以前から、イェリンを着せ替え人形のように扱っては、楽しんでいる節があった。
今日はいつも以上に念入りに、衣装や小物選びをしていた。
「やっぱり、ニーナは女の子よね」
イェリンの着付けを、嬉しそうに済ませたニーナに声を掛けた。
「イェリン様だって、女の子でしょう」
「宝石もドレスも、私はあまり興味ないもの。それよりも、剣の稽古でもするほうがいいわ」
鏡台の前に座ったイェリンは、ニーナに髪を梳いてもらっていた。
「もしも、これから大好きな殿方にお会いになるとしても、そのようなことが言えますか?」
ディーンを思い浮かべると、鏡に映るイェリンの顔が赤みを帯びた。
「やはり、イェリン様も恋する乙女のようですわね」
「ち、違います!」
恥ずかしさから慌てて否定する。
九年も前にたった二カ月ほど滞在した辺境伯領で会った少女のことなど、ディーンが憶えているはずもない。あの後、見も知らぬ地で、多くの出会いやさまざまな出来事があったに違いない。出会いの中に、想いを寄せる娘がいるかもしれない。
可愛らしく整えられたこのような部屋で、衣装や宝石を与え、いつか一緒に暮らす日を夢見ていてもおかしくはない。
きっとクリフはそうやって、イェリンが今身に着けているドレスや飾りを、誰かを想って揃えたのだろう。
いつの間にか、ディーンからクリフへと想いが移っていた。
誰かのために用意されたものなど、身に付けたくない。せっかくニーナが着付けてくれた衣装を、イェリンは脱ぎ捨てたくなる衝動にかられた。
だが、ふと目に入ったアーシャンを眺めていると、次第に心が穏やかになっていった。アーシャンはイェリンのためだけに、クリフが届けてくれたものだ。
「珍しいですね、この辺りでアーシャンなんて。私の母が好きな花です」
アーシャンを見て、里心がついたのか、なんとなくの声が沈んで聞こえる。二つほど年上ではあるが、歳の差以上にイェリンよりも大人っぽいニーナが、さらに色気を増す。十四という歳よりも幼く見えるイェリンは、ちょっとニーナが羨ましかった。
「私は、実物を見たのは初めて。ニーナの実家は山奥だったわね」
「ええ、ブリリアン辺境地の外れ、フィルラ山脈にあるモール湖の近くです。あの辺りでは、時々、絶壁に生えているのを見かけます」
「すてきね、自然に咲くアーシャンの花が見られるなんて」
「はい。アーシャンは滅多に見られない神様の花ですから、村の自慢です。最近では湖も涸れ始めたという話ですから、アーシャンも絶滅してしまうかもしれません」
一瞬、手を止めたニーナは、すぐさまイェリンの髪を結い始めた。
「ごめんなさい。ニーナの故郷が困っている時に何もできなくて」
以前、ニーナから故郷の話は聞いていた。その時も雨乞いはできないと、イェリンは謝ることしかできなかった。
「いいえ、謝っていただく必要などございません。イェリン様のお気持ちは、存じ上げておりますから」
ニーナが努めて明るい声を出していると、イェリンにもわかる。
「最後に見られて、うれしいです。摘むのが困難な場所に生えているので、目の前で眺めたのはこれで二回目です」
自生地で生まれ育ったニーナでさえ、間近で見たのは二度目だという。
それほど危険な場所に根付く花を、わざわざクリフが採りに行ったのだろうか? 天鼬を使えば、たいして苦にはならないかもしれない。とはいえ、あの冷酷なクリフが、とらわれの身であるイェリンに対してそんな無意味な行いをするのか? イェリンにもう少し色香があったなら、素直に好意と受け取れたかもしれない。
クリフについて色々考えると、イェリンの頭の中は混乱してきた。冷酷な人間なのか優しいのか、自信家か恥ずかしがりやか。恥ずかしがりや? これはありえないと、イェリンは苦笑した。
「笑顔がこぼれるほど元気になられたようで、よかったですわ」
苦笑のはずが笑顔と受け取られ、妙に居心地が悪くなったイェリンは言い訳をする。
「ええ、お父様が一命を取り留めたと、朝早くにクリフ様が知らせに来てくださったの」
「それは……よろしゅうございました」
どこか作り笑いに思える表情を、ニーナは浮かべた。
「どうかしたの?」
「いいえ。あの…」
鏡越しに一瞬合わせた視線を、ニーナは慌てて逸らした。
「はっきりと言って。そのほうが、私の気持ちもスッキリします」
「そうですか、イェリン様がそうおっしゃるのでしたら」
ニーナは、一息つくと言葉を続けた。
「大神官様が、イェリン様を差し出せとクリフ様に迫っていらっしゃるようです」
イェリンが大神官に引き渡されれば、宗教裁判で邪神の使いの嫌疑をかけられるだろう。結果は死刑、火を見るより明らかだ。
クリフが、イェリンによる殺人未遂をでっちあげていなければ、今日にでも宗教裁判に掛けられていたかもしれない。
クリフがイェリンをかばっている?
神兵に取り囲まれたとき、イェリンは動揺していて気づかなかったが、冷静になるとどこかおかしい。
イェリンを捕えるように命令したと言いながら、混乱の場からクリフはイェリンを連れ出した。イェリンへの待遇は犯罪者に対するものどころか、最高の持て成しだった。
「王様がイェリン様を匿うように、クリフ様へ命じたのではないでしょうか」
「そうかしら?」
ニーナの考えに、イェリンはつい顔をほころばせてしまう。
「きっとそうですわ。イェリン様の思い出のお方が、王様だからこそ助けて下さったのですわ」
ニーナに断定されると、イェリンも「うん、うん」と頷いてしまう。人は自分の都合のいいように物事を解釈したくなる生き物だ。
都合がよい解釈を差し引いたとしても、ディーンの指示でクリフが動いていると仮定すると辻褄が合う。
「王様は人質になる前の数ヶ月間を、カールフェルト様のお屋敷で暮らしていらしたのでしょう。恩義を感じて、イェリン様を匿うよう、クリフ様に命じたのかもしれませんね」
ニーナの言葉に、イェリンの心は浮き立った。
助けた理由は、イェリンのためではなく将軍の娘であるからという可能性の方が高いだろう。それでもイェリンは嬉しかった。
「それにしても、神殿の力よりも王様の力のほうが強ければ、イェリン様も罪なき罪を被らずに済んだのでしょうにね」
悔しげに語るニーナの話が、イェリンの気持ちに水をさした。
ロスタニア王国は王国と名乗りながらも、神の使いである神官たちの影響力が強い。
勢力の中心にあるのが、神々の王であるヴァーツ神を祀る青の神殿と、ヴァーツの妻である女神アーシャの白の神殿だ。この二つの神殿は王都の中心にある。ヴァーツやアーシャ、他の神々を祀る神殿も各地にあったが、それらすべてがこの二つの神殿の配下にあった。
特に青の神殿の最高位である大神官は、実質的に王よりも多大な権力を握っていた。
イェリンのように、宗教に関する裁きとなれば、国王とて口出しなどできない。クリフが、イェリンを匿い続ければ、いずれディーンに対しても迷惑をかけるに違いなかった。
「今の大神官は嫌いです」
おしゃべりを続けながらも、ニーナは緋色の髪を綺麗に結い終えた。イェリンの後ろの髪が前の鏡に映るよう手鏡をかざし、ニーナはいまいましげに言葉を続けた。
「大神官になにかあれば、私の故郷でもイェリン様に、雨乞いをしていただけたかもしれないのに」
いきなり激しく扉を叩く音がする。
驚いたニーナの手を青銅の手鏡がすり抜け、派手な金属音を響かせて床に落ちた。
評価してくださった方、どうもありがとございます。
そして、ここまでお付き合いいただいている皆様、ありがとうございます。
このお話もあと残り半分を切りました。
この後も、よろしくお願いします(・・)/