6.アーシャンの花
なにもする気力がなくなったイェリンは、侍女のニーナから甲斐甲斐しい世話を受けていた。
身体や髪に付いた血や埃を、丁寧に洗い流され、薄紅色に染まった薄絹のゆったりとした衣に着替えさせられた。あまりに高価な寝衣は、どう見ても囚人が身に着ける代物ではない。
イェリンが通された場所は、天蓋付きの寝台がある立派な部屋だった。
無骨な雰囲気のクリフとは対照的で、いかにも女性が好む、繊細な細工が隅々に施された、可愛らしい部屋だ。
見た目は小柄で華奢だが、剣をたしなむなど男勝りな部分のあるイェリンの性格には、少しばかり不釣合いな部屋といえる。けれど、イェリンが幼かった頃使っていた部屋にどことなく似ていて、落ち着く造りだった。
イェリンの両親は、女の子らしからぬ娘の将来を案じていた。少しでも娘が女らしくなればと、薄紅色で統一した部屋をイェリンにあてがった。あの部屋には、親の愛情が溢れていた。
だれか、この部屋に招かれる客人でもいるのだろうか。ふと、思い浮かべた疑問に、イェリンは慌てて首を横に振った。あんな横暴なクリフに、この部屋に似つかわしい女性の影などあるはずがない。
イェリンは、寝台に腰を下ろす。開け放たれた窓からは、無数の星々が煌めいている。
今朝までの幸せだった時に、戻っていくようだった。大人になった愛しい少年を、遠くからでも眺められると、胸を躍らせていた頃へと。
まるで、昼間の事件が、夢の中起きた出来事のように思えた。
ほんの一時ほど前まで、父の所へ連れて行けと泣き叫んでいたのが嘘のように、イェリンの心は穏やかになっていた。
現実から逃れ、夢想の世界へ心を飛ばしていた。
どれほど夢の世界に浸っていたのだろう。
無数の星を鏤めていた空が、いつのまにか朝焼けで赤く染まっていた。
今日も、晴天だ。
この国に雨が降らなくなってから、今日で何日目だろう。
屋敷が暴徒に囲まれた日から、聖剣の舞をもう二度と舞わないと、イェリンは心に誓った。なのに、雨の降らぬ日が続けば、つい日数を数えてしまう。心が萎えないようにと、部屋に引きこもるようになった。
昨日の式典は、久しぶりの外出だった。ニーナに誘われなければ、きっと何事もなく屋敷の中で一日が終わっていただろう。ふと、ニーナを恨みそうになった。ニーナに悪気はない、きっとイェリンのためを思って連れ出してくれたのだ。
物思いにふけっていると、短剣が付けた頬の傷あたりを、綿毛かと勘違いするような、柔らかな温かい感触が過ぎる。
「緋色の髪が、輝きを取り戻したようだな」
ぴくりと身体を強張らせて、イェリンはゆっくりと首を横へ回した。そこには、今、一番会いたくなかった青年の顔があった。
切れ長の目、すっきりと延びた鼻梁、型の良い山形を描いた唇。どれをとっても、計算されつくしたようで、無機質な冷たさの漂う整った顔の青年、クリフだ。
「露骨に嫌な顔をしなくてもいいだろ。吉報を持ってきてやった。カールフェルト将軍は、一命を取り留めた」
張り詰めた空気を払拭するように、イェリンは大きく息を吐き出した。
「部屋は気に入ったか?」
目にかかる漆黒の髪を無造作にかき上げると、クリフはイェリンへ視線を送った。
「あなたにしては、ずいぶんと少女趣味な部屋ね」
「べつに俺の趣味じゃない」
クリフは、無愛想に呟いた。
「大切な方のため? そんな、大事な場所に、犯罪者の私なんかを入れてもいいの?」
こんな不遜な男にも、大切な愛しい人がいるのかと思うと、イェリンは無性に苛立ってきた。苛立ち紛れに、つい自分を卑下するような言葉を吐いてしまう。
「罪を認めるのか?」
クリスはわずかに眉を下げ、悲しげな表情を浮かべた。
怨んでも怨んでも怨み足りない男のはずなのに、そんな顔をされてはイェリンの心にも迷いが生じる。
「私は、邪神教徒でも、謀反を企んでもおりません。あなたを殺そうとしていないことは、あなたが一番ご存じのはずでしょう。私は、ただ父を取り返したかっただけです。鞘は、あなたが勝手に抜いたくせに。なぜあのようなことをなさったのですか?」
強い眼差しを向けるイェリンに、クリフは短剣を差し出した。鞘には、神の国に咲くといわれる不思議な花アーシャの彫が施されている。
「大切な物なのだろう」
慈しむように短剣を抱え込んだイェリンに、クリフは声のトーンを落とし優しく話しかける。クリフの声音に他意を勘繰ったイェリンは、思わず身構えた。
緊張するイェリンを、クリフは鼻で笑う。
「いつでも、その短剣で敵を討てばいい。今度は、鞘から剣を抜いてからにした方がいいぞ」
「その言葉、いつか後悔させてあげるわ」
イェリンは、ぐっと見据えた。
「楽しみにしているよ。ただ、君の腕に倒れるほど、俺もやわじゃない」
国王の参謀と目され、厚い信頼を寄せられているクリフ・オルグレン。非凡な頭脳のみならず、剣の腕も立つ。寡黙なイェリンの父が一度だけ褒め言葉を口にしたことがあった。他人の悪口も賛美もしない父が、酒の力とはいえ機嫌よく語ったことにイェリンは驚いた。どんな人物なのだろうかと、心を弾ませた日を思い出す。
きっと、奇襲をかけたところで、剣ではクリフにかなうはずもない。それを見越してイェリンをからかっているのだ。とは言え、一矢を報いたく、苦肉の策をほのめかす。
「寝込みを襲うかもしれなくってよ」
「ああ、かまわない。ただし、俺はいつも裸で寝ているが、それでよろしければ寝室へどうぞ」
反撃したつもりのイェリンは、クリフの思わぬ切り替えしに、顔が火照りだした。
悔しいがクリフには、剣はもちろん言葉でも太刀打ちできそうにもない。知らず知らずに涙が込み上げてきた。
「ちょっと待て、冗談だ。ここは、笑うところであって……」
クリフのうろたえた声を、イェリンは初めて聞いた。クリフの取澄ました仮面を剥いでやった気がして、零れかけた涙も乾き少しばかり顔をにやけさせた。今のクリフは、昨日のクリフとどこか違うようだった。
本当に、クリフは悪人なのだろうか?
「出て行って!!」クリフに対する好意的な感情が芽生え始めた事実を認めたくなく、イェリンは枕を投げつけてとがり声を上げた。
受けとめた枕を、クリフはそっと寝台へ戻す。「それから」と口にしかけ、イェリンの顔を真っ直ぐ見据えてきた。
だがすぐにつっと視線を逸らし、照れたように人差し指で頬をたく。「傷が残らなくて良かった」と残し、クリフは部屋を立ち去った。
クリフが消えると、急に部屋が、がらんと広く見えた。
室内に視線を漂わせると、鏡台に置かれた花瓶に気づいた。首が細長い透明なガラス細工の繊細な一輪挿しだ。神話に出てくる、女神アーシャの花から名付けられた、アーシャンが生けられていた。
アーシャンは、高山に自生する宿根草だ。弓なりに反った一本の茎に、小さな雫形の水色の蕾がいくつも垂れ下がる可憐な花だった。
部屋に漂う高価な蜜蝋の甘い香りが、今にも零れ落ちそうな蕾から漂ってくるかのように錯覚する。
椅子に腰を落すと、先程まで青白く疲れ切っていたはずの顔が、わずかに紅潮して鏡に映った。
「灯りのせいだわ」蜜蝋の暖かな光にちらりと視線を落とした。クリフへの好感からではけっしてない。
クリフによって頬に赤くまっすぐに引かれていたはずの線は、いつの間にか跡形もなく消えていた。不思議に思い、何度も傷のあった頬に触れてみては確かめた。




