5.クリフ・オルグレン
恐る恐る目を開けたイェリンは、微かに頬の痛みを感じた。
痛みのもとへ触れようと伸ばした掌の鮮血に気づき、イェリンは震えだした。手から滴り落ちる血は、まさしく将軍のものだ。イェリンは現実に引き戻された。
青年の両腕が、イェリンの両肩の横に伸ばされている。上から覗き込む青年の険しい視線に、イェリンは恐怖を感じた。
死を覚悟しておきながら恐怖を感じるとは? 動きの鈍くなった思考を働かせようと、イェリンは乾ききった口中の唾液を、無理矢理搾り出すように飲み込んだ。
「俺を怨め!」初めてイェリンの心に届いた青年の荒い語気に、イェリンは困惑した。
「おまえの拘束に抗う者は容赦なく切り捨てよと命じたのは、この私、クリフ・オルグレンだ」
声のトーンを落としたクリフの言葉には、なんの感情も篭っていないようだった。今、目の前で父の命が途絶えようとしている。せめて、達成感や喜び、そんなものでさえ感じてくれたほうがましだった。
イェリンにいわれ無き罪をかけ、父を死に追いやろうとした事実よりも、感情を表さないクリフにイェリンは怒りを覚えた。
「なぜ、そのようなことを」
やっとの思いで、イェリンは言葉を口にした。
近衛兵を統括する役職にある将軍の娘であるイェリンを、王の配下にあるクリフが捕えなくてはならないのだろう。
「おまえの雨を降らす力は、雨の少ないこの国にとっては貴重だ。だが、神官にとって、今のおまえは邪神と同じ」
クリフはアーシャの短剣を地面から抜くと立ち上がりながら、淡々と言葉を紡ぐ。イェリンも、クリフを追うように起き上がった。
「どういうこと?」
「神殿に祀られている神がすべてで、神官はその神と人々の橋渡しをする。だから、巫女でも女神官でないおまえが降らす雨は、邪神の力によるものだ。普通の人間が不可思議な能力を発しては、神官にとって都合が悪いのだ」
イェリンから忘れ去られていた鞘を、クリフは拾い短剣を納めた。
「だから、私が邪魔だと」
「そうだ」
「ならなぜ、もっと早く私を殺さなかった。すでに私がこの世に居なければ、父は斬られずにすんだのに」
イェリンは言葉につまり、零れそうになる涙を懸命にこらえてクリフを睨んだ。
「ふん、命を粗末にするおろかな娘のために命を捨てるとは、将軍にあるまじき馬鹿な男だ」
「そうよ、私なんかのために、馬鹿な父親よ! だけどね、あんたなんかより、ずっと、ず――っと立派な人なんですから! あんたみたいな極悪非道の薄情者、最低で残虐で。背が、低く、ないし……顔が! 悪く、な、い……。あ~んもう! 臍がない悪神とは、違うんですからね――っ!」
クリフを見上げながらイェリンは、支離滅裂な言葉を浴びせかける。肩を上下に震わせ呼吸を荒げるイェリンに、クリフは珍しい生き物でも見るような目を向けていた。
「ちょっと、人の話を聞いているの!?」
いきなり、頭一つ半ほど上にあるクリフの顔が、イェリンの目線まで降りてきた。
「悪いが、俺には臍がある」
ぼそりと告げられ、頬の傷にほんのりと温かいものが一瞬触れた。
クリフの唇が頬を離れた途端、イェリンは怒声を轟かせた。
「あっ、あっ、あのねえ――!!」
顔面に向かって拳を繰り出すが、クリフに軽く避けられた。
「威勢がいいな。だが、それも、どこまで続くか。おまえの態度いかんでは、死にかけの老いぼれ爺どころか次は身近にいる者。そして血族、ありとあらゆるものの血が、これからも流れると思え」
クリフはバイザーを下しながら、心の底から凍りつくほどの冷たい声で耳打ちする。
「憎いか? ならば、俺を殺せ。俺を殺せば、無用な血はこれ以上流れずに済むぞ」
まるでイェリンを煽るような言葉を放つと、クリフは、アーシャの短剣をイェリンに返し、振り返ると天鼬へ歩き出した。
短剣を握り締めたままイェリンは、ただ、激情に任せてクリフめがけ突進した。
殺意を持っていたわけではない。ただ目の前にいる憎い相手に、父を連れて行かれそうになるのだけは阻止したい、その思いだけだった。
クリフは振り返りざまに難なくよけながら、イェリンの持つ短剣の鞘を抜き取った。
鞘の抜かれた短剣が、クリフの鎧を掠め金属音を響かせた。
短剣を握りしめたまま息を荒くしたイェリンの姿は、傍目にはクリフへの殺意が込められていたと読み取れただろう。
短剣を奪い取ると、クリフはイェリンの身体を抱え込んだ。がっちりと回されたクリフの腕からは、イェリンが死に物狂いでもがいても抜け出せなかった。
「この娘は、私が貰い受ける」
神兵にクリフは宣言する。
「しかし、クリフ様! この娘は……」
「我が身の暗殺を謀った者に対し、自ら処分を下す。異論があるなら、後でいくらでも聞いてやる。ただし、訴える勇気があればな」
クリフが恫喝すると、神兵はそれ以上言葉を続けなかった。
引きずられるようにして、イェリンは天鼬へ乗せられた。
イェリンの前に、将軍が横たわっている。かろうじて浅い呼吸を続ける将軍に、イェリンは手を添えた。先程まで吹き出すように傷口から溢れ出していた血が、不思議なぐらい今は止まっていた。まるで、すべての血が流れ出てしまった後のようだった。
クリフの前に座っているイェリンは、手綱のように編まれた鬣を掴むクリフに、自然と抱きしめられるような形になった。
懸命に逃れようとするイェリンの耳に「暴れると、おまえの父親が落ちるよ」楽しそうなクリフの声がした。