スペインの企み
1795年。秋。
マドリード。エル・パルド宮殿。
午後3時。
カスティーリャの大地に、秋の陽光が容赦なく降り注いでいた。マドリード北西の丘陵に建つエル・パルド宮殿は、代々のスペイン国王の狩猟用離宮であり、宮殿を取り囲む広大なエンシナ(常緑樫)とピノ(松)の混交林は、ヨーロッパ最大級の王室狩猟場だった。
その森の中から、一頭の鹿を肩に担いだ男が宮殿の裏門をくぐって現れた。
カルロス四世。スペイン国王。46歳。
恰幅のいい体躯。日焼けした顔。狩猟服に泥が跳ね、長靴には枯葉がこびりついている。肩に担いだ牡鹿は角が見事な6歳の成獣だった。体重は少なくとも80キログラム。それを片手で担ぎ上げて歩いている国王の腕力は、宮廷の官僚たちの想像を超えていた。
カルロス四世の母は、ポーランド王兼ザクセン選帝侯アウグスト三世の娘だった。母方の血統から受け継いだ素晴らしい体格と強靭な体力は、この国王の最大のそして、おそらく唯一の美点だった。若い頃は農村で自分の知る限りの最強の男たちとレスリングをするのが好きだった。今でも、朝から夕方まで、天候に関わらず、冬でも夏でも、狩猟に出る。毎日。例外なく。
「見ろ!」
カルロス四世が、従者たちに向かって、鹿を地面に下ろした。ずしりと音がした。
「6歳だ。角が12本に分かれている。今季で最高の獲物だ。オリバレス伯、お前は何を獲った」
「陛下。私は兎を2羽ほど……」
「兎!兎か!兎なら犬でも獲れる!」
カルロス四世が、豪快に笑った。声は大きく、陽気で、どこにも陰りがなかった。この男は政治的な知性においては、父カルロス三世の足元にも及ばなかったが人間としての愛嬌においては、ヨーロッパのどの君主よりも豊かだった。家臣に軽口を叩き、農民と冗談を交わし、猟犬の名前を一頭一頭覚えている。
残酷さがなかった。傲慢さもなかった。ただ、致命的に、政治に関心がなかった。
「陛下。お疲れでしょう。お部屋にお戻りを」
「うむ。風呂を用意してくれ。それと今朝の狩猟の記録をつけておいてくれ。鹿1頭、6歳の牡、角12又。体重は……85キログラムくらいか。あとで正確に量れ」
カルロス四世は、狩猟の記録を政務の記録よりも遥かに几帳面につけていた。
* * *
入浴を済ませ、着替えを終えたカルロス四世は自室に入った。
国王の自室は宮殿の中で最も質素な部屋だった。壁には、父カルロス三世の肖像画と、狩猟の道具が掛けられている。書棚には、狩猟と自然科学と時計の技術書が、ぎっしりと並んでいる。
そして、部屋の中央にある作業机の上に2つの時計が、並んで置かれていた。
左側の時計。金属の筐体が磨き上げられ、文字盤には精緻なローマ数字が刻まれ、裏蓋を開ければ宝石のように美しい歯車群が、静かに、正確に、時を刻んでいる。秒針の動きは滑らかで、カチカチという音すら聞こえない。完璧な静寂の中で、完璧な時間を刻む機械。
裏蓋の内側には、小さな銘が刻まれていた。
Fabriqué par Louis Capet, Citoyen de France
フランス市民、ルイ・カペー製作。
右側の時計。筐体はやや不揃いで、文字盤の数字は手書き、裏蓋を開ければ歯車の噛み合わせにわずかな遊びがあり、秒針が時おり微かに躊躇するように揺れる。完成度は左の時計に及ばない。だが、すべてのパーツが一つ残らずこの部屋で、この机の上で、カルロス四世自身の手で削り出され、組み上げられたものだった。
カルロス四世は、椅子に座り、二つの時計を交互に見つめた。
この男には知られざる趣味があった。
時計の修理と製作。
宮廷の外交官たちも、貴族たちも、大臣たちもこの趣味を知っていたが、理解はしていなかった。「国王は、また時計をいじっている」と、彼らは呆れて囁いた。国政を王妃とゴドイに任せ、朝から夕方まで狩猟に出かけ、夜は自室に籠もって時計の歯車を削っている。愚かな王だ、と。
だが、カルロス四世にとって、時計は単なる趣味ではなかった。
歯車を削るとき、この男は政治の会議では決して見せない集中力を発揮した。指先の感覚で、100分の1ミリメートルの誤差を検知し、やすりの角度を微調整する。歯車の噛み合わせを調整するとき、十数枚の歯車が連動して一つの運動を生み出すその精密な連携の美しさに、この男は心からの喜びを感じていた。
政治が理解できないのではなかった。関心がないのだ。
人間の欲望と権力闘争で動く宮廷政治は、歯車の噛み合わせのように精密ではなく、やすりの角度のように制御できず、時計のように正確に動かない。人間は不正確だ。嘘をつく。裏切る。噛み合わない。時計は嘘をつかない。歯車は裏切らない。時計だけが、カルロス四世が信頼できる世界だった。
そしてルイ・カペーの時計はカルロス四世が知る限り、世界で最も美しい時計だった。
* * *
カルロス四世は、ルイ・カペーの時計を手に取った。
裏蓋を開け、歯車の動きをじっと見つめた。
脱進機の動き。テンプの振動。歯車列の伝達。すべてが、完璧だった。自分の時計と比べれば、差は歴然だった。自分の時計は「動く」。だが、ルイ・カペーの時計は「歌う」。歯車が歌っている。金属と金属が触れ合う微かな振動が、一つの旋律を奏でている。
この時計は、三か月前にフランス共和国の元国王であるルイ・カペーから直接届けられたものだった。ルイ自身がヨーロッパの宮廷を巡回し、時計と「フラン・ファッション」の染色布を贈答した際に。
ルイはカルロス四世に会ったとき嬉しそうに時計の機構を説明してくれた。
「この脱進機は、私が新しく設計したものです。従来のシリンダー脱進機に比べて、摩擦が三割減少します。秘密はこの歯の形状です。インボリュート曲線ではなく、サイクロイド曲線で削っています。こうすると、歯と歯の接触が点ではなく線になり、力の伝達が滑らかになるのです」
カルロス四世は、ルイの説明を一言一句聞き逃さなかった。政治の話なら30秒で居眠りする男が、時計の機構の話になると3時間でも集中力が途切れなかった。
「ルイ殿。あなたの脱進機は、確かに素晴らしい。だが、テンプのバランスウェイトは、どのように調整しているのですか。私の時計は、温度変化でテンプの膨張率が変わり、精度が落ちるのです」
「ああ、それはバイメタル・テンプを使っています。真鍮と鋼鉄の二重構造にすれば、温度による膨張が相殺されます」
「バイメタル!なるほど。それは考えつかなかった」
現役の王と元国王は、マドリードの宮殿の一室で、3時間にわたって、時計の話だけをした。政治の話は一切しなかった。ルイは政治に興味がなかった。カルロスも政治に興味がなかった。二人はヨーロッパの政治地図の上では敵対する立場にあったが時計の前では、純粋な職人同士だった。
あの午後はカルロス四世にとって王位に就いて以来、最も幸福な時間だった。
* * *
今、カルロス四世は、二つの時計を見比べている。
ルイの時計。自分の時計。
差は縮まっていなかった。バイメタル・テンプの技術を学び、サイクロイド曲線の歯車を試作した。だが、ルイの時計には、技術だけでは説明できない何かがあった。歯車の仕上げの滑らかさ。組み立ての精度。微調整の繊細さ。それは、何十年もの修練でしか到達できない、職人の境地だった。
「ルイ・カペー……」
カルロス四世が、呟いた。
「お前は本当は王などやるべきではなかったのだ。時計職人として生まれていれば世界最高の職人になっていただろう。私もだ。私も、王などやるべきではなかった。猟師になれば良かった。あるいは時計職人に」
扉がノックされた。
「陛下」
低い、滑らかな声。
マヌエル・デ・ゴドイだった。
* * *
ゴドイが入室した。
二十七歳。長身。端正な顔立ち。黒い巻き毛。近衛士官の制服を脱ぎ、宰相の正装を纏ったこの男はスペイン宮廷で最も美しく、最も野心的で、最も危険な人間だった。
ゴドイの出自は、エストレマドゥーラ地方の下級貴族。名門ではない。財産もない。だが、王妃マリア・ルイサの目に留まった。近衛士官として宮殿に配属された17歳のゴドイは、24歳にして王妃の愛人としてスペインの宰相に任命された。
スペイン宮廷では、これを「不聖なる三位一体」と呼んだ。国王カルロス四世。王妃マリア・ルイサ。宰相ゴドイ。国王は狩猟に出かけ、王妃と宰相が国を動かす。国王はそれを知っている。知っていて何もしない。何もする気がない。
ゴドイは、カルロス四世の前に立った。
「陛下。マリア・ルイサ殿下と取り決めた政務の内容をご報告いたします」
「うむ」
カルロス四世は頷いた。だが、目線はゴドイではなく机の上の二つの時計に向けられたままだった。
「第一。ポルトガルとの国境に関する条約の改定案を、外務省に指示いたしました。ポルトガル側が提案していた関税の引き下げは、我が国の繊維産業に打撃を与えるため、拒否する方針です」
「うむ」
「第二。フランスからの新しい染色布、『フラン・ファッション』と呼ばれるものですが、こちらの輸入量が急増しています。殿下はこの布を大変お気に召されておりますが、スペインの伝統的な染色業者からは、規制を求める陳情が出ております。殿下と協議の結果、当面は輸入を維持しつつ、国内業者への補助金を増額する方針といたしました」
「うむ」
「第三。新大陸からの銀の輸送船団が、先月、無事にカディスに到着しました。銀の総量は」
「マヌエル」
カルロス四世が、突然、宰相の報告を遮った。
ゴドイが言葉を止めた。国王が政務の報告を遮ることは珍しいことではなかった。大抵は、「もういい、あとは任せる」と言って、自室に引っ込むのが常だった。だが、今日は違った。
カルロス四世の目が、ゴドイではなく机の上の時計に向けられていた。
「マヌエル。私の時計とルイ・カペーの時計、どちらがいいと思う?」
ゴドイは一瞬呆れた。
ポルトガルとの条約も、フランスの染色布の輸入規制も、新大陸の銀の輸送もすべてを差し置いて、国王が聞きたいのは時計の評価だった。
だが、ゴドイは政治家だった。27歳にしてスペインの宰相に上り詰めた男は、権力者の機嫌を取ることに天才的な才能を持っていた。
「もちろん、陛下の時計にございます」
ゴドイが、即座に答えた。滑らかで、丁重で、微かに媚びを含んだ声。
カルロス四世は首を振った。
「いいや」
「は?」
「私の時計はまだまだだ。ルイ・カペーは素晴らしい。お前は何もわかっていない」
ゴドイは二度目の驚きを顔に出さなかった。国王がお世辞を退けたことではない。国王が何かについて明確な判断を示したことに、驚いたのだ。
この男は普段何一つ判断しない。政務はすべて王妃とゴドイに任せる。自分の意見を持たない。持つことを避ける。だが、時計についてだけはカルロス四世は、確固たる美的判断を持っていた。自分の時計が劣っていることを認め、ルイ・カペーの時計が優れていることを断言する。嘘がなかった。虚栄心がなかった。時計の前でだけ、この男は正直だった。
「陛下。ルイ・カペーの時計は、確かに精巧でございます。フランスの技術力は侮れません」
「技術力ではない。魂だ」
「魂?」
「ルイ・カペーは、王位を失った男だ。国を失い、権力を失い、すべてを失った。だが、時計だけは失わなかった。時計を作る技術と、時計を愛する心だけは、誰にも奪えなかった。だから、あの時計には魂がある。失われたものの代わりに、時計の中に、すべてが注ぎ込まれている」
ゴドイは沈黙した。
この男は馬鹿ではないのかもしれない。
政治的には確かに無能だ。外交のことは何も理解していない。経済のことも何も知らない。軍事のことも興味がない。だが、時計についてはこの男は深い洞察を持っている。そして、その洞察は奇妙なことに人間の本質に触れている。
「失われたものの代わりに、時計の中にすべてが注ぎ込まれている」
それは、ルイ・カペーだけでなく、カルロス四世自身にも当てはまる言葉ではないか。この男もまた王としての能力を持たないまま王位に就き、政治を他人に任せ、自分の魂のすべてを狩猟と時計に注ぎ込んでいる。
ゴドイの脳裏に一つの計算が始まった。
* * *
「陛下」
ゴドイの声が、変わった。
先ほどまでの丁重な報告口調ではなかった。もっと低い。もっと親密な。王妃の寝室で囁くときの、あの声に、どこか似ていた。
「陛下は、ルイ・カペーの時計を高く評価しておいでです」
「うむ。あれほどの時計を作れる男は、世界に数人しかいない」
「では陛下」
ゴドイが、一歩、机に近づいた。
「それほど素晴らしいのでしたら手に入れられてはいかがですかな」
「手に入れる?ルイ・カペーの時計なら、もう持っている」
「時計と言わず」
ゴドイの声が、さらに低くなった。蛇が草むらを滑るような、滑らかで、湿った声。
「国土も。人民も。経済全てを」
カルロス四世の手が時計を持つ手が止まった。
「……何を言っている、ゴドイ」
「フランスは今、内部から崩壊しつつあります。公害。テロリズム。データの改ざん。ロンドンのピット首相が、対フランス同盟の再結成を呼びかけています。もしスペインがこの同盟に加わればフランスの弱体化に乗じてイベリア半島におけるスペインの覇権を、確立できるかもしれません」
「私は戦争を望んでいない」
「戦争ではありません、陛下。フランスが弱っている今こそフランスの技術を手に入れるチャンスです。フランスの科学者を招聘する。フランスの工場の技術をスペインに移転させる。フランスの通貨システムを研究し、スペイン独自の経済改革に応用する。そして、フランスの時計職人たちルイ・カペーを含むをマドリードに招き、スペインの時計産業を育てる」
「ルイ・カペーをマドリードに?」
カルロス四世の目が、かすかに光った。
ゴドイはその光を見逃さなかった。
「はい。もしフランスが同盟に追い詰められ、弱体化すればルイ・カペーのような人材を、スペインに招くことも可能になるかもしれません。陛下の王室工房に。陛下と共に最高の時計を作る工房に」
カルロス四世はゴドイの言葉を理解していた。半分は。
時計の部分は理解した。ルイ・カペーがマドリードに来て、一緒に時計を作る。それは、カルロス四世にとって、この上ない幸福だった。
だが、残りの半分。
国土、人民、経済は、理解していたが、興味がなかった。
「マヌエル。お前はいつも話を大きくする」
「陛下」
「時計の話をしているのだ。国土の話ではない」
「ですが、陛下」
「もういい。報告は終わりだ。下がれ」
カルロス四世が、再び時計に目を落とした。ルイ・カペーの時計の裏蓋を開け、脱進機の動きを見つめ始めた。政治は終わった。時計の時間が始まった。
ゴドイは軽く頭を下げて部屋を出た。
* * *
廊下に出たゴドイの顔に、笑みが浮かんでいた。
薄い笑み。計算の結果が出たときの、満足の笑み。
カルロス四世は今は拒否した。だが、種は蒔かれた。「ルイ・カペーをマドリードに招く」という種が、国王の脳の中に時計への愛情と結びついて植え付けられた。この種は、やがて芽を出す。水をやる必要はない。カルロス四世が夜ごとルイの時計を見つめるたびに種は自然に育つ。
ゴドイは廊下を歩きながら、別の計算を始めていた。
ピット首相の対フランス同盟。スペインがこれに加わればフランスに対する軍事的圧力が高まる。フランスが弱体化すればフラン経済圏からの離脱が可能になる。離脱すればスペインは独自の経済政策を展開できる。
だが、それは表向きの計算だった。
ゴドイの本当の計算はもっと深い場所で回っていた。
スペインがフランスとの対立に踏み切れば戦争になるかもしれない。戦争になれば宰相の権力が強化される。平時の宰相は、王妃の寵愛に依存する不安定な地位だ。だが、戦時の宰相は国家の存亡を左右する不可欠な存在になる。
戦争は、ゴドイの権力を盤石にする。
カルロス四世は狩猟に出かけ、王妃は宮殿で衣装を選び、ゴドイがすべてを動かす。
時計と言わず。国土も。人民も。経済全てを。
ゴドイ自身が、手に入れるのだ。
* * *
ゴドイが廊下を去った後、カルロス四世の自室には静けさだけが残った。
ルイ・カペーの時計が、静かに時を刻んでいた。
カチ。カチ。カチ。
完璧な等間隔。完璧な精度。完璧な孤独。
カルロス四世は、自分の時計を手に取った。不揃いな筐体。手書きの文字盤。微かに躊躇する秒針。
二つの時計を、並べて、見た。
ルイ・カペーの時計は完璧だった。だが、完璧であるがゆえに冷たかった。機械の冷たさ。誤差のない時間の冷たさ。
自分の時計は不完全だった。だが、不完全であるがゆえに温かかった。自分の手の跡が残っている。やすりの角度が少しずれた歯車の痕。何度もやり直した文字盤の刻印の跡。失敗の痕跡が、温もりになっている。
「ルイ・カペー」
カルロス四世が、独り言を呟いた。
「お前は幸せか」
答えは、なかった。時計だけが、静かに、正確に、時を刻んでいた。
窓の外では、カスティーリャの秋の陽光が、エル・パルドの森を金色に染めていた。鹿たちが、森の奥で、静かに草を食んでいる。
カルロス四世は明日もまた狩りに出る。朝食を食べ、ミサを聞き、午後一時まで狩猟に行き、昼食後、もう一度猟場に戻り、日暮れまで鉄砲を撃つ。夜になれば、ゴドイがやってきて、政務がうまく行っているかどうかを告げてくれる。それから床に入り、朝になれば、また狩りに行く。
何も変わらない。
何も変わらないはずだった。
だがゴドイの蒔いた種はすでにカルロス四世の心の中で時計の歯車のように静かに回り始めていた。




