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バチカン救済 ——トロイの木馬としての「聖なる道路」——

1793年。初夏。


ローマへの道は、アントワネットから始まった。


マリー・アントワネット市民アントワネットは、プチ・トリアノンの菜園で、ラベンダーの収穫をしていた。六月の陽光が庭園に降り注ぎ、紫色の花穂が風に揺れ、蜜蜂が花の間を飛び回っている。麻のエプロン。日焼けした腕。指先にはラベンダーの油が染みついている。


三十七歳のアントワネットは、ヴェルサイユの宮廷にいた頃よりも確実に美しくなっていた。宮廷の粉白粉とコルセットが作り上げていた人工的な美しさではなく、大地と太陽と労働が作り上げた、自然な美しさ。


その彼女のもとに、ロベスピエールの使者が訪れた。


「市民アントワネット。議長がお会いしたいとのことです」


アントワネットはラベンダーの束を籠に入れ、エプロンの土を払い、使者に従った。


* * *


ロベスピエールの執務室。


アントワネットが入室したとき、ロベスピエールは机の上に広げた地図を見つめていた。イタリア半島の地図。ローマを中心とする教皇領が、色分けされて示されている。


「お久しぶりです、ロベスピエール」


アントワネットの声は、明るかった。ウィーンへの外交訪問以来の再会だった。彼女は三年間の「市民アントワネット」としての生活でロベスピエールに対する恐怖をほとんど失っていた。恐怖の代わりにあるのは、奇妙な信頼だった。この男は自分を利用しているが、自分を殺さなかった。夫に工房を与え、自分に菜園を許し、子供たちの教育を保障した。利用されていることを理解した上で、その利用の仕方に満足している。それは信頼と呼ぶべきものだったのか、飼い馴らしと呼ぶべきものだったのか。アントワネット自身にも、区別はつかなかった。


「アントワネット。座ってくれ」


「はい。また、旅ですか」


「旅だ。今度はローマだ」


アントワネットの目が、かすかに光った。


「ローマ。聖地ローマ。母の故国オーストリアからも近い」


「そうだ。そこで教皇ピウス六世に会ってほしい」


「教皇聖下に?」


「そうだ。フランス共和国の親善大使として。だが、親善大使という肩書き以上に重要なのは、あなたがハプスブルク家の姫であるという事実だ」


ロベスピエールが、地図から目を上げた。


「アントワネット。教皇庁は破産寸前だ。経済政策の失敗で財政が崩壊しつつある。フェブロニウス主義の台頭でドイツ語圏の教会が離反しようとしている。教皇は孤立し、疲弊し、助けを求めている」


「助けを求めている相手がフランス共和国ですか」


「皮肉だろう。だが、教皇には選択肢がない。オーストリアのレオポルト二世は昨年急逝した。後継のフランツ二世は若く、教皇庁への関心が薄い。スペインのカルロス四世は無能だ。教皇庁を救済する意志と資金を持つ国は、ヨーロッパに一つしかない」


「それが、フランス」


「フランだ。正確には」


アントワネットは、椅子の背にもたれた。かつてのヴェルサイユの王妃なら、このような政治的な会話に参加することはなかっただろう。だが、三年間の「市民」としての生活が彼女を変えていた。パン屋の主人と市場で値段の交渉をし、農婦たちと種の選別について議論し、プチ・トリアノンの菜園の収支を自分で管理するようになった。帳簿の数字が意味するものを、体で理解していた。


「私の役割は何ですか」


「ローマに行き、教皇に会い、フランス共和国がカトリックの守護者であることをあなたの笑顔で伝えてほしい」


「私の、笑顔で」


「笑顔は最も安価で最も効果的な外交手段だ。あなたの笑顔はウィーンで証明された通り、軍艦の砲列よりも強力だ」


アントワネットが、微笑んだ。


「お世辞は結構です。私は何を言えばいいのですか」


「三つのメッセージを伝えてほしい」


ロベスピエールが指を立てた。


「第一。フランス共和国は、カトリック信仰を保護し続ける。コンコルダートの精神に基づき、教皇庁の権威をヨーロッパで最も力強く支持する国であり続ける」


「第二。フランス共和国は、教皇聖下がその権限を十分に果たせるよう、あらゆる支援を行う義務がある。具体的には教皇領のインフラ整備に、フランの資本と技術を投入する用意がある」


「第三。この支援の名目はローマ巡礼のための聖なる道路網の整備だ。全ヨーロッパのカトリック信徒が、安全かつ快適にローマを巡礼できるよう、アルプスからローマに至る巡礼路を、フランスの最新の土木技術で整備する」


アントワネットは、三つのメッセージを聞き終えた後、数秒間黙っていた。


「……ロベスピエール」


「何だ」


「あなたは信仰に興味がないでしょう」


ロベスピエールは答えなかった。


「ですから、巡礼路にと興味がない。教皇の権威にも関心がないでしょう。あなたが欲しいのは、アルプスを越える道路です。ナポレオンが提案して、あなたが却下した、あの道路。それを、巡礼路という名前に包み直して、教皇に敷設させる。違いますか」


ロベスピエールは、アントワネットの目を見た。


この女は変わった。三年前のマリー・アントワネットは、政治的な洞察力を持たなかった。宮廷の陰謀には疎く、財政の数字には無関心だった。だが、プチ・トリアノンの菜園で土を耕し、市場で値段を交渉し、新聞の連載で自分の言葉を吟味するようになり、ロベスピエールの戦略の裏を読めるようになっていた。


「その通りだ」


ロベスピエールは、否定しなかった。


この女に嘘をついても無駄だ。

嘘が下手な女は、嘘を見抜くのが上手い。


「巡礼路は道路だ。道路は物流網だ。物流網はフラン経済圏の拡張だ。あなたに嘘をつく必要はない。ただ、私の戦略を知った上で、ローマに行ってくれればいい」


「知った上で、笑顔を作れ、と?」


「あなたはそれが得意だ」


「得意ではありません」


アントワネットの声が、わずかに硬くなった。


「得意なのではなく必要だからするのです」


沈黙。


「ロベスピエール。一つ条件があります」


「何だ」


「教皇聖下に嘘はつきません。巡礼路の整備を提案します。フランスの資本を投入すると伝えます。ですが、その裏にフランスの経済的な意図があることを、隠しません。教皇聖下は愚かな方ではありません。隠せば侮辱になります。正直に話す方が長い目で見て、信頼を得られます」


ロベスピエールは、数秒間、アントワネットを見つめた。


この女の直感は正しいかもしれない。タレーランの外交術は「隠す」ことに長けている。だが、教皇庁との交渉では、タレーランの手法よりもアントワネットの率直さの方が効果的かもしれない。教皇は嘘を見抜く訓練を受けた人間だ。何千人もの告白を聞いてきた教会の最高指導者は、嘘の臭いに敏感だ。


「いいだろう。あなたの方法でやれ。ただし巡礼路の整備を正式に申し出る前に、まず教皇庁の財政状況を確認しろ。具体的な数字を把握しろ。教皇がどれだけ追い詰められているかを知った上で、支援を申し出ろ。相手の弱みを知っている者が、交渉では常に優位に立つ」


「それはタレーランの教えですか」


「常識だ」


「……わかりました。ローマに行きます」


アントワネットが立ち上がった。


「でも、一つだけ言わせてください」


「何だ」


「私がローマで笑顔を見せるのはあなたの戦略のためではありません。教皇聖下が困っているなら、助けるのは当然のことです。私はカトリック信徒ですから」


ロベスピエールは、何も言わなかった。


アントワネットが部屋を出た後、彼はしばらく椅子に座ったまま動かなかった。


あの女は利用されていることを知りながら、利用の中に自分の動機を見つけている。ロベスピエールの戦略とアントワネットの信仰が、同じ行動を指し示す。だが、動機は正反対だ。ロベスピエールはフラン経済圏の拡張のために教皇を救済する。アントワネットはカトリック信徒として教皇を助ける。同じ行為。異なる意味。


どちらが本物か。


どちらも本物だ。それが、この不誠実なシステムの、最も不思議な特質だった。


* * *


七月。


アントワネットの馬車が、アルプスを越えた。


護衛はつけたが、軍装はさせなかった。護衛兵は民間人の服装で、武器は隠し持ちにした。馬車には共和国の紋章ではなく、ハプスブルク家の紋章が掲げられた。ロベスピエールの指示だった。ローマに入る馬車は、フランス共和国の特使の馬車ではなく、ハプスブルク家の姫君の馬車でなければならない。


アントワネットの馬車の後方を、別の車列が追っていた。


測量士三十名。土木技師十二名。地質学者四名。橋梁設計士三名。ナポレオンが編成した技術チームだった。彼らは全員、民間人の服装を着ていたが、その鞄の中には測量器具、水準器、地質サンプル採取キット、そして三角測量のための精密機器が詰め込まれていた。


アントワネットが教皇と会見している間に、技術チームはアルプスからローマに至る街道の全区間を踏査し、地形データを収集する。勾配。土壌の種類。河川の位置と水量。橋梁が必要な地点。トンネルが必要な峠。道路の設計に必要なすべてのデータを、巡礼路の「予備調査」という名目で、収集する。


ナポレオンは、パリに残っていた。物流CEOは、現地には行かない。設計図は執務室で描く。


だが、彼が編成した技術チームの隊長には、ナポレオンの密命が与えられていた。


「データを二種類集めろ。巡礼路として最適なルートのデータと、物流幹線として最適なルートのデータ。二つのルートが一致すれば理想的だ。一致しなければ、物流幹線のルートを優先し、巡礼路はそのルートに合わせて微調整しろ」


ロベスピエールは、この密命を知らなかった。知っていたとしても止めなかっただろう。

データの収集自体は無害だ。問題は、データをどう使うかだ。そして、データの使い方はいつでも変えられる。今は巡礼路の設計に使い、将来は物流幹線の設計に転用する。ナポレオンの二枚舌は、規格の中に、データの中に、設計図の中に、静かに仕込まれている。


* * *


八月。ローマ。バチカン宮殿。


教皇ピウス六世は、七十六歳だった。


白い法衣を纏った老人は、使徒宮殿の書斎で、アントワネットを待っていた。書斎の壁にはラファエロのフレスコ画が広がり、天井にはミケランジェロの弟子たちが描いた天使が舞い、窓からはサン・ピエトロ広場の円柱回廊が見える。


だが、書斎の机の上には美とは正反対のものが積まれていた。


帳簿。請求書。借用証書。催促状。教皇庁の財政崩壊を示す書類の山。


ピウス六世は、就任以来、芸術の庇護者であることを志してきた。バチカン美術館の創設。ポンティーネ湿地の干拓事業。サクリスティーア(聖具室)の建設。だが、そのすべてが、教皇庁の財政を圧迫した。収入は減り続け、支出は増え続け、負債は雪だるま式に膨らんだ。


フェブロニウス主義の台頭が、追い打ちをかけた。ドイツ語圏の教会が教皇権からの自立を主張し、教皇庁への上納金が減少した。イエズス会の問題で両派から信頼を失い、外交的な孤立が深まった。


神の代理人である教皇は、帳簿の数字の前に膝を屈しつつあった。


* * *


「教皇聖下」


アントワネットが、書斎に通された。


彼女はロベスピエールの指示通りハプスブルク家の姫君として振る舞った。だが、その振る舞いは、宮廷時代の人工的な優雅さではなかった。プチ・トリアノンで身につけた、自然な温かさが旧来の貴族的な礼儀作法の中に溶け込んでいた。


「マリー・アントワネット」


ピウス六世が、椅子から立ち上がろうとした。アントワネットが駆け寄り、老教皇の手を取った。


「お座りになったままで、聖下。お疲れでしょう」


「疲れてはおらぬ。だが、老いた。老いたのだ、マリー」


教皇の目に、かすかな潤みがあった。アントワネットの母マリア・テレジアは、教皇にとって最も信頼できる世俗の君主の一人だった。その娘がフランス革命の嵐を生き延びて、今、自分の前に立っている。教皇は、アントワネットの中に、亡きマリア・テレジアの面影を見ていた。


「聖下。フランス共和国の親善大使として参りました。ですが、その前に、ハプスブルク家の娘として、聖下のお手に接吻させてください」


アントワネットが、教皇の手にかがんだ。カトリックの礼法。信徒が教皇に対して示す最高の敬意。


ピウス六世の目から、涙がこぼれた。


「マリー。お前はフランスの革命政府の特使として来たのだな」


「はい、聖下」


「革命政府。教会の財産を没収し、聖職者を公務員に格下げした政府の」


「はい。ですが、聖下。フランスは変わりました」


アントワネットが、教皇の隣の椅子に座った。


「コンコルダートをご存知でしょう。フランス共和国は、カトリック信仰を保護しています。宗教教育を保障し、聖職者の任命権を教皇庁と共有し、フェブロニウス主義を排斥する立場を明確にしています。フランスは、カトリックの敵ではありません。友です」


「友。友は、アヴィニョンを返してはくれないのかね」


教皇の声に、かすかな棘があった。1791年、フランスはアヴィニョンを教皇領から併合していた。改変歴史でもこの併合はコンコルダート締結前にすでに行われていた。


「アヴィニョンについては正直に申し上げます。返還は難しいでしょう。ですが、聖下。アヴィニョン以上のものを、フランスは提供する用意があります」


「アヴィニョン以上?」


「教皇領のインフラ整備です」


* * *


アントワネットは、ロベスピエールの三つのメッセージを、自分の言葉に翻訳して教皇に伝えた。


だが、彼女のやり方は、ロベスピエールが想定したものとは微妙に異なっていた。ロベスピエールが設計した「帳簿の言葉」を、アントワネットは「人間の言葉」に変換していた。


「聖下。私は正直に申し上げます。フランス共和国がこの支援を提案するのは、慈善だけが理由ではありません」


ピウス六世が、かすかに目を細めた。


「フランスは、地中海への経済的なアクセスを必要としています。アルプスを越えてローマに至る道路を整備することは、フランスの経済的利益にもなります。これは隠しません。隠しても、聖下には見抜かれるでしょうから」


「……正直だな、マリー」


「母に教わりました。嘘をつくなら、つかない方がましだと」


教皇が、微かに笑った。老いた顔に、若い頃の外交官として各国の宮廷を渡り歩いた頃の鋭さが、一瞬だけ蘇った。


「マリア・テレジアの教えか。あの女帝は嘘をつかなかったわけではないが、嘘をつくときに良心の痛みを感じる稀有な君主だった。お前は母親に似ている」


「ありがとうございます。では、聖下。正直な提案を聞いていただけますか」


「聞こう」


「フランス共和国は、ローマ巡礼のための聖なる道路網を、フランスの資本と技術で整備することを提案いたします。アルプスからローマに至る全区間を、最新の土木技術で安全かつ快適な巡礼路に整備します。勾配を緩和し、橋梁を架け、排水溝を整備し、石畳を敷きます。費用は、すべてフラン経済圏が負担します」


「すべて?」


「すべてです。教皇庁の財政的負担は一切ありません。むしろ、道路の建設に伴い、フランスの土木作業員がイタリアに滞在し、現地で食料と宿泊を購入し、フランで支払います。教皇領の経済に、フランスの資本が流入します」


ピウス六世は、アントワネットの顔を見つめていた。


何千人もの告白を聞いてきた教皇の目には、アントワネットの言葉の裏にあるものが見えていた。


巡礼路。聖なる道路。カトリックの保護。美しい名目だ。だが、その名目の裏に、フランスの経済的野心が透けている。道路は物流網だ。物流網はフラン経済圏の拡張だ。教皇領にフランスの道路が敷設されれば、教皇領は事実上、フラン経済圏に組み込まれる。


教皇は、知っていた。


だが、拒否する力がなかった。


教皇庁の帳簿は赤字で埋まっている。バチカン美術館の維持費が払えない。聖職者への給与が遅配している。ポンティーネ湿地の干拓事業は資金不足で中断している。教皇庁を救える資金を持っているのは、フランスだけだ。


「マリー」


「はい、聖下」


「お前は正直だと言った。では、もう一つ、正直に答えてくれ」


「何でしょう」


「お前自身はこの提案を、どう思っている。フランスの政策としてではなく。マリー・アントワネットという一人のカトリック信徒として」


アントワネットは、数秒間沈黙した。


「……聖下。私は、ロベスピエールの戦略を理解しています。彼がこの提案で何を得ようとしているかも。ですが、聖下。巡礼路が整備されることは、本当に良いことです。私の菜園に来る近隣の農婦たちは、一生に一度はローマを巡礼したいと願っています。ですが、道が悪く、山賊が出て、宿がない。だから行けない。もし道路が整備されれば、彼女たちはローマに来ることができます。教皇聖下のお姿を拝することができます。それは政治とは無関係の、純粋な善です」


「純粋な善か」


「はい」


「善の中に、経済的野心が混じっていてもか」


「混じっていても、善は善です。少なくとも、私の信仰ではそう教わりました」


ピウス六世は、再び目を閉じた。


長い沈黙の後、教皇は言った。


「わかった。提案を受け入れる」


* * *


アントワネットがバチカン宮殿を辞した翌日から、事態は加速した。


ナポレオンの技術チームが、アルプスからローマに至る街道の測量を開始した。三十名の測量士が、三角測量の精密な光学機器を担いで、山道を歩き、谷を渡り、峠を越えた。彼らの後ろを、土木技師が続き、地質学者が土壌サンプルを採取し、橋梁設計士が河川の幅と深さを記録した。


彼らの名目は「ローマ巡礼路整備のための予備調査」だった。


教皇庁が発行した通行許可証を携え、教皇の紋章をつけた旗を掲げ、行く先々のカトリック教会で歓迎された。地元の司祭たちは、フランスからの測量士を、巡礼路を作りに来た善良なキリスト教徒として温かく迎え入れた。食事を提供し、宿を貸し、道案内をした。


測量士たちは、礼儀正しく、勤勉で、酒も飲まず、女性にも手を出さなかった。ナポレオンの指示だった。「一人でも問題を起こしたら、全員を帰国させる。我々は巡礼者だ。巡礼者のように振る舞え」


九月。測量データの第一便がパリに届いた。


ナポレオンは、執務室で、データを広げた。


アルプスのモン・スニ峠。標高二千八十メートル。既存の街道の勾配は最大十八パーセント。荷馬車の通行には危険で、冬季は完全に閉鎖される。だが、ナポレオンの設計では、九曲がりのスイッチバック道路を建設すれば、勾配を五パーセント以下に抑えられる。冬季の通行も、除雪体制を整備すれば可能になる。


ポー平原の区間。北イタリアの大平原。ここは勾配の問題はないが、河川が多い。ポー川、テヴェレ川の支流群を越えるために、複数の石造橋梁が必要になる。ラヴォアジエの改良セメントが使えれば、従来の半分の工期で橋を架けられる。


ローマ近郊。ポンティーネ湿地帯。教皇ピウス六世が干拓事業を計画しながら資金不足で中断した区間。この湿地帯を道路が貫通すれば、ローマへの南側からのアクセスが劇的に改善する。同時に、干拓事業の一部を道路建設と同時に行えば、教皇庁へのアピールにもなる。


ナポレオンは、測量データを元に、道路設計の第一稿を完成させた。全区間の道路規格はロベスピエールとの約束通りに巡礼路としての仕様で設計された。路面幅は荷馬車二台がすれ違える程度。舗装は石畳。排水溝は左右に設置。


だが道路の基盤構造は、フランス国内の幹線道路と完全に同一だった。路盤の厚さ。砕石の粒度。石畳の接合方法。車輪幅の規格。すべてが、フランスの物流システムと互換性を持つように設計されていた。


巡礼路の外見の下に、物流幹線の骨格が隠されている。


ナポレオンは、設計図を丸め、革の筒に入れた。


そしてあの獰猛な笑みを、誰にも見せずに浮かべた。


* * *


十月。


フランスの土木作業員の第一陣として五百名がアルプスを越えた。


軍隊ではなかった。武器は持っていなかった。彼らが持っていたのは、鶴嘴と鋤と水準器と、ラヴォアジエの改良セメントの樽と、ナポレオンの設計図のコピーだった。


彼らは「聖なる道路網」を作りに来た敬虔なキリスト教徒だった。


少なくとも名目上は。


街道沿いのイタリアの村々で、フランスの土木作業員たちは歓迎された。道路の整備は、地元の住民にとっても恩恵だった。悪路が改善され、橋が架かり、宿場町ができれば、巡礼者だけでなく商人も通るようになる。商人が通れば、金が落ちる。金が落ちれば、村が豊かになる。


そしてその金は、フランだった。


作業員たちの給料はフランで支払われた。地元の食料と宿泊費もフランで支払われた。建設資材の一部は現地調達で、やはりフランで購入された。フランが、イタリアの村々に浸透し始めた。


最初は、村の食料品店がフランを受け入れた。次に、鍛冶屋がフランで道具を売った。やがて、村人たち同士の取引にもフランが使われ始めた。リラやスクードよりもフランの方が、安定していて、使い勝手が良かったからだ。


通貨の浸透。


パリで三年前に起きたのと同じ現象が、規模は小さいがアルプスの向こう側で、静かに、確実に、始まっていた。


道路が通貨を運び、通貨が経済を変え、経済が社会を変える。


ナポレオンの道路。ロベスピエールのフラン。ラヴォアジエのセメント。アントワネットの笑顔。四つの力が、イタリア半島の心臓部に向かって、ゆっくりと、しかし止められない速度で、浸透していった。


一発の銃声もなく。


一滴の血も流さず。


ただ聖なる道路という名のトロイの木馬に乗って。

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