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神よりも美しき万国最高芸術祭の誕生

1792年。春。


新憲法が公布された。


全国四万の教区に、ナポレオンの道路網を通じて、ラヴォアジエの改良紙に印刷された憲法の冊子が届けられた。冊子の表紙の次には、ラファイエットが書き、ロベスピエールが自らの手で書き写した人権宣言の冒頭が記されていた。


「フランス国民の代表者たちは、人の権利に対する無知、忘却、または軽視が、公の不幸と政府の腐敗の唯一の原因であることを考慮し——」


フランスは、機械と心を手に入れた。


だが、ロベスピエールの脳は、すでに次の計算を始めていた。


機械は動いている。心は入った。——では、魂は?


* * *


四月。国民議会。


ロベスピエールが壇上に立った。


一年半前の球戯場とは違い、今のロベスピエールが壇上に立てば、議場は即座に静まる。条件反射だった。この男が立てば、次に何かが動く。何かが変わる。通貨が生まれ、道路が走り、王冠が外れ、憲法が書かれた。次は何だ。——議員たちは、恐怖ではなく期待で息を止めた。


「諸君。新憲法の公布を記念し、祭典を提案したい」


議場にざわめきが走った。祭典。この男の口から「祭典」という言葉が出るのは初めてだった。帳簿と数式の男。ギロチンの代わりにフランを発明した男。あの男が、祭典を?


「名称は——最高存在の祭典」


ロベスピエールの声が議場に響いた。


「ルソーが説いた市民宗教の理念に基づき、共和国の道徳的基盤を民衆の心に刻む儀式だ。無神論を否定し、キリスト教の盲信も否定し、理性と美徳に基づく新しい精神の秩序を——」


「素晴らしい!」


最前列から声が上がった。


ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト。二十五歳。「革命の大天使」と呼ばれる美青年。端正な顔立ちに、燃えるような目。ロベスピエールの最も忠実な同志であり、ルソー思想の最も純粋な信奉者。


「素晴らしい、ロベスピエール!これこそ我々が必要としていたものだ。経済と制度だけでは国は持たない。精神が必要だ。道徳が必要だ。ルソーが『社会契約論』で説いた市民宗教の——」


サン=ジュストの熱弁は、しかし、議場の空気を温めなかった。


議員たちの顔に浮かんでいたのは、困惑だった。市民宗教。最高存在。道徳の秩序。——言葉は崇高だが、手触りがない。パンの値段を下げた通貨改革には拍手した。道路の整備には拍手した。農業の増収には拍手した。——だが、「最高存在」に拍手する理由が、彼らにはわからなかった。


「ルソーの思想は……難しいのでは」


後方の席から、ナントの貿易商が控えめに声を上げた。あの男だ。球戯場で最初にフランの可能性に気づき、ロンドンの商会にフラン建て取引を提案した、あの実務家。


「我々は商人です。農民です。職人です。最高存在と言われても——正直、何を祝えばいいのか」


サン=ジュストが振り向き、美しい顔を怒りで赤くした。


「無知だ!ルソーを読め。『エミール』を読め。人間の本性に立ち返り——」


「サン=ジュスト」


ロベスピエールが制した。静かに。だが、完全に。


サン=ジュストは口を閉じた。この男だけは——ロベスピエールだけは——サン=ジュストを止められる。


議場は沈黙した。ロベスピエールの提案が宙に浮いている。賛成もなく、反対もなく、ただ困惑だけが漂っている。


そのとき——議場の後方で、椅子が鳴った。


* * *


ラファイエットが立ち上がった。


長身の元軍人は、議場の通路を大股で歩き、壇上に向かった。軍靴の音がリズミカルに響く。タレーランの杖の音とも、ナポレオンの早歩きとも違う、自信に満ちた、開放的な足音。


「ロベスピエール。一つ提案がある」


「どうぞ」


「最高存在の祭典という名前を——変えよう」


サン=ジュストが再び立ち上がりかけた。ラファイエットが、その方を見もせずに続けた。


「思想の押し付けでは人は動かない。ルソーを読んだことのない農民に、最高存在を拝ませても意味がない。——だが、音楽なら。絵画なら。演劇なら。誰もが理解し、誰もが感動する」


議場の空気が、変わった。


「私はアメリカで学んだ。独立戦争の最中、ワシントン将軍の陣営で、兵士たちが何によって士気を保っていたか。思想か?いいや。音楽だ。焚き火を囲んで歌う歌。故郷を思い出させるフィドルの音色。——人間の心を動かすのは、理論ではない。芸術だ」


ラファイエットが、壇上に上がった。ロベスピエールの隣に立った。痩身の理論家と長身の軍人が並ぶ。対照的な二人の男が、議場を見下ろしている。


「ヨーロッパ中の音楽家や画家を集めた、世界初の最高芸術の祭典をやろう」


議場が、ざわめいた。だが、今度のざわめきは困惑ではなかった。


「パリに、ヨーロッパの天才たちを集める。ウィーンからハイドンを。マドリードからゴヤを。ロンドンから若きターナーを。パリのヴィジェ=ルブランを。そして——パリ市民を。フランスの農民を。商人を。職人を。すべての国民を。すべてのヨーロッパ人を」


「芸術の祭典……」


ナントの貿易商の目が、光った。商人の鼻が、また何かを嗅ぎ取っていた。


「つまり——ヨーロッパ中から人が集まるということか。人が集まれば、金が動く。宿が要る。食事が要る。土産物が売れる。パリの経済が——」


「そうだ」


ラファイエットが、貿易商に向かって頷いた。


「芸術は、経済だ。音楽家を呼べば、彼らに報酬を払う。報酬はフランだ。画家を呼べば、画材を買う。画材はフランで買う。観客が来れば、観客はパリで食べ、飲み、泊まり——すべてフランで支払う。圧倒的な娯楽こそが、フランスの経済力を証明する最高のショーケースになる」


議場が沸いた。


今度こそ、本物の熱狂だった。帳簿の数字で沸いたのでも、道路の規格で沸いたのでもない。芸術という言葉が——娯楽という言葉が——五百人の議員の心に火をつけた。


「万国最高芸術祭!」


誰かが叫んだ。


「パリに世界の芸術を!」


「フランスの誇りを世界に!」


拍手が起きた。足踏みが起きた。議場全体が、球戯場の日以来の——しかし球戯場とは質の異なる——熱狂に包まれた。あの日の熱狂は怒りだった。今日の熱狂は——歓喜だった。


* * *


「低俗だ!」


サン=ジュストの声が、熱狂の中で、氷のように響いた。


美青年は椅子から立ち上がり、蒼白な顔でラファイエットを睨んでいた。


「低俗だ、ラファイエット!最高存在の祭典は、道徳と美徳の聖別式であるべきだ。民衆の魂を浄化し、共和国の精神的基盤を——」


「精神的基盤は、人権宣言で十分だ」


ラファイエットが、穏やかに、しかし一歩も引かずに返した。


「ルソーの思想は偉大だ。だが、偉大な思想を押し付ければ、それは教条になる。教条は抑圧を生む。抑圧は——」


「暴力を生む」


ロベスピエールが、壇上で、静かに言った。


その声に断頭台の記憶がかすかに滲んだ。サン=ジュストは気づかなかっただろう。だが、ロベスピエールの脳裏には、五年後の未来が——最高存在の祭典の五十日後にテルミドールが来た記憶が鮮明に蘇っていた。


あの祭典は、失敗だった。


道徳と美徳を押し付けた祭典は、民衆のエネルギーを抑え込み、革命を支えていた下からの熱量を殺した。祭典の壮麗さの裏で、ロベスピエールへの反感が臨界点に達し——五十日後に、自分は断頭台に載せられた。


同じ過ちは、二度と犯さない。


「サン=ジュスト」


ロベスピエールが、同志を見た。


「ラファイエットの提案を採用する」


サン=ジュストの顔が、凍りついた。


「ロベスピエール——」


「君の理想は正しい。だが、正しい理想を正しい方法で実現しなければ、理想そのものが武器になる。我々は——もう武器を使わないと決めたはずだ。剣も、銃も、ギロチンも、教条も」


サン=ジュストの目に、傷ついた光が走った。だが——この青年は、ロベスピエールに逆らわない。逆らえない。ロベスピエールへの忠誠は、サン=ジュストの存在の核にある。彼は静かに座り直した。美しい顔から、怒りが消え、代わりに諦めに近い、しかし忠誠を失わない沈黙が残った。


ロベスピエールは、その背中を見た。


——あの美しい青年を、五年後の自分は断頭台に巻き込んだ。サン=ジュストは抵抗もせず、ほぼ無言で処刑された。忠誠のまま。


今度は、この青年を守る。だが、守り方は——理想を押し通させることではない。理想の暴走を止めることだ。


* * *


議場の熱狂が収まった後、ロベスピエールは執務室に戻った。


一人になった。


蝋燭を灯し、椅子に座り、天井を見上げた。


脳の中で、凄まじい速度で計算が回転していた。


ラファイエットの提案を、表面的に受け取れば——芸術祭は、ただの娯楽イベントだ。音楽家を呼び、絵画を展示し、民衆を楽しませる。パンとサーカス。古代ローマ以来の、支配者が民衆の不満をガス抜きするための手法。


だが、ロベスピエールの脳は、もっと深い層を掘っていた。


ヨーロッパ中の音楽家と画家を、パリに集める。


これは——知的財産の集積だ。


ハイドンがパリで演奏すれば、そのメロディはパリの聴衆の記憶に刻まれる。ゴヤがパリで絵を展示すれば、その画法はパリの画家たちに伝播する。——芸術家が一か所に集まれば、技術と知識の交差が起きる。異なる文化圏の天才たちが出会い、刺激し合い、新しい表現を生み出す。


その交差点が——パリになる。


フランスの首都が、ヨーロッパの芸術と知識の中心地になる。一度確立されたその地位は、簡単には奪われない。芸術家たちは、一度パリの魅力を知れば、戻ってくる。弟子を連れてくる。パトロンを呼び寄せる。——自己増殖する文化資本の集積。


ラファイエットは無自覚だったのかもしれない。だが、あの男が考案したのは——芸術祭という名の巨大なプラットフォームだった。


ヨーロッパの知識人と芸術家を吸い込み、フランスに囲い込む、文化の引力場。


ナポレオンの道路が物流を支配したように。


ネッケルの金融網が資金の流れを支配したように。


ラヴォアジエの研究所が科学を支配したように。


——芸術祭が、文化を支配する。


面白い男だ、ラファイエット。


ロベスピエールは、内心でそう思った。あの男は「感動」を語っているつもりで、実は恐ろしく強力な集客装置を考案していた。無自覚なのか。意図的なのか。——どちらでもいい。結果は同じだ。


ロベスピエールは、ペンを取った。


予算案を書き始めた。


万国最高芸術祭。


国家予算から大規模な投資を行う。コンサートホールの建設。展示場の整備。招聘芸術家への報酬。宿泊施設の手配。広報活動。——すべてフラン建てで。


この祭典は、ただの娯楽ではない。


フランスの経済力を示す最高のショーケースであり、他国の文化資本を吸収する磁石であり、国民の忠誠心を高める感情のインフラであり、そして——ヨーロッパの知的覇権をパリに集約する、静かなる征服だ。


一発の銃声もなく。


一滴の血も流さず。


——ただ、美しい音楽と、美しい絵画で。


* * *


予算案を書き終えたロベスピエールは、ペンを置き、窓の外を見た。


春のパリ。セーヌ川が夕日を映して金色に輝いている。ノートルダム大聖堂の尖塔が、空に向かって伸びている。


五年後の未来で、あの尖塔の下で、最高存在の祭典が行われた。数十万の群衆が動員され、大砲が鳴り、「無信仰」の怪物像が燃やされ、「叡智の女神」が姿を現し、自分が——ロベスピエールが「美徳の司祭」として粛然と立った。


壮大な祭典だった。ダヴィドの演出は完璧だった。


だが、あの祭典には——心がなかった。


いや、心はあった。ロベスピエールの心はあった。だが、それは押し付けられた心だった。「こう感じろ」「こう信じろ」「こう崇拝しろ」と命じられた心だった。命じられた感動は、感動ではない。強制された崇拝は、崇拝ではない。


ラファイエットが正しかった。


思想の押し付けでは人は動かない。


圧倒的な娯楽こそが、人々が自発的に「楽しい」と感じる体験こそが、最も強力な結束力を生む。


最高存在を変えよう。


神ではなく、芸術を。


教条ではなく、音楽を。


儀式ではなく、祝祭を。


ロベスピエールは、予算案の表紙に、祭典の正式名称を書いた。


Fête Suprême des Arts—万国最高芸術祭


最高存在(l'Être Suprême)の「存在」を「芸術」に置き換えた。たった一語の変更が、フランスの、そしてヨーロッパの未来を、根底から書き換える。


ロベスピエールは、予算案を閉じ、議会事務局に届けるために立ち上がった。


扉を開けた瞬間、廊下の向こうからサン=ジュストが歩いてきた。


美青年は立ち止まり、ロベスピエールを見た。その目には、議場での傷がまだ残っていた。だが、その上にはもう一つの感情が重なっていた。


「ロベスピエール」


「何だ、サン=ジュスト」


「……芸術祭の演出を、私にやらせてくれないか」


ロベスピエールは、一瞬、驚いた。


「低俗だと言っていなかったか」


「低俗だ。だが——」


サン=ジュストの唇が、かすかに歪んだ。苦い笑みだった。理想主義者が、現実と折り合いをつけようとするときの、あの痛みを伴う微笑。


「——低俗だからこそ、誰かがそれを美しくしなければならない。ラファイエットに任せたら、ただの市場になる。私が演出すれば——低俗の中に、せめて美徳の欠片を入れることができる」


ロベスピエールは、サン=ジュストの目を見た。


五年後の未来で、この青年はほぼ無言で断頭台に上がった。抵抗もせず。弁明もせず。ただ——忠誠のまま。


この忠誠を、今度は生かす方向に使う。


「演出は、ダヴィドと共同で担当しろ。ダヴィドは視覚を、君は構成と理念を。——低俗の中に、美徳の欠片を。その仕事を、君に任せる」


サン=ジュストの目に、光が戻った。


「了解した」


美青年は踵を返し、廊下を去った。背筋を伸ばし、足取りは軽かった。


ロベスピエールは、その背中を見送った。


断頭台に上がった背中を。——いや、もう上がらない背中を。


この世界線では、サン=ジュストは芸術祭の演出家になる。ギロチンの設計者ではなく、祝祭の建築家になる。同じ能力を。同じ純粋さを。同じ忠誠を。——ただ、まったく違う方向に。


ロベスピエールは、予算案を抱えて、廊下を歩き出した。


万国最高芸術祭。


神よりも美しいもの——人間の創造力そのもの——を祝う祭典が、始まろうとしていた。


---


(第十三章「華やかなる囮作戦」へ続く)

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