後編
あの日から、先輩の態度がちょっとだけ変わった。
いい方向にじゃない。
悪い方向にだったけど。
*****
あの日から、先輩はわかりやすいくらいわかりやすく、俺を避けるようになった。いや、ほんとにもう、わかりやすすぎて、正直へこむ。今だって、
「あ、先輩、手伝・・・」
「斎藤君、これ運ぶの手伝って」
・・・・・・・・・ねぇ。これってやっぱりわざとですよね?
斎藤、っていうのは俺の更に後輩に当たる奴だ。っていっても、向こうは大学浪人してるから、俺と年齢は変わらない。なんだかんだで、俺とは気が合う方で、たまに飲みに行く程度には仲がいい。
が、それはあくまでも俺との話。仕事も部署も違う先輩とは、今まであんまり話す機会だってなかった奴だ。それが、何故か。あの日を境に、ちょっとした雑用の手伝いをこいつに任せるようになった先輩。今だって、俺が自ら手伝いを買って出ようとしたのに、わざわざ斎藤を名指ししましたよ。え、これって嫌味ですよね、やっぱり。
呆然としてる俺に気付いてるんだろう。斎藤が気を使うように俺を見てる。でも、
「斎藤君?」
急かすように先輩に名前を呼ばれて、
「・・・はーい」
俺に気を使うように目で合図だけして、先輩の元へ急ぐ斎藤。それを見て、深い溜息をつく俺。その上・・・
「なんだなんだ。お前ら、喧嘩でもしてるのか?」
にやにや楽しそうに話し掛けてきたのは、俺と先輩の上司に当たる人。見れば、他の人たちも好奇に満ち満ちた眼で俺を見てる。
「・・・喧嘩じゃないです」
そう、喧嘩じゃない。ただ、俺が一方的に避けられてるだけで、喧嘩ではない。・・・と思う。先輩が怒るようなこともしてないはずだし。・・・・・・・・・多分。
俺の返答が納得できなかったんだろう。まぁ、自分でも説得力がない解答だとは思う。現に俺は先輩に話し掛けても無視され続けてるし、今だって自覚できるくらい機嫌が悪い。上司に対する態度だとは思えないほど、素っ気無い口調でもあった。
そんな俺に、彼は少しだけ目を細め、
「なら、さっさといつもの調子でじゃれあうんだな。こっちまで調子が狂うだろ」
「・・・・・・」
何もいえない俺の肩をぽんと一度だけ叩いて。自席に戻っていく彼に、俺は何もいえなかった。
*****
とはいえ、だからって急に何ができるわけでもない。上司の歯痒そうな視線の中、結局今週が終わってしまった。
で、俺は今。何故か居酒屋にいる。飲みニケーションの一環で、同じ職場の何人かに捕まったのだ。もちろん、先輩もいるんだけど、その隣には当然のように部署が違う斎藤がいて。二人で笑い合ってる姿に、俺はどうしようもないもやもやを抱えていた。
「・・・安芸~。怖い顔になってるぞー」
男の先輩が茶化すように言ってきたけど、俺は聞こえないふり。だって、自覚してるし。かといって、どうすればいいのかなんてわかんないけど。
誤魔化すようにビールを煽れば、すぐに次が注がれた。見れば、部長がにやにや笑って俺を見てる。
「・・・なんすか?」
「いや、若いって良いなぁと思ってな」
・・・なんだよ、それ。意味、わかんねぇ。
渋い顔をした俺を見て、やっぱり笑ってる部長。あ、やばい。今、初めてこの人殴りたいと思った。普段は・・・ってか、仕事中は頼りになる、すっごいいい人なのにな。意外とこういう話好きなのかな・・・・・・って、え。
「・・・部長。今の、どういう意味ですか・・・?」
若いって良いな、って、え。ってか、ちょっと待てよ、俺。周りの先輩方、皆この人と同じ眼して笑ってるぞ、おい。まさか・・・え、まさかっ!?
やっと事態を把握しかけた俺に、とどめとばかりに先輩方が口を開いた。
「あれだけわかりやすいアピールしてたら、誰だって気付くだろ」
「南に無視されただけで、機嫌最悪に悪かったしなぁ」
「気付いてないの、本人達だけですよね。いろんな意味で」
・・・・・・・・・衝撃。え、衝撃過ぎなんですけど、ねぇ。
口をかぱっと開けて、絶句するしかない俺。そんな俺に、部長がまとめとばかりに、
「まぁ、そういうことだ。今日のこれも、本当なら斎藤抜きでやるつもりだったんだがなぁ・・・」
他部署の連中に南(南 沙夜。先輩のことだ)をとられるくらいなら、安芸に任せたほうがいいだろ。そっちのが面白いし。
そう続けた部長に、俺はもう脱力するしかない。なんかもう、ほんと、いろいろ衝撃的過ぎて、頭がついてきてない気がする。理解するのは諦めよう、うん。
「・・・・・・」
ため息をついて、注がれたばかりのビールを一気飲みした。なんか、いろいろ自棄になってる気がする。仕方ないけど。誰だってなると思う。
でも、先輩方の口撃は終わらない。
「で? 何が原因で喧嘩したんだ?」
「・・・別に、何もしてないです。ってか、俺のほうが教えて欲しいくらいですよ」
好奇心以外の何者も含んでない声音で聞かれ、俺も適当に答えを返す。口調は適当だったけど、紡いだ言葉は本音に近い。だからこそ、今週はずっと苛々することになったんだし。
俺のそういう感情もばれてるんだろう。にやにや笑ってるであろう先輩方と目を合わせたくなくて、視線を反らした。が。俺はそれをすぐに後悔することになる。
「あはは。やだなぁ、斎藤君。変なの~」
「え~、そうですか? 先輩のほうが変でしょ?」
俺の視界に映ったのは、楽しそうに斎藤と笑いあう先輩の姿。斎藤も満更じゃなさそうに笑ってる。ああ、なんかもう、わけがわからなくなってきた。
俺の周囲には、好奇心に満ちた先輩達。で、その奥では楽しそうに笑う大好きな先輩の姿。俺がこんな状況に陥ってる原因はあの人にもあるのに、あの人だけ笑ってるなんて・・・ああ。なんかもう、本当に。
げんかいだ。
がたんと、椅子が音を立てて倒れた。その音に、先輩がびくっと肩を揺らしてる。周りの先輩方も、驚いたような顔で俺を見てた。
でも、そのどれもが、今の俺を止めるだけの力はなかった。
「先輩、ちょっといいですか?」
多分、俺は今笑ってると思う。いつもの笑い方とは違うと思うけど。でも、きっと笑ってる。自分で自覚できる。
例えそれが、先輩に恐怖を与えるものだとしても。
「あ・・・安芸君? どうしたの?」
先輩の声は、少しだけ裏返ってる。それが恐怖から来るものでも、俺は止められなかった。
「飲みすぎですよ。今日はもう、帰ったほうが良いです」
話す内容は、いつもと同じ他愛ない内容。でも、お互いに譲るつもりはない。
「そんなに飲んでないよ。見てなかったでしょ?」
先輩の反論に、俺は笑顔を崩さず返す。
「テキーラ系のカクテル5杯、ジン系のカクテル3杯。ああ、今日は珍しく梅酒もロックで飲んでましたね。照葉樹林なんて、度数が高いお酒も空けてました。これでもまだ飲んでないと?」
見てないと思ってたみたいですけど、甘いですよ。先輩はお酒が入ると止まらなくなるって、知ってるんですからね。誰かが止めないと見境なく飲みつづけるくせに、決して強いわけじゃないんだから。俺が見張ってないと、駄目でしょ?
俺の言葉に、先輩は驚きのあまり反論できないようだ。口を開閉させてる彼女の傍により、
「今日はこれまでにしてください。帰りますよ」
机の上に、財布から適当に抜いた札を何枚か置いた後、その手で先輩の腕を引いて立ち上がらせる。空いている手は先輩の荷物を持って、問答無用で店を出た。出る瞬間、部長の笑顔が目に入ったけど、今はもう、そんなの気にしてる余裕もなかった。
*****
店を出て、すぐにタクシーを捕まえた。先輩を後部座席に座らせて、自分は助手席に乗り込んで。運転手に告げたのは、車だと何分もかからない自分の家の場所。先輩の家に行ってもいいけど、そんな気分じゃない。先輩には、言いたい事も聞きたいことも、山ほどあるんだ。居酒屋ではああ言ったけど、帰すつもりなんて更々なかった。
先輩とは一言も交わさないまま、俺のマンションに着いた。先輩が文句を言う前に料金を払って、腕を引いて歩き出す。オートロックを解除して、エレベーターに乗って。無言のまま、玄関のドアを空けた。
「あ、安芸君・・・」
そこでやっと先輩が俺の名前を呼んだけど、今更引き返せるはずがない。
「少し散らかってますけど、どうぞ」
否と言わせない笑顔で言えば、先輩は恐る恐る靴を脱いで、俺について部屋にあがった。ここまでくれば、もう俺のペースだ。
2LDKの部屋は、一人暮らしには少し広い。とりあえず、先輩はリビングのソファに座らせて、自分は冷蔵庫へ。確か、ワインと酎ハイ、ビールがあったはずだ。先輩の好みなら、ワインかな。居酒屋ではカクテルばっかり飲んでたから、雰囲気を変えたほうがいいだろう。
そこまで考えて、つい自嘲してしまった。店を出るときには飲み過ぎだって言ったのに、まだ飲ませることを考えてる。ほんと、今日の俺は、矛盾ばかりだ。
でも、多分。先輩の警戒心を緩ませるには、飲ませたほうが正解だろう。
そう考えて、迷うことなくワイングラスを手に取った。
「せーんぱーい。ワイン飲みます?」
手に持ったワインを傾けながら聞けば、僅かに動く気配。それを了承ととって、先輩の前にワイングラスを置いた。あとは、適当につまめるものがあればいいか。確か、チョコレートがあったから、それでいいや。あ、チーズ発見。これも一緒に出しておこう。
俺がつまみを用意している間に、先輩はワインを開けてしまったようだ。リビングに戻ったら、先輩の手にはすでに赤い液体の入ったグラス。あ~ぁ・・・俺が怖くて酒に逃げたのはわかるけど、せめて俺が戻るまで待とうよ。まぁ、こんなことくらいじゃ、今更機嫌も変わらないけど。
「食べます?」
聞けば、緩慢な動作で首を上げて、ゆっくり頷かれた。酔ってる、っていうより、朝の気の抜けてる時の仕種みたいで、不覚にも可愛いと思ってしまった。
チョコレートに手を伸ばしてる先輩の横で、俺も自分の分のワインを注ぐ。ついでに、先輩のグラスにも注ぎ足した。先輩は何も言わなかったけど、目が笑ったから美味しかったんだろうな。
「先輩、かんぱーい」
可愛い仕種に吊られて、俺は思わず笑ってしまう。そのノリでグラスを傾けたら、何故か目を丸くされた。
・・・なんで?
「先輩?」
何で驚かれるのかわからなくて、ただ名前を呼ぶ。そしたら先輩は何度か言い澱んだ後に、
「・・・怒ってないの?」
なんて、呟くように聞くものだから。
「俺に怒られるようなことしたんですか?」
心当たりは、ある。さっきの店での事を言っているなら、確かに俺は怒ってた。いや、正確には苛々してただけで、嫉妬で八つ当たりみたいな、みっともない行動までしてしまった。でも、それは店を出て、タクシーに乗って、俺の家に着くまでで。先輩の先輩らしい行動を見ているうちに、気付いたら嫌な感情は消え去っていた。
だから、自分でもこの返事は意地が悪いと思ったけど。どんな反応が返ってくるか見たかったんだから、仕方ない。その上、思い切り首を左右に振るなんて、可愛い仕種が見られたものだから、ちょっと自己満足。
「じゃ、怒ってないです。それより、飲みませんか?」
笑ってもう一度グラスを差し出せば、先輩は少しだけ躊躇った後に、グラスを手に取った。それを確認して、俺は笑う。
「乾杯」
かちん、と軽い音を鳴らして、グラスが合わさる。俺がワインに口をつけたのを見て、先輩も一口。まだどこか恐る恐るなその態度に、俺は内心で苦笑した。
ああ、もう本当に。先輩には申し訳ないけど、脅えてる仕種すら可愛いと思う俺は、ちょっと危ないのかもしれない。あ、あれかな。好きな子ほど虐めたいって心理。どれだけ子供だよ、俺。
内心の苦笑を誤魔化すように、グラスに入ってたワインを一気に飲み干す。喉をとおる熱い感覚に、思わず息をついた。
「・・・ワインの一気飲みする人、始めて見た」
そんな俺に、先輩の唖然とした一言。やっと先輩らしい言葉が出て来て、俺は笑った。
「たまにはいいかと思いまして。先輩もします?」
「いや、遠慮するよ。ワインはそんな風に飲むものじゃないし」
「所詮はアルコールですよ。飲み方にこだわってたら、美味しいものも不味くなります」
「いやいやいや、それは若者だから言えることだって。私の歳になると、その理屈は通用しないから」
「私の歳って・・・先輩、俺と2つしか変わらないじゃないですか」
「2つは大きいよ。私が成人した時なんて、まだ高校生だよ!? うっわ、落ち込む」
「え、そこ落ち込まないでくださいよ。それに、先輩、まだ20代でしょ?」
「アラサーの響きに泣きたくなるけどね」
ああ、俺、今、先輩と普通に話してる。1週間前には当たり前だった、でも、この1週間はなかった世間話。ちょ、俺、泣きそうなんですけど。大げさでもいいよ、もう、うん。
俺が普通に話してるから、かな。最初はぎこちなかった先輩も、言葉を重ねるごとにいつもの先輩に戻っていく。ああ、ほんと、今の俺、すっごい幸せだ。だからだろう。俺はつい、こんなことを口走ってた。
「相変わらず可愛い人ですねぇ」
目の前でチョコレートを頬張って、幸せそうな顔で笑ってる先輩を見てたら。本当にうっかり、思ったことを口に出してたみたいだ。
だからだろう。先輩はいつだかみたいに大きな目を丸く見開いて、2つ目のチョコレートを口に入れようとした姿勢のまま固まってしまった。
でも、言ったことは取り消せない。だから俺は開き直って、笑ったんだ。
「やっぱり俺、笑ってる先輩が好きです」
誰だってそうだと思うけど。好きな人の笑顔って、破壊的な魅力を持ってる。それも、1週間もお預けを食らった後だと、余計に可愛くて愛しくて堪らない。
ああ、そうだよな。そうなんだよ。俺、もしかしたら自分で思ってる以上に、この人にはまってるのかもしれない。本人にその気はないってわかってても、先輩が他の男に笑いかけるのが許せないほどに。恋人でもないのに、重いだろうな。っていっても、そこまでの想いは絶対に言わないから、気付いてないと思うけど。
現に、先輩は固まったまま。俺はワイングラスを机に置いて、そっと先輩に近づいた。
「おーい、先輩? 大丈夫ですかー?」
目の前で手を振ってみたら、やっと先輩の顔に表情が戻ってくる。一気に真っ赤に染まった頬に、俺は「お?」と思った。
先週の俺の告白は、冗談だと思って流された。もちろん、それじゃ引き下がれなくて、帰り間際に冗談じゃ流せないことをしたわけだけど。でも、すぐにドアを閉めてしまったから、先輩の反応は見れなかった。
だから。真っ赤に染まったこの人を見るのは、初めてだった。
「あああああああきくん?」
「先輩、どもり過ぎ」
ちょ、可愛いんですけど。可愛いんですけど。可愛いんですけど!! もう一回言っちゃう。
可愛いんですけど!!!
表面上はくすって笑っただけだけど、内心は堪ったもんじゃない。だってこの人、どもった上に、舌足らずな呼び方したよ、今。ああ、もう・・・!!
必死に保ってる俺の理性を壊すように、先輩は俺を見上げると、
「・・・あ、あのね、安芸君?」
上目遣い! お酒のせいか、うるんだ眼で。俺のせいで、紅潮した頬で!
「なんですか?」
頼むからもってくれよ、俺の理性。
にっこり笑顔の裏で、必死のせめぎ合いをしてた俺の理性と本能の戦い。僅かに本能が優勢だったはずが、続く先輩の言葉で一気に逆転されてしまった。
「・・・・・・・・・・・・・・・好き、って何?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・はい?」
・・・・・・・・・え、俺の聞き間違いかな。俺も年取ったしな。うん、きっと気のせいだ。
一気に冷静さを取り戻した俺の耳は、先輩が恥ずかしそうに繰り返した言葉をしっかりと聞き取った。
「だから、好きってどんな感じ? 私、いまだによくわからなくて・・・」
マ ジ っ す か。
え、先輩、さっき自分でアラサーとか言いましたよね。彼氏いなかったっていうのはこの前聞いたけど、まさか初恋もまだとか言うわけ? それ、ものすっごく手強くないっすか!?
先輩自身も、自分自身が珍しいタイプだって事はわかってるんだろう。だからこそ、ちょっと恥ずかしそうなんだろうな。恥ずかしがってる姿は可愛いけど・・・
・・・・・・って、うん? ちょっと待て、俺。これは、もしかして・・・
「・・・・・・ねぇ、先輩。俺のことは嫌い?」
もしかして、チャンス、だったりするのか?
淡い期待を抱いて逆に質問すれば、すぐに返答が返って来た。
「そんなわけないじゃでしょ。嫌いなら、家に来たりしない」
だよな。いくら酔ってるって言っても、男の一人暮らしの部屋に上がってるんだから、嫌われてないことだけは確かだ。
なら。
「じゃ、俺にこうされるのは嫌?」
先輩と俺の影が、一瞬だけ重なって。同時に、唇も重ね合わせる。触れるだけの、ガキみたいに簡単なキス。瞬きの間しか触れてなかったそれに、先輩は僅かに間を置いた後、
「・・・嫌、じゃない」
僅かに顔を背けられたけど、頬を赤く染めてるのは隠せてない。そんな状態で、こんな嬉しいことを言ってくれた。
え、可愛いんですけど、可愛いんですけど、可愛いんですけど、以下エンドレス。俺、今日この言葉しか言ってない気がするけど、本当に可愛いんだから仕方ない。
だから、かな。徐々に俺の理性が、薄れてきてる気がする。
「じゃ、これは?」
先輩の頬に手を添えて、俺のほうを向かせて。今度は触れるだけの可愛いもんじゃない。さっきとはまったく違うキスに、先輩が驚いてるのがわかる。慌てて待ったをかけようと開かれた唇から舌を滑り込ませ、夢中で先輩を追いかける。先輩がどれだけ逃げても、離れようとは思わなかった。
やがて、息苦しくなってきたんだろう。小さく背中を叩かれて、俺はやっと先輩から離れた。俺たちを離さないとでもいうかのように、白い線が名残惜しそうに二人を繋いでる。それを見ながら先輩を改めてみると、もう駄目だと思った。
酸欠と酒のせいで潤んだ目と紅潮した頬が、さっきと違って欲に滲んで見える。俺が欲情してるせいだとわかっているが、目に毒だ。
「・・・・・・これは流石に嫌?」
僅かに残ってる理性を総動員して、先ほどの質問を続けた。偉い、俺。ほんと偉い。頑張ってる。
でも、先輩の答えは。そんな俺の頑張りを、全部壊すほどの威力を持っていた。
「・・・嫌、じゃ、ない」
答えはさきほどと同じもの。僅かにぎこちなかったのは、酸欠のせいか、照れのせいなのか・・・まぁ、どっちでもかまわないけど。
ああ、先輩が驚いてるのがわかる。だって、俺、今絶対笑ってる。それも、幸せすぎて、だらしないくらい緩んだ笑顔。多分、先輩が始めてみるだろう種類の笑顔だ。
「ねぇ、先輩。それ、俺には『俺が好き』だって聞こえます」
だって、普通、なんとも思ってない男にこんなことされたら嫌がるだろ? 先輩は確かに逃げたけど、それが初めてのことで戸惑ってるだけだって事くらいわかってる。初々しくて、可愛いと思うことはあっても、嫌われたからだとは思えなかった。
その上、この言葉。ねぇ、これはもう、俺を好きだってことじゃないの?
俺の言葉に、先輩は目を丸くして、自分の胸に手をあてた。
「じゃあ、安芸君見てて、どきどきするのって・・・」
「俺は先輩見てると、いっつもどきどきしますよ。ほら」
空いてる先輩の手をとって、俺の胸に当ててみる。ああ、これ、俺も恥ずかしい。でも、彼女に自覚してもらうためだと思えば、どっちかっていうと嬉しかった。
服越しに、俺の鼓動が伝わってるのがわかる。先輩は静かに眼を閉じて、そのままの状態で次の言葉を紡いだ。
「・・・私、ね」
「はい」
「・・・安芸君が、他の女の子と喋ってるの、嫌い」
・・・え?
予想外の言葉に、俺は言葉が出てこなかった。先輩は続ける。
「会社で、仕事だってわかってる。事務の人とか、取引先の人とか、全部大切だもん。でも、他の女の子たちに笑いかけてる安芸君は嫌い」
「・・・・・・・・・」
・・・・・・・・・え。ねぇ、なんでそこまで思ってて無自覚? え、これまだ無自覚? ちょ、俺、なんかよくわからなくなってきた。
ぷくっと頬を膨らませてる先輩が、年上に見えなくなってきた。お酒か羞恥心のせいかわからないけど、舌足らずな喋り方になってるのも原因だろう。
ああ、もう、どうしてくれよう。いろんな意味で。
「・・・・・・あのね、先輩」
もはや、ぎりぎりまで細くなっている理性の糸を必死に張り詰めながら、俺はなんとか言葉を紡ぐ。
「俺だって、先輩に他の野郎共と話して欲しくないです。先輩は俺だけに笑いかけて、俺だけを見てればいいって、いつでも思ってる。この1週間は、ずっと斎藤に嫉妬してました」
「し、っと?」
「そう。先輩と一緒です」
今度の言葉は、思っていた以上に先輩に響いたみたいだ。もう一度言葉を繰り返した途端、自覚したのかな。一気に、耳まで真っ赤になった。
・・・・・・ああ、そうか。その手があったか。
「ね、先輩」
先輩がずっと俺の胸に触れていた手を取って、両手で握り締める。先輩はこれ以上ないってほど真っ赤な顔で、俺を見上げた。
「俺のこと、好きでしょ?」
もう、確定だと思ってるけど、自覚して欲しい。で、言葉に出すことで自覚してもらえるなら、ちょっと上から物言うくらい許されるだろう。
俺の口調は、先輩に否と言わせないもの。だからこそ、先輩は何度か言いあぐねてはいたけど、
「・・・・・・すき」
って、かすれそうな声で、言ってくれた。
「俺も。沙夜さんを愛してます」
手にした先輩の掌に口付けを贈って、笑顔を浮かべる。ただでさえ赤かった先輩が、首まで真っ赤になっていく様は、もう見事としか言い様がなかった。
くちをぱくぱくさせてる先輩と正反対に、俺はにっこり笑ってる。・・・・・・駄目だ、もう限界。
「ねぇ、沙夜さん?」
ちょっとだけ力を込めて腕を引けば、すぐに先輩の・・・否、沙夜さんの体は俺の胸の中。びくっと肩が揺れたけど、気にせず耳元で囁いた。
「沙夜さんが足りないんです。俺に貴女を、愛させて?」
すぐ傍にある耳は、林檎以上に真っ赤で。俺にまで熱が移るくらい、熱かった。
俺が言いたい意味は、伝わったんだろう。沙夜さんはしばし「う~・・・」って小さく唸ってたけど。
「・・・・・・私、愛するより愛されたいタイプなのかも」
なんて、いうものだから。俺はぎゅって沙夜さんを抱きしめる腕に、力を込めた。
「なら、俺たちの相性は完璧ですね」
俺、愛されるより愛したいタイプなんです、って返せば、沙夜さんが綺麗に笑うから。我慢できなくなって、俺はキスの雨を降らせた。




