12
天ヶ崎朔優という男は、【人を従える異能】にさえ目をつむれば、幸せな人間の1人。
彼の世界はいつも綺麗だった。
汚れたものが彼の目に入らないように、彼に触れないように、周りが彼のためにそうしてくれていた。
外の景色を鉄格子の隙間から見ることも、彼にとっては日常。それを憂うことさえなかった。
部屋の中から見る景色すら、彼は尊いものとして、美しいと愛でた。
部屋に飾られた一輪の花も、甲斐甲斐しく仕えてくれる者たちも、身の回りのすべてを「素晴らしい」と。
「あんた、幸せな頭してるね」
まだ敬語を使えなかった頃の莉都は、若様にそう告げたことがある。
それは皮肉のつもりで放った言葉だったのに、彼はそれを認め、そして褒め言葉だと受け取った。
彼は恵まれた環境にいた。
けれども不平不満を言おうと思えば、無数に挙げられるほど、不便な肩書きと異能を持っていた。
それでも彼が自分を「不幸だ」と「誰かと代わりたい」などと告げたことはない。彼はいつだって「自分が自分でよかった」とそう答えられる人。
そうでありながら、自分以外の誰かを、これでもかというほどに褒めることができる人だった。
「莉都はとてもカッコイイよ。物語の英雄みたいだ。桐臣から聞いてはじめてきみを見たとき、僕の心が震えたよ。その優美な強さに対する、驚きと敬意で」
あの頃の莉都を、そんなふうに評価する人などいなかった。
誰が見ても、過去の莉都は、今以上に野蛮で凶暴な、猛獣だった。
素直という言葉では不足を感じる。
彼の脳内に穢れた言葉が何1つ存在しないと言われても、納得してしまうほどに。
それほどに、彼の心には曇りがなかった。
だからこそ、莉都は天ヶ崎朔優のことが嫌いだった。
★★★
捕らえた12人の男たちと、若様を案内した油髪の男、そして依頼主である那須浜家の子息を警察につき渡し、パーティーが再開する。
とはいえ、このような事態で盛り上がれるはずもなく、自らが襲われることを恐れたお偉方は1人、また1人とパーティー会場から去っていく。
主催者の東雲という男は、このような事態を防げなかったことに対して、深々と若様に謝罪をしている。
たしかに不審者の侵入を簡単に許してしまったのは、主催者としてぬかっていたところがあるけれど、手を引いていた男が主催者と同格の人間であったのなら、致し方ない。
それでも槇はそのことに対してきつく言い含めようとしていたが、若様が気さくな笑顔でそれを止めていた。
「弓森ー、俺とシュウくんは警察のとこ行ってくるさかい」
槇は会場を取り締まるほうで手がいっぱいだ。如月と田崎は警察に状況説明をするため、この場を離れるらしい。
一応の報告を受け、莉都は興味なさげに動かせるほうの手をひらひらと振る。
彼女はテラスで夜空を眺めていた。
「莉都さん」
田崎の静かな声かけも、莉都は夜空を眺めたまま耳を傾ける。「なんですか」と愛想なく尋ねると、衣服が擦れる音が響いた。
「ありがとうございました」
彼から紡がれる感謝の言葉に少し驚いて、莉都は視線を動かす。莉都に向かって頭を下げている田崎を見て、莉都は目を細めた。
「別に……若様の命令だったんで。気にしないでくださいって」
「だとしても……感謝してます」
たとえ命令だったとしても、莉都が命を張ったのは事実。
若様とて、あの状況で莉都が田崎を置いてあの場から去ったとしても莉都を咎めはしなかっただろう。
莉都にとっては、若様と離れることが死に近い意味を持つのだから。
それでも莉都は田崎を助けた。そのことをちゃんと考えて、田崎は感謝してくれている。それが伝わって、莉都はほんの少し気恥ずかしい気持ちになった。
「ほな、行こか。シュウくん」
如月が田崎の肩に手をかける。
如月は莉都のことを見て、人懐っこい笑みを浮かべた。
「ケガしとっても、やっぱりお前は強いなぁ、弓森。これからも頼りにしてんで」
頼られるのなんて、ひどく面倒。
けれども莉都はそんな不満を口にせず、また夜空に視線を戻した。
如月と田崎の足音がどんどん遠く離れていく。
再び訪れる、静かな空気に包まれて、莉都は夜空を見上げていた。
何を探すでもなく、広がる黒に目を慣らすみたいに。
少し身動ぎすると、体が痛い。痛々しく吊り下げられた腕も頬の湿布もひどく情けない。
こんなヘマは二度とするものかと、莉都は自分の心に誓う。
一人きりの空間はとても心地いい。
煩わしく思うものが何もない。
(ああ……本当に)
空気が割けるような感覚で、莉都は他人の存在を知る。
「莉都」
若様の、声だ。
莉都は振り向かない。彼女がそのままでいると、勝手に若様が彼女の隣に立った。手すりに頬杖をついて、莉都の顔をまじまじと見つめてくる。
見られるのは好きじゃない。だからそれだけで、莉都は結構うんざりしてしまう。
「莉ー都。無視はよくないよ」
「無視してないですよ。聞いてます」
そんな屁理屈を言って、莉都は体を翻す。
手すりに背を預けて立つと、若様はクスリと笑った。
「ねえ、莉都」
「はい」
「僕はやっぱり、莉都のことが好きだな」
話の筋がまったく見えない。けれどその話を詳しく掘り起こすのも億劫で、莉都は返事をしなかった。
すると、若様は「何か言ってくれないと寂しい」などと、言ってくる。だから莉都にしては善処して、返事を考えてみるも、どうしても返す言葉は浮かばなかった。
「……そうですか」
返事というよりも相槌に近い返し。
しかし莉都がちゃんと考えたことは、若様に伝わっていたみたいで、若様はそんな返事すら嬉しそうに受け取ってくれた。
「ごめんね。……女の子なのに、顔に怪我をさせてしまって」
「どこに怪我したって一緒ですよ」
「一緒じゃないよ。とてもかわいい顔をしているんだから」
若様は莉都の腫れた頬に触れないよう気をつけながら、その輪郭を指でなぞる。若様の指がくすぐったくて、莉都は逃れるようにプイッとよそを向いた。
「どこが……そんなこと若様しか言わないですよ」
「じゃあ莉都にとって、これは僕だけの特別な言葉になるね」
莉都が卑屈なことを言おうとも、若様はそれを下手な言葉で否定したりしない。
こっちが思いつきもしないような前向きな言葉を簡単に口にしてしまう。
若様はたしかに綺麗なものにばかり囲まれていた。自分の世界は美しいもので溢れていると、若様自身がそう言っていた。
けれど若様の周りにも、少なからず汚れたものがある。
その1つが、莉都だった。
それなのに若様は、そんな莉都のことすら「美しいもの」と愛でるから。
若様は綺麗なものしか知らないのではない。
ただ、世の中にありふれたなんでもないことも、世の中にゴミ屑として捨てられたものにも、何らかの意味を見つけて、「綺麗」と紡ぐことができる。
そんなことを当然のようにやってしまう人だった。
「……次は絶対、こんなケガなんてしません」
莉都は小さな声で、呟くようにして答える。
すると、若様は嬉しそうに頷いて、莉都の腫れていない方の頬に冷たい紙パックを添えた。
「ご褒美、遅くなってごめんね」
ひんやり冷たい感触。
ずっと変わらないご褒美。
イチゴ牛乳は、若様が莉都に初めてくれたプレゼント。
「ありが……」
お礼の言葉を言おうとして、莉都の声は吸い取られる。
若様の唇が重なって、莉都は言葉を紡げない。
不意打ちだったけれど、驚きはしなかった。
若様との最初のキスは、契約のとき。
しかし今回のキスは2回目ではない。いちいち数えてはいないけれど、若様からの口づけは新鮮なものではなかった。
「目は、まだ瞑ってくれない?」
莉都の額に自らの額をコツリとぶつけ、若様は苦笑まじりに尋ねてくる。
莉都は目を瞑らない。別に意地を張っているとか、緊張しているとか、そういうわけでもなく、単純に瞑るタイミングが分からないだけ。でもそんなことを若様にいちいち説明するのも、やっぱり面倒で。
「……変態って罵らないだけ、マシと思ってください」
「うーん、僕としては莉都に喜んでほしいんだけど」
若様は困り顔だ。
正直、若様にキスされることを嬉しいとは思わない。だからと言って、すごく嫌だというわけでもなくて。
けれど他の人に同じことをされるのは、嫌だ。
その気持ちを「何」と判断するのは、まだ難しい。でも――。
「……幸せだなとは、思います」
莉都の言葉に、若様は目を丸くしていた。
自分でもびっくりしている。こんなこと、わざわざ言わなくてもいいのに。
まるで自分が別の誰かに変わったみたいに、言葉は勝手に出て行った。
「喧嘩が強いことしか取り柄のない私を、それでも価値があるって若様が思ってくれたこと……それだけはずっと感謝してます」
「……それだけ?」
「はい。他は本当に面倒な人だなって思ってますから」
そこで「全部」なんて薄ら寒い綺麗事は言わない。
だからこそ、その気持ちだけは偽らざる本当。
「私は若様の【ファミリア】になったことを誇りには思わないですけど、よかったって思ってます。……幸せだなって」
頬に触れるイチゴ牛乳を、若様から奪い取り、莉都はしみじみと呟く。
誰かが莉都を「不憫だ」と哀れんでも、「変わらない野蛮人」と罵ろうとも、莉都にとっては今が人生最大の幸せだった。
ことあるごとに頭を撫でられて、褒美をもらって。
心底嫌いだったすべてが、今はそれで安堵してしまうくらいに、好きだった。
「莉都……」
「若、こんなところに! 来てください! まだ事は収集しきれていないですよ!」
若様が再び莉都にキスをしようとした時、テラスに顔を出した槇がそう怒鳴った。
雰囲気をぶち壊そうが何だろうが、槇は気にもしていない。
「はぁ、もうっ。京介の仕事好きは困ったものだね」
「若様の自由っぷりも困ったものです。行きますよ。……若を遠くへは連れて行かないから、弓森はここで待っていろ」
怪我人である莉都を、気遣って槇はそんな声掛けをする。
しかし、槇が「行きますよ」と合図しても、若様は動こうとしない。
(こういうとこは……本当ガキなんだから)
莉都は若様の背をトンと押す。
槇へ引き渡すみたいに押し出した莉都を、若様は恨めしげな顔で振り返ってきた。
「……待ってますから、さっさと済ませてきてください。早く帰りたいです」
「ううっ、分かったよ。……行ってくる」
渋々と言った様子で、若様は槇とホールの中へ戻る。
その後ろ姿を見つめ、莉都は小さく独り言を口にした。
「行ってらっしゃい……朔優様」
言い表せないほど珍妙な顔をして振り向いた若様を見て、莉都はほんの少しだけ声に出して笑った。
更新が遅れてしまい、申し訳ありませんでした!
無事、これにて完結です。
読んでくださり、ありがとうございました。




