共に歩む未来(最終話)
一年後。
執務室で書類に目を通していた私は、ふとロイドに尋ねた。
「ロイド」
「はい、お嬢様」
「ナルシアン令息について、最近は特に報告がありませんね」
正確には、彼はすでに貴族院から除籍されており、ナルシアン令息ですらなかったのだけれど。
私の言葉に、ロイドは少し困ったような顔をしたあと、口を開いた。
「実は……いらしておりました」
「そうなのですか?」
私は特に驚くこともなく、そう聞き返した。
「はい。半年前までは、何度かお越しになっておりました。お嬢様のお邪魔になるかと思い、こちらで対応しておりましたが」
私は目を伏せ、静かに尋ねた。
「何と言っていましたか?」
「身を寄せる先もなく、行く場所もないのだと。だからどうか過ちを許し、もう一度婚約を結べないか、お嬢様に伝えてほしいと申しておりました」
まだ諦められずにいるエドガーの態度は、ある意味では彼らしかった。
婚約を解消されたあと、エドガーが私にすがり続けたのは、愛情でも未練でもなく、自分が生きていくためだったのだろう。
「最近は?」
「最近は、いらしておりません」
「そうですか」
私は短く答え、再び書類へ視線を落とした。
私を諦めたあと、エドガーがどうなったのか。
少しだけ気にはなった。
けれど、それ以上考える価値はないと思い、すぐに意識の外へ追いやった。
「そういえば、三日後の港湾視察の準備は整っていますか?」
「はい。問題なく整っております」
今回の現地視察には、カイスも同行することになっていた。
彼とともに過ごす予定が、楽しみだった。
◇
一方そのころ、エドガーはやつれた顔で酒場に座り、酒を飲んでいた。
目は落ちくぼみ、頬もこけていた。
いつもきちんと整えていた髪は乱れ、顎には無精ひげが伸びている。
エドガーは以前なら見向きもしなかった安い葡萄酒をグラスに注ぎ、つまみもなしに一気にあおった。
空になった瓶を見つめていた彼は、女将を呼んだ。
「もう一本、頼むよ」
女将は酒を持ってくることもせず、彼を上から下まで眺めた。
「金はあるのかい?」
「……あとで、女が持ってくる」
女将はため息をつき、やる気のない手つきで葡萄酒の瓶を一本、彼の前にどんと置いた。
安酒に視線を落としたまま、エドガーはぼんやりと考えた。
どうして、僕はこんなことになったのだろう。
考えても答えは出ず、彼は口元だけをひくつかせながら、またグラスに酒を注いだ。
そのときだった。
「何よ。また酒を飲んでいるの?」
鋭い女の声が、エドガーの耳に突き刺さった。
「サラ……」
大股で近づいてきたサラが、エドガーをにらみつけた。
クラディエ公爵家を解雇されたあと、推薦状がないためほかの貴族家にも雇われなかった彼女は、宿屋で下働きをしながら暮らしていた。
その間、顔をしかめることが増えたせいか、眉間には皺が刻まれ、手も荒れていた。
「また酒を飲んでるの? もう飲むなって言ったでしょう」
「サラ、君のような可愛い子に、そんな乱暴な言葉は似合わないよ」
「黙って。あんたのその甘い言葉に騙された私が馬鹿だったわ」
サラは深いため息をついた。
「顔だけはよかったからって、『ずっと好きだった』なんて言葉に引っかかるなんて、私もどうかしていたわ」
「サラ……」
「それで、仕事はいつするの? 私はいつまであんたを食べさせればいいの?」
「いくらなんでも、僕は伯爵家の令息として生まれた身だ。下働きなどできるはずがない」
「は?」
サラは鼻で笑った。
「あんたはもう平民でしょう。いい加減、目を覚ましなさいよ。下働きでも何でもしてきなさい」
「……僕が持ってきた宝石があるだろう」
「まだ宝石の話をしているの? そんなもの、とっくに使い切ったわよ。下働きすらできない、何もできないあんたなんて、ただの穀潰しじゃない」
「穀潰しだなんて。サラ、それはひどすぎるよ」
エドガーの向かいの席にどさりと腰を下ろしたサラは、心底うんざりしたような目で彼を見た。
「無能なくせに、人を道連れにして落ちていく力だけはあるのよね、あんた」
「道連れにして落ちていくなんて、僕が何を……」
「ジェーンのことについて、何も感じることはないの?」
「……」
「二十年の労役刑を言い渡されたそうよ」
「……彼女のことは、気の毒なことになったと思っているよ」
「それだけ?」
サラは力なく笑った。
「じゃあ、私は? 私のことについては、何も感じないの?」
エドガーをにらみつけるサラの目から、悔しげな涙がこぼれ落ちた。
エドガーはそんな彼女をぼんやりと見つめ、何度か瞬きをした。
「僕が……何を……したっていうんだ」
どうして。
ずっと善良な人間として生きてきたのに。
どうして皆、僕を恨むのだろう。
やはり、世の中は公平ではない。
この世界のほうが間違っている。
エドガーはそう思いながら、グラスに残っていた葡萄酒をすべて飲み干した。
安い葡萄酒の渋みが口の中に広がり、喉の奥へ重く落ちていった。
僕は、こんな不公平な世界で、死ぬまで被害者として生きていくのだろう。
本当に……悔しい……。
酔いでぼやけた頭の中に、サラの恨みに満ちた声が響いた。
「あんたは虫けらみたいな男よ、エドガー」
「……」
「それをこの世界でたった一人、あんただけが最後まで分からないんでしょうね」
◇
馬車の扉が開き、先に降りたカイスが私の手を取ってくれた。
その手を借りて馬車を降りると、塩気を含んだ風が頬をかすめた。
かつては静かで古びていた港が、新しい姿へと変わっていくところだった。
人夫たちは活気に満ちて動き回り、槌の音と鋸の音が絶えなかった。
倉庫のいくつかは、すでに完成していた。
新しく建てられた倉庫の屋根は、陽の光を受けてまっすぐに輝き、倉庫の前には各地から運ばれてきた物資が整然と積み上げられていた。
新しい木材と石材で頑丈に補強された広い埠頭の前には、商船が並んで停泊しているのも見えた。
「クラディエ公爵令嬢、ならびにアデル公爵令息。本日は遠路お越しいただき、誠にありがとうございます」
港の管理官が、私たちの前で頭を下げた。
「出迎えに感謝します。これまでよく努めてくれました」
そう答えた私は、続けて尋ねた。
「報告では聞いていましたが、倉庫の稼働率はかなりよいようですね」
「はい。特に穀物の輸送量が大きく伸びております」
「商会の反応は?」
「通行税と保管料の負担が減ったことを、何より喜んでおります」
私の問いに、管理官は明るい表情で答えた。
「ナルシアン領を経由していた物資は、どれほどこちらへ移りましたか?」
「すでに、王都へ向かう物資の二割以上がこちらの港を経由するようになっております」
私は満足してうなずいた。
ナルシアン領を通っていた物資の流れを、少しずつクラディエ領へ移していく。
その本来の目的は、着実に達成されつつあった。
こちらの通行税は、ナルシアン領よりもずっと低く抑えてある。
これから、クラディエ領を通る物資はさらに増えていくだろう。
ナルシアン家が失ったものは、物流上の利益だけではなかった。
エドガーの一件以降、ナルシアン家は名誉を取り戻すために寄付先をさらに増やしていたが、貴族たちの印象はよくならなかった。
むしろエドガーの件をきっかけに、いつしか貴族たちの間で、ナルシアン家は偽善の代名詞のように扱われるようになっていた。
これから先、ナルシアン家が社交界の正式な場に招かれることは減り、たとえ顔を出したとしても、以前のように迎えられることはないだろう。
「ルア、これまで本当によく頑張りましたね」
優しい労いの言葉に、私はカイスを見上げた。
彼は海風から私を守るように外套を脱ぎ、私の肩に掛けてくれた。
「カイス様のおかげで、ここまで来ることができました」
「私は、ルアのそばにいただけです」
カイスは微笑みながら、風に揺れる私の髪を手櫛でそっと整えた。
その手つきは、あまりにも優しかった。
「私たちが共に築いていく未来が、楽しみですね」
彼の言葉に、私は静かに答えた。
「それはきっと、輝かしいものになるでしょう」
目の前に広がる、あの海のように。
まぶしいほどに輝く未来が、この先に待っているはずだった。
どんな妨げがあっても。
どんな困難が待っていても。
私はきっと、これからも前へ進んでいける。
そしてその道を、カイスと共に歩いていきたい。
そう思った。
これにて完結です。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
また別の作品でお会いできましたら嬉しいです。




