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いい人、エドガー・ナルシアン


私の婚約者は、本当にいい人だ。

だから社交界での評判もいい。


「エドガー様って、本当にお優しい方よね」

「あんなに親切な方、そうはいらっしゃらないわ」


いつも正しく、誰にでも親切で、まさに善人の鑑。

誰もがきっと、彼の婚約者である私のことを、この上なく幸せな令嬢だと思っているのだろう。


けれど、それは違った。


彼――エドガー・ナルシアンは、いつだって私の神経を逆撫でする。



「ルア! 会いたかったよ、僕の可愛い婚約者」


エドガーの弾むような声が、応接室に響いた。


「エドガー様、今日はどうなさったのですか?」


癖のある金髪に、翠色の瞳。

それなりに整った顔立ちのエドガーは、にこやかに笑って、私の前に小箱を差し出した。


「ルアの顔が浮かんでね、つい買ってしまったんだ。ルア、オルシアン商会のチョコレートクッキーが好きだっただろう?」


初耳だった……。

そもそも、チョコレートクッキーが特別好きなわけでもない。

今日も彼は、私のことをずいぶん都合よく覚えているらしい。


「……お気遣い、ありがとうございます」


私は小箱を受け取り、そつのない笑みを返した。


エドガーの訪問は、どう考えても多すぎた。

私はクラディエ公爵家の後継者として、やるべきことが山ほどあった。

昨年からは後継者教育に加えて、実務も任されていた。


つい先ほどまで執務室で書類仕事をしていたところを、エドガーが来たからと呼び出されたばかりだった。

エドガーが訪ねてくるたびに仕事の手を止めていては、務まるものも務まらない。


応接室のソファに座り、十分ほど中身のない会話に付き合ったところで、私は口を開いた。


「エドガー様、申し訳ありませんが、仕事の途中でしたので、今日はあまり長くお相手できそうにありません」


エドガーは残念そうに、皿の上のクッキーを一枚つまみ、こちらへ差し出した。


「仕事くらい、少し休んでもいいじゃないか。僕より仕事のほうが大事なの?」


私はためらいながらもクッキーを受け取り、ひと口かじった。

飲み込んでから答えた。


「今日中に済ませなければならない仕事ですので」

「どんな仕事?」

「財務局へ提出する書類を作成しておりました」

「何の書類?」


私は言葉に詰まった。

エドガーはまだ公爵家の一員ではない。詳しい仕事の内容まで話すわけにはいかなかった。


するとエドガーは視線を床に落とし、傷ついたような顔で、これ見よがしにため息をついた。


「また、そうやって僕を遠ざけるんだね」

「エドガー様」

「いつもそうだ。僕と過ごす時間は退屈で仕方ないとでもいうように、すぐ席を立ってしまうのに、詳しい話は聞かせてくれない」

「申し訳ありません。ですが、公爵家の仕事ですので……」

「……そうだよね。まだ婚約者にすぎない僕には、話せないことなんだよね」


エドガーは力なくかぶりを振り、眉尻を下げた。


「ごめん。僕が悪かったよ。忙しい君に、僕が余計なことを言ったんだ。早く戻るといい。忙しいんだろう?」

「いいえ。むしろ私のほうこそ申し訳ありません。時間を作ります。ですから、どうか機嫌を直してください」


そうして彼をなだめていると、侍女のジェーンが私のもとへ近づいてきた。


「お嬢様」


エドガーはジェーンににこりと笑いかけ、親しげに手を振った。

ジェーンも嬉しそうに笑い、彼に挨拶を返した。


「どうしました、ジェーン」

「お嬢様のお誕生日の夜会の招待客名簿ができあがりました」


ジェーンが持ってきた名簿に目を通し、私は眉をひそめた。


「ジェーン、この名簿はどういうことですか?」

「え? 何か問題でもございましたか?」

「この名簿には、アデル公爵夫人のお名前が見当たりません」


そこで初めてジェーンは自分のミスに気づいたらしく、さっと顔色を変えて頭を下げた。


「夜会の招待客名簿は重要なものです。不備がないようにと、念を押しましたよね?」

「申し訳ございません、お嬢様」

「もう少し慎重に確認なさい。前にも同じ不手際が……」


そのとき、エドガーが横から口を挟んできた。


「ジェーン、大丈夫だよ。些細なことじゃないか」


私は割って入ってきたエドガーを見て、眉をひそめた。


些細なこと?


「招待客名簿からアデル公爵夫人のお名前が抜けていました。それが些細なことですか?」

「一人くらい抜けていたっていいじゃないか」

「あの方は亡き母の親友です。しかも、社交界で最も影響力のある方ですよ。もし招待状をお送りしないままになっていたら、私は社交界に顔向けできなくなるところでした」

「ルア、君は評判を気にしすぎだよ」


エドガーは私の前に立ちはだかると、ジェーンに優しげな笑みを向けた。


「ジェーン、このことは気にしなくていい。ルアは少し厳しいところがあるだろう?」

「……」


いつの間にか私は、些細なミスをした侍女に必要以上に厳しく当たる令嬢に仕立て上げられていた。


「抜けている名前があるなら、あとから足せばいい。大したことじゃないよ。誰にだって失敗はある。大丈夫、大丈夫」


出た。

いい人、エドガー・ナルシアンの「大丈夫、大丈夫」。


彼はいつも「大丈夫、大丈夫」と言って、責任をうやむやにしてしまう。

それが他人の責任でも、自分の責任でも。


「ナルシアン様……」

「ルアは下の者を追い詰めてしまうところがあるけれど、根は悪い子じゃないんだ。だから誤解しないであげて」


そう言って、彼は頼んでもいない私の弁護まで勝手にしてくれた。


ジェーンは胸の前で両手を組み、涙をためた瞳でエドガーを見上げた。

その目は、やはりエドガー様なら味方してくださると思っていました、とでも言いたげだった。

つまり、エドガーがこうして口を挟んだのは、これが初めてではないということだ。


呆れて見ていると、エドガーは眉尻をこれでもかと下げ、慈悲深げな表情で私を見た。


「ルア、公爵家で大切に育てられた君には分からないかもしれないけれど、僕は幼い頃から使用人たちとも親しくしてきた。だから、彼らの気持ちはよく分かるんだ」

「……そうですか」

「立場の弱い者には、優しくしてあげるべきだよ」

「……はい?」


立場が弱いことと、不手際を指摘することに、いったい何の関係があるのだろう。


「ジェーン、ずいぶん傷ついたようだし、今日の仕事は休んでいい。もう下がって休みなさい」

「ありがとうございます」


ジェーンは感激した顔でエドガーに一礼し、下がっていった。


私は呆れ果てて、エドガーを見つめた。


ジェーンには今日やってもらう仕事がいくつもあるのに、午前中から休ませるだなんて……。

しかも、うちの使用人なのに?


連載版を始めました。

お読みいただきありがとうございます。

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