第七十八話「戦場へ」
九月一日の正午頃。
カエルム帝国の西の要衝ラークヒルでは帝国軍三万とルークス聖王国軍二十万が対峙していた。
遡ること六時間。
帝国軍に聖王国軍襲来の報が届いたのは午前六時頃。夜を徹して馬を駆けさせた偵察隊が届けたものだった。
聖王国は千人以上という過去に例がない数の獣人奴隷を投入し、徹底的な斥候狩りを行った。この作戦は戦場に到着する直前まで完璧に成功し、ラークヒルの僅か十五km西にある丘陵地帯で野営するまで、二十万という大軍の存在を隠し通し続けた。
九月一日の未明。聖王国軍の野営地の明かりを見つけた帝国軍偵察隊十名は、その情報を伝えるべく、暗闇の中、全力で馬を走らせた。
襲い掛かる獣人奴隷たちに次々と仲間が倒され、暗闇で道に迷いながらも逃走を続ける。
夜が明ける直前の午前五時頃、街の周囲を警戒していたラークヒル連隊の哨戒部隊と奇跡的に合流することができた。
その時、生還できたのは僅か二名。その二人もあと数分遅かったならば、命を落としていただろう。
彼らの百mほど後方には数名の獣人奴隷が追ってきており、手が届く一歩手前だったのだ。
偵察隊員は疲れ切っていたが、哨戒部隊で馬を借りると、休むことなくラークヒルに向かった。
そして、午前六時、聖王国軍の情報を総司令官であるレオポルド皇子に直接伝えることに成功した。
「ルークス聖王国軍は十五キメル西で野営中でございました! 平原を埋め尽くすほどの大軍です!」
「ご苦労だった。よくぞ情報を持ち帰ってくれた。諸君らはゆっくり休んでくれ」
情報を受けたレオポルド皇子は偵察隊員の手を取って労いの言葉を掛けると、副司令官であるアドルフ・レドナップ伯爵に話しかける。
「遂に現れたぞ、アドルフ。幸い人馬族もまだ姿を現しておらん。奴らが来る前に決戦に持ち込み、一気に片を付ける。貴公の働きに期待しているぞ」
そう言ってレドナップ伯の肩をポンと叩くと、副官に「全軍出撃準備!」と命じた。
帝国軍は朝食も摂らず、慌しく準備を整えていく。
一時間ほどで準備を整えると、皇子は全軍の前に立ち、兵士たちを鼓舞する。
「神の名を騙るルークスの愚か者どもがやってくる。未だに敵の総数は分からぬが、二十万は下らぬだろう……」
二十万と聞き、皇子の声が聞こえていた兵士たちに動揺が走る。そして、その動揺が後ろの兵にも伝わっていった。
兵士たちの間でも噂としては流れていたが、いつも通り大袈裟に言っているものだと高を括っていた。しかし、総司令官の口から出たことで、噂が事実であると認識し、恐怖を感じたのだ。
「恐れることは何もない! 敵はいつも通りの貧相な農民兵に過ぎぬ! 数が多かろうと、我ら帝国の精兵の敵ではない!」
「そうだ!」という声が上がる。
「歩兵は守りを固め、敵の突撃を受け止めよ! 騎兵は動きを止めた雑兵に止めを刺せ! ラークヒルの草原を敵の屍で埋め尽くそうぞ!」
その言葉に兵士たちから「「オオ!!」」という歓声が上がり、全軍に広がっていく。
皇子はそこで太鼓を鳴らすように命じると、見事な宝剣を引き抜き、高く掲げる。
そして、「全軍出撃!」と命じながら、その剣を振り下ろした。
午前十時頃、帝国軍は戦場となる草原に陣を張り始めた。
敵の騎兵の突撃を受け止めるための馬防柵を設置していく。事前に資材の手配などの準備が終わっていたことから、設置にはさして時間は掛からなかった。
午前十一時頃、西から聖王国軍が姿を見せ始めた。
聖王国軍はラークヒルからニキメルほどの位置で止まり、横陣を作っていく。その幅は三キメルにも達し、草原を埋め尽くさんばかりになる。
その光景に帝国軍兵士も息を飲む。
これほどの大軍を見たものはおらず、歴戦のレオポルド皇子やレドナップ伯ですら、表情が硬くなる。
しかし、横陣を作っていくものの、自分たちの配置が分からないのか、右往左往している部隊もおり、遠目に見ても指揮系統が機能していないことは明らかだった。
「よく見よ! 多いだけでまともに陣形すら組めぬぞ!」
「敵は一度に掛かってこれるわけではない! 目の前の敵を倒すことだけを考えよ!」
指揮官たちの声と敵の動きの鈍さに、兵士たちの動揺は収まっていった。
正午頃、聖王国軍の陣形がようやく固まった。
帝国軍、聖王国軍の双方に今から戦いが始まるという緊迫した空気が流れていた。
■■■
午前十一時頃。
レイたち草原の民の軍はラークヒルの東十キメルの位置にいた。
続々と斥候たちが報告を持ち帰っており、レイは馬を止めることなく、馬上で聞いていく。
最新情報は一時間ほど前に帝国軍がラークヒルの街を背に布陣し始めたというものだった。
更に馬を進めていき、三十分ほど経った頃、聖王国軍がそのニキメル西に横陣を展開し始めたという報告が入る。
その時、レイたちはラークヒルまで五キメルほどの位置にあった。
このペースで進めば、最低三十分は掛かる。レイはタイミングを誤ったかと心の中で後悔していた。
(帝国軍と揉めないように遠くで待機したのが仇になった。急がないと戦争が始まってしまう……)
レイは愛馬の状態を確認しながら速歩から駈歩にしようか迷っている。しかし、ここで馬が疲労することは戦場での行動に支障をきたす。
そんなことを考えていると、ハミッシュが近づいてきた。
「焦ることはない。まだ充分に間に合う。それよりもお前の焦りが皆に伝染することを気にしておけ」
「僕の焦りが伝染ですか?」
「そうだ。指揮官の感情という奴は兵たちに伝わるものなのだ。恐れを感じていれば同じように恐れるし、焦っているなら部下も焦り始める。どんと構える余裕を持て。例え心の中で焦っていてもな」
指揮官の心得を伝授されるが、レイは自分にできるとは思えなかった。
「難しいですね。どうしても顔に出てしまいます」
「ならばアッシュかステラと話しながら馬を走らせろ。二人となら普通に話せるだろう。その姿を皆に見せるのだ」
レイの返事を待たずにアシュレイとステラを呼ぶ。
「レイがいっぱいいっぱいだ。雑談でもしてやれ」
それだけ言うと離れていった。
残されたレイたちは馬を走らせながら顔を見合わせる。
「この状況で雑談と言われても……父上は何を考えておるのだ?」
アシュレイの問いにステラが答える。
「平常心が大事だとおっしゃりたいのだと思います。私も里でそう教えられました」
「平常心か……何十万人もの人が戦いを始めようって場所に行こうとしているのに平常心は無理だよ。特に僕が率いているんだから」
レイの言葉にアシュレイは理解を示した。
「そうだな。私もこれだけの大軍と共にあるだけで気分が高揚している。まして率いているお前が平静でいられるはずはない」
「この後、どうやって間に入るのでしょうか?」とステラが突然話題を変えた。
レイは間に合うかどうかが気になっており、そのことを完全に失念していた。
「そうだね。それを考えておかないと……」
馬を走らせながら、伝令が持ち帰った情報を頭の中で整理していく。
(帝国軍はラークヒルを背に西に向いて布陣している。聖王国軍は帝国軍と二キメル離れた場所で攻めかかろうとしている……今の位置だと北でも南でもどちらからでも戦場に入れる……地図にはラークヒルの北に小さな丘があった。多分、その丘に帝国軍の騎兵がいるから、間違って戦いにならないように南から回り込んだ方がいい……)
考えを整理すると、リーヴァを呼び、
「ラークヒルの南から戦場に突入します。先頭は私とソレル族。両軍から見える位置に入ったら、停止の合図をしますから見落とさないよう、各氏族に伝令を出してください」
「御意。王の合図と共に全軍が停止するよう徹底させます」
それだけ言うと部下たちに指示を出しにいく。
その間も走り続けており、マーカット傭兵団のアルベリック・オージェはその非常識さに笑いを堪えるのに必死だった。
「凄いよね。この速度で伝令が使えるんだよ。ラクスの護泉騎士団だったら、この半分の速度でも伝令なんて出せないのに」
ハミッシュにそう話しかけると、同じように呆れていた。
「俺も頭がおかしくなりそうだ。こんな非常識な戦いは初めてだ」
そう言う彼も時速十キメルほどの速度で走りながら、各隊に指示を出していた。
「一番隊は俺と共にレイの直掩だ! 二番隊は右! 三番隊は左! 五番隊は後方を守れ! エリアス! お前の四番隊に前衛を任せる!」
四番隊隊長のエリアス・ニファーは先陣ということで喜びを隠し切れない。
「了解! 任せてください! 人馬族の奴らに俺たちの力を見せつけてやります!」
その言葉にハミッシュが慌てる。
「闇雲に突っ込むんじゃねぇぞ! レイは戦を止めに入るんだ! それを忘れるな!」
「分かってますよ!」とエリアスは騎兵槍を掲げて陽気に答える。
「分かってると思う?」とアルベリックが呆れているが、「いざとなったら僕が止めに入るよ」と笑っていた。
レッドアームズの傭兵たちがレイの周囲を固めた頃、ラークヒルの城壁の尖塔が見えてきた。
「あと少しです! 僕の合図に注意してください!」とレイが叫ぶ。
更に五分ほど経ったところで、ラークヒルの城壁が完全に姿を現した。
そして、その西側に槍を立てて整列する帝国軍歩兵と何本もの軍旗がたなびく騎馬隊の姿があった。
ルークス聖王国軍の姿が見えてくると、レイは思わず「間に合った……」と安堵の言葉を口にする。
聖王国軍はまだ動いておらず、両軍の間には充分な距離があったのだ。
「どこまで進むんだ!」とハミッシュが叱咤するように聞く。
「両軍の間まで進みます!」
レイはそう叫ぶと、四番隊の真後ろまで馬を進め、
「僕が先頭に立ちます!」とエリアスにいい、愛馬トラベラーを更に加速させた。
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ルークス聖王国軍では突然現れた大量の騎兵にパニックに陥る寸前だった。
総司令官である聖王アウグスティーノは周囲を固める聖騎士たちに「どういうことか!」と語気を強めて状況説明を求めた。
しかし、聖騎士たちも何が起きているか分からず、右往左往することしかできない。
そんな中、一人の中隊長だけは冷静さを保っていた。
彼の名はランジェス・フォルトゥナート。
レイと共にペリクリトル攻防戦を戦った聖騎士で、聖王国に帰還後、魔族との戦いの功績をもって小隊長から昇進していた。
今回は戦闘経験を買われ、聖王の直属部隊の指揮官として司令部に詰めている。
(人馬族のようだな。これでこちらの負けは確定した。いや、最初から勝ち目などなかったか。さて、どうやって陛下をお守りするかを考えないとな……)
通常の聖騎士とは違い、彼は聖騎士の家の生まれではなく、世俗騎士からの叩き上げだった。そのため、帝国軍の強さを身をもって知っており、農民兵主体の聖王国軍ではどれほど戦力を投入しても勝利は得られないと確信していた。
そんなところに帝国の騎兵以上の強さを持つ人馬族が現れた。彼はすぐにでも撤退すべきであると進言するため、聖王の下に向かおうと戦場に背を向ける。
「あれは誰だ!」という声に思わず人馬族の方に視線を戻した。
まだ一キメル近く離れており、豆粒ほどにしか見えないが、明らかに人馬族とは異なるシルエットの集団を見つけた。
帝国の騎士ではないのかと一瞬思ったが、近づくにつれ装備がまちまちであることに気づく。
彼を含め、聖王国軍の司令部は突然現れた集団に釘付けで、一切命令を発していなかった。
聖王国軍が混乱しているうちに、戦場の真ん中に平たく広がる大きな炎が見え、その直後にドーンという轟音が響いた。
(あれはアークライト様の魔法では……いや、そんなはずはない。あの方は魔族を追って東に向かい、追撃戦の後にラクスに戻られたはずだ……)
フォルトゥナートはペリクリトル攻防戦で何度か見た花火の魔法を思い出した。
しかし、レイが魔族追撃隊と共にカウム王国のトーア砦に向かったことも知っており、その追撃隊が解散したという噂も聞いていた。
花火の魔法と共に人馬族戦士たちは進軍を止めた。人馬族だけではなく、遊牧民らしい軽装の戦士たちがいることに気づく。
そして、その中から数十騎の集団が聖王国軍側に向かって進んできた。
先頭には銀色の馬に跨り、純白の装備に身を包んだ騎士がいた。その姿にフォルトゥナートは思わず、「アークライト様」と呟く。
「知り合いか?」と同僚の中隊長が声を掛けるが、彼には聞こえていなかった。
(なぜここに? 聖職者が言うように“光の神の現し身”として、我らのために降臨されたのか? そんなはずはない。あの方はあれほどの戦術家でありながら、戦いを心から嫌っておられた。どのようなお考えであの場におられるのだろうか……)
フォルトゥナートは疑問を胸にレイの姿を見るべく陣の最前列に向かって歩き始めた。




