第四話「トーアへ」
四月一日。
レリチェ村を出発する朝、レイはアシュレイと共に目覚めると、互いに顔を見合わせる。
「今日が何の日か、言わずとも分かるな」とアシュレイが彼の胸にしなだれかかる。
「もちろん。僕が君に初めて出会った日だよ。あれからずっと一緒なんだ。それにしてももう一年になるんだね」
そう言って彼女を抱き締める。
「私にとってはまだ一年という感じだ。お前と出会ってからあまりに濃い日が続いているからな」
そう言って笑うが、上目遣いで彼を見る。
「こ、これからも一緒だ。何があっても……」
レイはそれには答えず、彼女に口付けをした。
朝食後、装備を整えるとすぐに出発する。
村の出口には彼らを見送る鬼人族戦士たちが並んでいた。敬愛する月の御子が旅立つということで、涙を浮かべている者が多い。
「我ら一同、御子様の無事を祈っております」
タルヴォ・クロンヴァールが代表して挨拶し、全員が一斉に頭を下げる。
「何ヶ月、いえ、何年掛かるか分かりませんが、必ず帰ってきます……では、行ってまいります」
ルナが頭を下げると、多くの鬼人族戦士が嗚咽を漏らし、膝を突いて号泣する者が続出する。
出発前、レイは彼に斬り掛かってきたネストリ・クロンヴァールの様子を見にいった。ネストリは大人しく自室で謹慎しており、扉の隙間から見た彼の姿は神に祈るような仕草に見えた。その姿は聖人と言っていいほど落ち着いており、僅か二日前に暴れた人物とは思えないほどだ。
危惧を抱くもう一人の人物、エイナル・スラングスについても様子を聞いているが、エイナルもそれまでの行動からは信じられないほど清廉になっていた。
彼は自らが行った違法な眷族の召喚について告白し、その証拠をすべてタルヴォらに差し出している。
タルヴォはその告白を聞き、謹慎を申しつけたが、エイナルは抵抗することなく大人しく従っていた。
レイはこれで魔族側に問題はないと安堵する。
(一時はどうなるかと思ったけど、ネストリもエイナルも反省しているみたいだ。これも闇の精霊の力なんだろうな。これで何とか西に戻れる……でもまだ、危険なアクィラを越えないといけないから油断しちゃいけない……)
村を出るとすぐに獣道に入っていく。この道は西方派遣軍が作ったもので、雪に覆われているものの、新雪のような柔らかさはなく、以前より歩き易い。
レイはウノたちに周囲の警戒を任せ、ルナとイオネにペースを合わせて山道を登っていった。
■■■
レイたちが出発した後、タルヴォは族長ら主要な者を集め、今後の協議に入った。彼は昨夜、レイからレリチェの兵が暴走しないようにしっかりとした管理者を置くよう依頼されていた。
二十人ほどが車座になって座っている中、タルヴォが話し始めた。
「御子様のお言葉にもあったが、今後西方への侵攻は行わぬ。ここレリチェは侵攻のための拠点ではなく、防衛のための拠点となるのだ……」
その言葉に全員が頷いている。
「それだけではない。ここは西側との窓口ともなる重要な土地になる。ついては、この村の責任者を族長もしくは次期族長に任せようと考えるが、いかがか」
それに対し、小鬼族のソルム・ソメルヨキが即座に賛同の意見を述べる。
「ソメルヨキ家はその提案に全面的に賛同する。付け加えるなら、生粋の武人ではなく、政治にも精通した人物を選ぶべきだ。万が一、西側の国々から使者が訪れた場合、ザレシェやルーベルナは遠すぎる。ある程度の権限を与えておくことも考慮すべきだろう」
中鬼族のエルノ・バインドラーも大きく頷き、「それが御子様の御心に叶う」と賛意を表す。
「我がブドスコ家も異論はありませんが、付け加えたいことがあります」とヨンニ・ブドスコが発言する。
「どのようなことか」とタルヴォが先を促すと、ヨンニは静かに立ち上がり、全員を見回しながら説明していく。
「タルヴォ様、ソルム様のご提案どおりで問題ありませんが、御子様のお考えはすべての種族の融和であったはずです。人族、獣人族はこの村に多くおりますので、あとはここにほとんどいない妖魔族にも運営に関わってもらうよう依頼してはいかがでしょうか。できれば、翼魔も多めに派遣してもらい、偵察を頻繁に行った方が、御子様がお戻りになられた時にすぐに対応できるかと」
「なるほど。確かにそうだ。この件に関してはザレシェに戻ってからイーリス殿に提案しよう」
タルヴォが大きく頷き、他に意見がないか確認するが、それ以上意見は出なかった。
「では、この方針で行くとして、誰をこの村の責任者にするかだが、まず、儂の意見を言わせてもらう」
そこで全員を見回すが、誰も異論はないようで皆小さく頷いている。
「儂としてはソルムかヨンニ殿がよいと思う。エルノ殿でもよいのだが、エルノ殿は生粋の武人だからな」
タルヴォの意見に対し、ソルムが即座に「俺がやった方がよいだろう」と言って立ち上がる。そして、理由を説明していく。
「ヨンニ殿はハンヌ殿から族長の引継ぎを受けねばならん。ブドスコ家ほどの大きな氏族を取りまとめるにはヨンニ殿でも時間が掛かろう」
「うむ。ソルムに任せるが、それでよいな」とタルヴォが重々しく言うと、全員が大きく頷き、賛意を示した。
会議は二時間ほどで終了した。
ソルムは会議場から退出すると、その足でエイナルの屋敷に向かった。しかし、エイナルは自室にいなかった。
本来、現在の責任者であるエイナルは会議に参加していなくてはならないのだが、スラングス家の当主イストが出席していることと、急な体調不良を訴えたとのことで、会議を欠席していたのだ。
「エイナルがおらんが、どこにいるか知らんか」と屋敷を警護する兵士に確認すると、その兵士は意外そうな表情を浮かべ、「ご存じないのですか? 族長方の指示と聞いていましたが」と要領を得ない答えが返ってきた。
「どういうことだ?」とソルムが問うと、
「御子様を密かにお守りするためとおっしゃり、スラングス家の精鋭百名と眷属二百、そして、ネストリ様が出発されましたが?」
その言葉にソルムは慌てる。
「そのようなことは命じておらん! それはいつのことだ!」
その剣幕に兵士はしりもちをつきながら、「い、一時間ほど前のことです……」と報告する。
(何をするつもりか知らんが、俺たちに何も言わずに出ていったということは後ろ暗いことがあるはずだ……くそっ! まんまとだまされた!)
怒りに打ち震えるものの、すぐに頭を切り替える。
(御子様たちが出発されてから既に二時間。この辺りに地理に詳しいエイナルならすぐに追いつける……不味い!)
そう考えながら、すぐにタルヴォの下に走っていく。
報告を受けたタルヴォは「何だと!」と怒りを露わにするが、すぐに部下たちに指示を出していく。
「エイナルとネストリが勝手に兵を動かした! 御子様のお命を狙う可能性がある! 大鬼族は儂に続け! ソルムはエルノ殿とヨンニ殿にこのことを伝えた後、追い掛けてくれ!」
そう命じると愛用の斧を掴んで走り出した。彼の後ろには事情が飲み込めない大鬼族戦士が続いている。
ソルムはすぐにエルノとヨンニの下に走った。
二人はタルヴォと同じように怒りの声を上げると、すぐに配下の兵に追撃を命じた。
■■■
レイたちはレリチェ村を出て西に向かっていた。街道というほどの道ではないが、大鬼族とオーガを含む数千の西方派遣軍が通った跡はしっかりと踏み固められており、獣道よりはしっかりとしていた。ただ未だに雪が残っており、身体能力が高いレイやアシュレイですら、時折足を取られている。
魔族からの襲撃は想定していないものの、危険なアクィラ山脈に入ることから、ウノたちが周囲を警戒し、ステラ、レイ、ルナ、イオネ、アシュレイの五人が一列に並んで歩いていた。
出発から二時間ほど経った頃、少し開けた場所で小休止を取る。歩きにくい道でありながらも、まだ勾配も小さく、予定より多い四kmほど進んでいた。
「この辺りは魔物が少ないみたいだね」とレイが言うと、アシュレイが「そうだな」と答える。
ルナとイオネの二人は獣道でしかない歩きにくい山道に疲労していた。そのため、レイたちの会話に加わっていない。
「二人とも大丈夫? もう少しペースを落としてもいいけど」
レイの言葉にルナが「ええ、そうしてくれると助かるわ」と答えるが、笑みを浮かべる余裕すらなかった。
「この先はもっと厳しい道になる。限界になる前に休憩を申し出てくれ。その方が結果として早く移動できるからな」
アシュレイはそう言いながらも、二人の体力をもう少し計算に入れておくべきだったと反省する。
(ルナはこの数ヶ月でかなり体力が落ちているな。以前、ティセク村を調査した時はもう少し動けたのだが……虚無神の影響を受けた後に碌に身体を動かしていない。馬車での旅が仇になったか……イオネも神官としての生活が長かったのだろう。これでは一日に七、八キメル進めればいい方だな……)
当初の予定では雪も少なくなっていることから、一日辺り十五キメル程度進む予定でいた。しかし、思った以上にルナとイオネに体力がなく、ウノたちの支援を考えてもその半分程度とアシュレイは見積もり直した。
二十分ほどの小休止を終えて出発しようとした時、獣人奴隷のディエスが駆け込んできた。
「報告します! 後方より大鬼族のネストリ・クロンヴァールと小鬼族数百名が追ってきております。距離にして約一キメル。今までの速度で進めば三十分ほどで追いつかれると思われます」
「ネストリと小鬼族? どういうことだ?」とアシュレイが首を傾げる。
「もしかしたら、何か伝え忘れたことがあるのかもしれないね」
レイはネストリが改心したことを疑っていなかった。そのため、この追跡も連絡事項を伝え忘れたのではないかと考えた。
「それはありえないと思います。伝令なら足の速い大鬼族戦士数名で充分です。嫌な予感がします」
ステラがそう言うとイオネが大きく頷く。
「ネストリ殿が心を入れ替えたというのは偽りだと思います。昨日、私が治療した時に御子様に対し、憎悪の言葉を吐いておりました」
その言葉が決め手となった。
アシュレイが議論を切り上げる。
「議論している時間は無さそうだ。ディエス殿、この辺りに我らが隠れることができる場所はあるだろうか」
彼女はルナとイオネを伴って逃げ切ることはできないとやり過ごすことを考えた。
「ございません。この先の谷を渡ることができればある程度時間は稼げるかと思いますが、渡りきる前に追いつかれる可能性が高いかと……」
ディエスの言葉を聞き、全員が困惑する中、レイが提案する。
「とりあえず出発しよう。ウノさんたちが何か情報を持ってきてくれるかもしれないし、もしかしたら、僕たちを襲うつもりじゃないかもしれない」
レイに促され、全員が歩き始めた。
歩きながらルナはこの事実をどう捉えるべきか考えていた。
(ネストリの表情は本物だったわ。単純な彼にあれほどの演技ができるとは思えない。だとしたら、誰かが操っていることになる。闇属性魔法なら可能かも……小鬼族に裏切り者がいるのかしら? もしかしたらヴァニタスが彼のことを……)
ルナはそこまで考え愕然とするが、相手は神々を相手にしている邪神であると思い直す。
(全員がヴァニタスの影響を受けているならともかく、ネストリとエイナルだけなら何とかできるかも……いいえ、何とかして見せるわ。私は逃げないと決めたのだから……)
そして、彼女は前を歩くレイに話し掛けた。
「もしかしたらヴァニタスの作戦かもしれないわ」
レイは足を止めずに振り返る。
「どういうこと?」
ルナは自分が考えた推論を説明していく。
「ヴァニタスがネストリとエイナルを操って私たちを油断させたとしたら……あの人たちだけは私の言葉に賛同してくれなかった。それが突然改心した。タイミングがおかしいし、本当に心を入れ替えたのなら、武器を持って追いかけてくることはないはず。でも、他の兵士たちは違うわ。私の言葉にきちんと応えてくれた。もしかしたら、あの二人に何か吹き込まれたのかもしれない……」
「確かに考えられるけど、今は逃げた方がいい。この場所だとすぐに囲まれてしまうから」
彼が言う通り、獣道は深い森の中にあるものの、崖などの障害物はなく、容易に回りこまれてしまう。
ルナも「そうね」と答え、口をつぐんで歩くことに専念する。
レイはルナの推論について考えていた。
(ルナの言うことが当たっているのかもしれない。昨日の態度の急変は今考えると異常な気がする。でも、今はそのことを考える時じゃない。どうやって振り切るかだ。道を外れても足跡が残る。でも、ウノさんたちに足跡を消してもらう時間もない……タルヴォ殿たちが気づいてくれていればいいんだけど、それも分からない……)
歩きながら考えるが、よい案が浮かばない。
途中でウノが合流し、前方の状況を報告するが、森が続くだけで事態を解決できるような地形はなかった。
焦るレイの下に木を伝って移動するヌエベから報告が入る。
「木の上から敵の姿が見えます!」
「どのくらいの距離ですか!」とレイが叫ぶと、「あと三百mほどです!」という答えが返ってきた。
レイはこれ以上逃げ続けることはできないと腹を括った。
そして、直径二メルトほどの巨大な倒木を見つけると、「ここで迎え撃つ」と宣言する。
「大丈夫なのか?」というアシュレイの問いに、
「分からないけど、後ろを取られる場所よりいい。それにタルヴォ殿が気づいてくれているはず。だから、時間を稼ぐ」
そう答えると、ルナに顔を向ける。
「倒木の上から鬼人族に話しかけてほしい。僕も操られているのはネストリとエイナルだけだと思う。だとしたら、君の話で小鬼族戦士たちが僕たちの味方になるかもしれない」
「分かったわ。やってみる」と力強く答える。
「アッシュとステラは僕と一緒にルナを守る。ウノさんたちは囲まれないように牽制をお願いします。イオネさんはルナと一緒に闇の神に祈りを捧げてください」
全員が頷いたところでステラが「鬼人族です!」と叫んだ。
ようやく一年……どれだけ話が遅いんだ……




