第五十二話「キーラの暴走」
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三月二日に日付が変わった頃、大神殿は静けさに包まれていた。
闇の神殿の神官たちによる大掛りな魔法によりルナは回復した。そして、今のところ彼女に虚無神の影響は見られない。
それでも神降ろしの儀式による精神への大きなダメージに加え、ここ数日の無理な移動によって心身ともに消耗しきっており、スイートルームのような豪華な客室に戻ると、ルナはすぐに眠りに落ちていった。
彼女にはアシュレイとステラの二人が付き人として付き添っている。大神殿に元々いる小間使いの人族もいたが、イーリスの命令により今は遠ざけられていた。
ルナを主寝室に残し、二人だけになったところでアシュレイが徐に口を開いた。
「とりあえずルナは何とかなるだろう。後は我々、特にレイのことだが、どうすべきか考えておいた方がよいだろう。ステラ、お前の意見を聞かせてほしい」
そう言って意見を求めた。
ステラは小さく頷くと、考えていたことをゆっくりとした口調で話していく。
「私は魔族を信じるべきではないと思います。イーリス殿、ヴァルマ殿はある程度信用できるかもしれませんが、あの二人もルナさんが回復した今、私たちを必要としません……」
彼女は儀式が終わった後、魔族がどう動くかについて必死に考えていた。そして、彼女が達した結論は、“白の魔術師”と呼ばれているレイが邪魔になり、鬼人族と接触する前に存在を消そうとするのではないかというものだった。
「レイ様や私たちを殺した上で、ルナさんには西に戻ったと言って誤魔化そうとする可能性があります。特にレイ様のことは鬼人族に知られたくないはずです。それにヴァニタスの影響がなくなった今、そのことを知っている私たちを邪魔だと思うのではないでしょうか」
「そうだな。私もそう思う。ヴァルマ殿はルナが言えばレイを殺めることはないだろうが、イーリス殿は生粋の為政者だ。今の地位を揺るがす恐れがあるなら手段を選ばんだろう。それにキーラ殿もそうだ。あの者は多くの部下を目の前で殺されている。その部下も長年苦楽を共にした者たちだろう。そう簡単にレイを許せるとは思えん」
アシュレイとステラはレイが危険であるということで一致した。
「ウノさんたちを呼びましょうか」とステラが小声で確認する。アシュレイが「頼む」と言うと、獣人奴隷部隊で使われる符丁を使ってウノを呼んだ。
ウノが天井からふわりという感じで舞い降りてくる。そして、片膝をつき、「お呼びでしょうか」と言って頭を下げる。
「レイから何か指示されたことは?」
アシュレイの問いに対し、
「アークライト様はご自身に付けられた監視者の動向を探るよう命じられました。また、アシュレイ様たちの状況も確認するようにと。今のところ、ご指示は以上でございます」
アシュレイはやはり監視が付いているかと思ったが、それは口に出さず、
「レイの身が危うい。彼を守ることを最優先に頼む。それともう一つ。キーラという呪術師はレイの正体を知っている。彼女が独断で動かぬとも限らん。済まぬが、キーラにおかしな動きがあれば躊躇わずにそれを阻止してほしい」
「承りました」と言ってウノは天井に消えていった。
アシュレイは「これでとりあえず良いだろう」と呟き、
「ウノ殿たちがいればレイは何とかなる」
「しかし……」
ステラはウノたちの技量は信ずるに足るものだと頭で分かっていても、自分が助けにならないことに納得できなかった。しかし、どういって言いか分からず言葉に詰まる。
それに対し、アシュレイはしっかりとした口調で自分たちのすることを言い切った。
「我々がせねばならぬことはルナを守ることだ。ルナさえ確保しておけば、レイとどこかで合流し、共に脱出することもできる」
「分かりました。確かにおっしゃる通りですね」
ステラはそう答えながら、アシュレイにハミッシュ・マーカットの面影を感じていた。
(この方は確かに団長の血を継いでおられるわ。方針が決まったらぶれない。私も見習わないと……)
二人はルナを守るための方策を相談し始めた。
三月二日の夜明け前、翼魔族の呪術師キーラ・ライヴィオは未だに体調がすぐれなかった。その顔は青白く、前日受けた怪我の影響を色濃く残している。しかし、その重い身体に鞭打って起き上がると、足を引きずるようにゆっくりと大神殿の中を歩いていく。
神官たちが体調を慮って声を掛けるものの、「我らの危機に寝てなどいられぬ」と言って足を止めなかった。
向かっている先は呪術師たち、ルーベルナの防衛を担う武官たちの執務室だった。彼女は仲間と共にレイを討ち取るつもりでいたのだ。
ルーベルナには翼魔族を中心に百人程度の魔法兵がいる。しかし、翼魔族を含め、妖魔族は近距離での近接攻撃を苦手としていた。唯一、召喚した翼魔だけは剣での戦闘が可能だが、現在、その数は激減しており、自由に使える翼魔はほとんどいない。
もちろん、千人近い人族や獣人族の兵士はいる。しかし、キーラを含め翼魔族は人族の兵士を“肉の盾”としか考えておらず、共に国を守る仲間という意識がない。
それでも彼女はレイを討伐するつもりでいた。部下を殺された恨みもあるが、それ以上に“白の魔術師”という存在を危険に感じていたからだ。
(白の魔術師はソキウスに何度も煮え湯を飲ませてきた男。それに奴がここにいることを鬼人族に知られたら不味い。イーリス様は鬼人族と和解するとおっしゃっているのだから、あの男がここにいたという事実は隠す必要がある。それに御子様をお救いするためにはあの男が必要とおっしゃっていた。つまり、御子様が回復した今、あの男は用済みということ……)
キーラはそう考え、そのことを部下である呪術師たちに伝えようと考えた。そして、一時はイーリスの不興を買うことになっても、長期的にはレイを殺す方が祖国のためになると信じていた。
唯一の懸念は自分たちを遥かに凌駕する魔法の腕を持ち、更に大鬼族の英雄オルヴォ・クロンヴァールを一騎打ちで倒したレイの戦闘力だ。
それでも彼女は楽観していた。
(いくら白の魔術師が強力な魔法の使い手であり、槍の達人だといっても、大神殿の中では装備を外しているはず。それに今は一人になっているから、仲間の救援もない。できるだけ多くの仲間を集め、目覚める前に一気に部屋に押し入れば、白の魔術師といえどもろくに抵抗できないはず……)
彼女はウノたちのことをほとんど知らなかった。獣人の戦士がいることはロウニ峠の戦闘で気づいていたが、その実力をほとんど認識していなかった。レイの印象があまりに強すぎ、ウノたちの印象が残っていないのだ。
もし、キーラがウノたちの実力を認識していたら、レイを襲撃しようという無謀な試みを躊躇したかもしれない。
キーラが呪術師たちの部屋に着いた時、偵察に出ている者以外のほとんどの呪術師がいた。彼らは鬼人族軍の話を聞き、即座に動けるよう待機していたのだ。
「みんな揃っているようね」
呪術師たちは突然現れたキーラに驚く。
「お身体は大丈夫なのですか? ヴァルマ様より大怪我を負われたと伺ったのですが」
「まだ少し身体は重いけど大丈夫よ。それよりこんな時に寝てなどいられないわ」
その言葉で呪術師たちは鬼人族との戦闘のために無理をしていると勘違いした。
「鬼人族の位置はロウニ峠の南、百kmほどです。いかに鬼人族とは言え、峠に到着するのは明日以降。今はお身体を休めていただいたほうがよろしいかと」
キーラはその言葉に頭を振る。
「鬼人族より喫緊の問題があるわ。それを何とかしなければ鬼人族の相手もできない」
呪術師たちは彼女の言葉の意味が分からなかった。
「それはどういうことでしょうか?」
部下の一人の疑問に一瞬どう答えるべきか悩んだ。レイを討ち取るということは決めていたが、部下に動揺を与えず協力させる方法を考えていなかったのだ。
(白の魔術師を討つことばかり考えて、どう説明したらいいのか考えていなかったわ……正直に伝えるしかないわね)
彼女は腹を括り、レイが白の魔術師であることを告げることにした。
「イーリス様が連れてきた人族の男は“白の魔術師”なの」
その言葉に部下たちに動揺が走る。白の魔術師という名は彼らの同僚であるアスラ・ヴォルティ――ラクス王国東部に派遣された翼魔族の呪術師――の報告書で知っており、数十体のオーガを一瞬にして焼き殺す魔法を使い、わずか二百名の傭兵を指揮し三千のオークを全滅させた強力な戦士と認識していた。
「イーリス様もヴァルマ様も御子様をお救いするために彼の力を利用するとおっしゃられたわ。確かにあの男の魔術師としての才能は恐ろしいほど。私ではあの男の足元にも及ばない」
闇属性と風属性の攻撃魔法に関して、キーラは呪術師部隊でも屈指の使い手であり、その彼女が足元に及ばないといったことに更に動揺が起きる。
「それほどなのですか……」と震えるような声で部下が言うと、
「私でも翼魔二体と戦って確実に勝てると言えない。でも、あの男は僅かな時間で十体もの翼魔を叩き落しているわ……追いかける光の矢……あれは私たちにとって悪夢のような魔法……」
レイとの戦いを思い出し、僅かに震えるが、すぐに気持ちを切り替える。
「そんなことより、白の魔術師がルーベルナにいると鬼人族に知られたら、ソキウスは崩壊するわ。鬼人族の西方派遣軍を全滅させた男なのよ。すぐに頭に血が上る鬼人族が知れば、狂ったように攻めてくる。だから、彼らに知られる前に処分しなければならない」
呪術師たちはキーラの言葉に頷くが、一人の部下が疑問を口にする。
「でもどうしてイーリス様はそのような危険な者を生かしておくのでしょう?」
キーラは自信を持ってその疑問に答えた。
「恐らく命令を出し忘れているだけだと思うわ。昨夜の儀式でお疲れだから。だから、すぐにでも命令が下されるはずよ。でも、それを待っていたら、奴に気づかれてしまう。向こうの準備が整う前に一気に討ち取らないと大きな損害を被ってしまうわ」
呪術師たちはそれでも「イーリス様のご命令を待つべき」と主張した。彼らは命令を受けることに慣れていたため、独断専行を嫌う傾向にあったのだ。
キーラは時間を惜しみ、説得を諦めた。
「私に賛同する者は一歩前に出なさい」
しかし、誰一人、足を前に出さなかった。
「いいわ。あなたたちは命令を待っていなさい。でも翼魔はすべて連れていくわよ。今何体残っているかしら」
「ここにいるのは八体です。残りは偵察に出していますから」
「それで充分だわ」と言って翼魔の待機場所に向かう。
翼魔は呪術師たちの部屋の近くにある檻に入っていた。契約により勝手な行動をとることはないが、万が一を考えての措置である。
キーラは八体の翼魔を檻から出すと剣を持たせる。全ての翼魔が武装を終えると、「付いてきなさい」と命じ、レイに与えられた部屋に向かった。
その一連の様子を獣人奴隷のヌエベが見ていた。
彼はアシュレイの指示を受けたウノの命令で、同僚のセイスとともにキーラを見張っていたのだ。
既にセイスはウノに報告するため、この場を離れている。
(あの翼魔族の呪術師を始末すべきか……)
ヌエベはアシュレイの命令を実行すべきか珍しく逡巡していた。それは直接的な主人であるレイの指示が“監視”であるためだ。
更にレイが月魔族の指導者と良好な関係を築きつつあり、ここで暗殺という手を使うと主人の目論見を破綻させる可能性があることに思い至った。
以前の彼らなら盲目的に命令に従ったはずだが、レイが与える指示は漠然としたものが多く、自らの判断が必要になることが多くなっている。
今回も明確な指示は“監視者の特定”とルナ及びアシュレイたちの安全確保だけであり、未然に暴発を防ぐことは含まれていない。
(アークライト様のご命令を待っていては手遅れになる可能性がある……)
彼は独自の行動に出ることにした。
キーラの監視を一旦放棄し、別の場所に向かった。
彼が向かった先は月魔族のヴァルマ・ニスカの私室。既に大神殿内の構造は完全に把握しており、二分ほどで到着する。ヴァルマは月の巫女イーリスに次ぐ重要人物であり、当然扉の前には歩哨が立っている。その歩哨は人族の兵士で金属鎧に身を固め、ハルバードを手にしている。
ヌエベは歩哨の注意を引くため、廊下の死角で物音を立てた。
静まり返っている廊下にコンという乾いた音が響いた。
歩哨は「誰だ!」という誰何の声を上げたが、反応がないため、ハルバードを握り締め物音がした方に慎重に向かった。
歩哨が扉から離れた僅かな隙を突いて廊下に舞い降りると、扉の隙間に一枚のメモを差し込み、コンコンと扉をノックする。
すぐに天井に舞い上がるとすぐにその場を離れ、持ち場であるキーラの監視に戻っていく。
ヴァルマは歩哨の誰何の声とノックの音で目を覚ました。未だに体調は回復し切っていないが、それでも数時間の睡眠とルナが無事だったという安堵感で気分は随分よくなっていた。
大きく伸びをした後、「誰なの?」と言いながら入口に向かうと、扉の下に一枚の紙があることに気づく。
「何かしら?」と首を傾げながら、紙を取り上げると、そのメモにはキーラがレイを害そうとしていると書かれていた。
「どういうこと!」と驚くが、着替えることなく外套を羽織るだけでレイのいる部屋に向かった。




