第六十三話「ミリース谷の戦い:その三」
十月七日、午前六時。
朝日が昇り始め、周囲が明るくなった頃、魔族軍の将、ユルキ・バインドラーは、目の前に広がる光景に奥歯を強く噛み締めていた。
草原には、昨夜戦線から片付けさせた、オークたちの死体がそこかしこに散乱し、更に五百m先の敵の陣地の左右には、塚のように積み上げられた眷族たちの死体があった。
(どれほどの損害を出したのか……五百、いや、八百はやられている。僅か一日で二千五百の軍が半数に削られた。それも敵は味方の僅か十分の一。不味い戦いをした……どうする。ここで引き揚げれば、アスラ殿、バルタザル殿に嘲笑されるだけだ。“だから言ったであろう、我らの手を借りねば何も出来ぬ”と笑われる。このままでは引き下がれぬ……)
その時点での魔族側の損害は、七百匹のオークが死に、百匹程度のオークがケガを負っていた。
死者の数に比べ、負傷者の数が少ないのは、ユルキが力押しに拘ったためだ。ケガを負ったオークたちが後退しようとしても、後方から次々と進軍してくる味方に押され、下がるに下がれず、次々と殺されていった。
更に、味方の血で足元がぬかるみ、転倒する者が続出した。そして、一度転倒してしまうと、立ち上がる前に後ろから来る味方に踏まれ、立ち上がることなく、踏み殺されていった。敵に殺されただけでなく、味方に踏み潰されたオークが少なからずいたことが、大きな戦力ダウンに繋がっていた。
彼はオークたちの損害が馬鹿にならず、一旦、戦場から引き揚げさせることにした。
(止むを得ぬ。一度引いて態勢を立て直さねば。だが、このまま引き下がるつもりはないぞ……)
朝日が昇り、曙光が戦場を照らしていくと、徐々にその全容を現していく戦場の姿に、魔族討伐軍先遣隊も声を失った。
自ら築いたオークの死体の土塁、口を半開きに開け、虚ろな目で見つめる死体の山の前で、若い騎士は嘔吐し始める。
彼の視線の先には、踏み潰され、原形を留めないオークの死体が多数散乱していたためだ。
先遣隊の見守る中、オークたちはゆっくりと下がっていく。昨日から十二時間続いた戦闘の音が途絶え、朝靄の草原に静けさが戻ってきた。
ハミッシュはオークたちが下がったこの隙に、疲れ切った若手の回復を優先することにした。
「第三班は警戒に当たれ! 他は今のうちに休んでおけ! 誰か食事の準備をしろ!」
ハミッシュは昨日からの戦闘の疲れも見せず、次々と指示を出していく。
(二時間、いや、一時間でいい。休息の時間が取れれば、何とかなる。だが、なぜ敵は下がったのだ? 増援を要請したのなら、厄介だが……)
彼はけが人たちに声を掛けていき、血に塗れた鎧姿のまま、温かい食事を食べ始める。
(この血の匂いの中で何人がまともに飯を食えるのだろう? うちの若い連中でも厳しいだろうな……)
「治癒師で魔力の回復したものは、けが人の治療を行ってくれ! レイ! 起きていたら、こっちに来てくれ!」
ハミッシュはレイを呼び、今後の敵の動きについて、彼の考えを聞くことにした。
(レイは軍師としての才もある。あの隊形をこのような状況で思いつくとは。それとも、知っていたのか? 少なくともトリア大陸で使われている戦術ではないが……)
魔法という遠距離兵器のあるこの世界では、方陣のような密集隊形は発達しなかった。
隊形と言えば、単純な横隊と縦隊だけしかなく、歩兵、騎兵、弓兵、魔術師などの兵種ごとに運用しようという思想も、あまり発達していない。
軍を編成する時は、ある程度地形や敵戦力を考慮し、兵種の配分を変えたりすることもあるが、基本は騎士を主体とした騎兵で構成され、補助戦力として、傭兵の歩兵と弓兵を組み込むことがある程度である。
傭兵側でも、主な収入源である護衛任務のため、通常は、剣、槍、弓をバランスよく交えた編成にしており、今回のような兵種ごとに役割を決めて戦う方法は、あまり取られたことがない。
唯一例外と言えるのが、マーカット傭兵団の四番隊で、騎兵突撃を専門にした特殊な編成になっている。これは運用を考えた結果というより、騎士崩れの傭兵たちを有効に使おうと考えた結果であったが、ハミッシュはその有効性を認めていた。
(魔術師がいない敵に対しては、今回の隊形は有効だ。盾を大きくすれば、弓に対してもかなりの防御力を持つだろう。騎兵に対しては槍を長くすれば、相当な戦力差が無い限り、敵に破れることはない。これに四番隊のような騎兵戦力を組み合わせれば、相当強力な戦力になる……やはり、レイはどこかの国の騎士だったのかも知れぬな……)
そんなことを考えていると、眠そうな顔のレイが近づいてきた。
「済まんな。少し相談したいことがあってな」
レイはハミッシュの遠慮がちな言葉と、隊長たちがいないことに驚く。
「敵が一旦引いた。敵の意図をどう考える?」
彼は周囲に敵の姿が無いことに気付いていたが、詳しい話を聞く前にハミッシュのところに来ていたため、事情が飲み込めない。
ハミッシュから、夜明けと共に敵が下がっていったこと、その隙にこちらも休息に入ったことが告げられ、もう一度、戦場を見回してみた。
(結構、損害を与えているな。素人の僕が見ても、敵の損害がどの程度か判らないけど、ハミッシュさんは、五百以上は死んでいるって言っていたな。最初の攻撃で二千、ここに千五百来たとして、まだ、最低千匹はいる。それだけの戦力があれば、攻め続けることができたはずだけど、なぜそれをしないのか。敵の指揮官になったつもりで考えるんだ……)
彼は敵の指揮官になったつもりで、もう一度戦場を見ていく。
(昨日から今日に掛けての僅か一日で半数近い戦力を失った。敵は追撃戦を含め、翼魔や小魔たち、大鬼を使っていない。すべて中鬼だけだ。ということは、ここを取り仕切っているのは、中鬼族だけだ。彼か彼女か知らないけど、そいつは包囲したのに殲滅できず、追撃しても大きな損害を出してしまう。もし、そいつの上官、司令官がいれば、損害を出し続ける現場指揮官を更迭する可能性がある)
そこまで考えて、昨日の戦闘について思い返してみた。
(昨日、翼魔族の女の人がいた。それも単独で……そもそも、オーガたちも単独で攻めてきた。アルベリックさんとステラが偵察の時に見た姿は、翼魔族と大鬼族が言い争っている姿だった……こちらもそうだけど、魔族も一枚岩じゃないのかもしれないな。向こうの国の状況は判らないけど、もしかしたら、魔族の間でも権力争いのようなものがあるのかもしれない。もし、そうなら、中鬼族の指揮官はどう動くつもりなんだろう? 翼魔族、大鬼族に助けを求めるのか? それとも、プライドを賭けて単独で攻め続けるのか? 今、それを悩んでいるんじゃないか? もし、単独で攻めてくれれば、時間稼ぎは出来る……)
彼は今考えたことをハミッシュに説明していく。
「全然、確証は無いんですが、魔族も一枚岩じゃないんじゃないかって思うんです……」
ハミッシュはその話を真剣な表情で聞いていく。
「つまり、翼魔族、大鬼族、中鬼族の連携が出来ていないと。なるほど、確かにそうかもしれんな……で、この後、我々はどうするべきだと思う?」
「僕たちは、後三日はここを死守しないといけないんですよね。まずは戦力を減らさないことが大事ですけど、単調な戦闘は敵に対策を考える時間を与えてしまいます。それと、もう一つ。敵に損害を与えすぎると、増援を呼ばれる可能性があります。もちろん、敵が撤退していくという可能性もありますけど、こっちとしては、出来るだけ状況に大きな変化を与えない方がいいと思うんですけど……」
ハミッシュは頷きながら、「具体的には?」と先を促す。
「敵の攻撃を見ながら、時々、こちらから打って出る姿勢を見せます。特に迂回して後ろに向かうように見せれば、その対応に頭を悩ますでしょう。後は、敵の攻撃をできるだけ、いなすように防備を固めます。これで時間を稼ぐしかないと……」
レイはハミッシュに説明しながら、不安が顔に出ないよう必死に努力していた。
(ハミッシュさんのような歴戦の傭兵が、僕の意見を聞きたがるってことは、かなり追い詰められているんだ。僕が自信を持って話せば、少しは気が楽になるかもしれない。軍師って言う柄でもないけど、ここは演じきるしかないんだ)
ハミッシュは彼の言葉を聞いた後、すぐに隊長たちを集め、今後の協議に入っていった。
「敵はどうも一枚岩じゃなさそうだ。うまく戦えば、時間稼ぎが出来るぞ。レイ、お前の考えを皆に説明してやってくれ。お前が言った方が信憑性があるからな」
彼はその言葉に無理に作った笑顔を向け、隊長たちに説明していった。
彼の説明を聞いた五番隊隊長のヴァレリア・ハーヴェイは、四ヶ月前、自分の隊に配属されてきた当時の彼の姿を思い出していた。
(あの時は、魔法や槍は使えるけど、右も左も判らないって感じだったわね。それが今ではマーカット傭兵団の軍師様だ。本当は自信がなくて、泣きそうになっているんだろうけど、頑張って自信があるように見せている。私でも信じてしまいそうだよ、本当に。この子とアッシュ、ステラちゃんには生き残って欲しいね。この先どうなるか見てみたいわ。さてと、ちょっとは助けてあげようかしら……)
ヴァレリアは、話の区切りが付いたところで、軽く手を挙げ質問を始める。
「一つ聞いていいかい。敵にちょっかいを出すって話だけど、具体的にはどうやるんだい?」
「そこは僕より、ヴァレリアさんたちの方が得意でしょう。何かいい案があるんじゃないんですか?」
ヴァレリアの問い掛けに、レイは軽い口調で応じていた。
(ヴァレリアさんは判っているんだ。僕が無理していることを。正直、実際の戦闘なんか判っていないんだから。迂回攻撃みたいな欺瞞行動なんて、どうやったらいいのか全然判らないよ)
ヴァレリアはにやりと笑い、隊長たちを見回しながら説明を始める。
「ゼンガの旦那の二番隊に穴を開けてもらったところに、五番隊とラザレスの旦那の三番隊の身軽な連中を走らせる。そこにアル兄に入ってもらって、遠くにいる目標を狙撃してもらう。敵の指揮官も、あの強弓を見ればビビるよ。当然、被害が出ないようにすぐに戻ってくるしね」
そして、さも簡単なことのように「要は敵をびびらせりゃ、いいんだろ?」と付け加えた。
レイは頷き、ハミッシュを見る。
「よし、その線でいくが、一発目のタイミングは、もうちょい後だな。敵が戻ってくるタイミングで、アルの強弓で存分に肝を冷やしてやれ!」
十月七日午前九時。
中鬼族の将、ユルキ・バインドラーは、配下の操り手たちと綿密な打合せをした後、再び、戦場に戻ってきた。
(力押しでいくことに変わりはない。だが、目的を見失っていた。敵の疲労と焦りを誘うこと、これを忘れていたのだ……)
彼は千二百のオークを、三百ずつの四隊に分け、一隊ずつで攻撃を掛けることにした。
前回までの失敗は、戦場に多くの戦力を投入しすぎ、味方同士で動きを制限してしまったことにあると考えた。
(一隊三百匹でも敵より多い。正面から攻撃を掛けている間に、側面から攻撃を掛ける素振りをして、突き出してくる敵の槍を破壊していく。それほど多くの武器を用意しているはずは無い。それに昨夜の攻撃である程度は武器を失っているはずだ。落ち着いて攻めれば、勝利は俺のものだ)
事実、討伐軍先遣隊の武器の損耗は激しかった。
特に槍の損傷は激しく、既に三十本以上が使えなくなっていた。
剣もオークたちの血糊で切れ味が落ち、休息中に血糊を拭いたが、十分な手入れとは言い難い状態だった。
ユルキの命令で三百のオークが、前線に向かって歩いていく。
昨日のような、狂ったような突撃ではなく、一歩ずつ確実に接近してくるため、若い兵士たちはその姿に恐怖を覚えずにはいられなかった。
ハミッシュは接近してくるオークの姿に、この先の戦いがより厳しくなると暗澹たる思いになる。
(敵の指揮官は落ち着きを取り戻したか……もう闇雲な力押しは掛けてこないか……よかろう、俺たちの力を見せてやろうじゃないか)
ハミッシュはアルベリックに目で合図を送る。
彼の合図でアルベリックと二十人の弓術士が、ゆっくりと前に進み出て行く。
オークたちは未だ百m以上離れており、弓術士たちに向かって突撃してくることはなかった。
アルベリックは、もう少し近づけると考え、弓術士たちと共に前に一気に進む。そして、敵との距離が五十mになったところで、弓を構えた。
「標的は何でもいい。だけど、確実に当てて! 射撃開始!」
アルベリックの号令の下、二十本の矢がオークたちに向かって放たれる。
アルベリック以外の弓術士の矢は、五十mほどの距離にいるオークに向かうが、アルベリックの放った矢は、更に奥、百mほどにいるオークに向かっていた。
二十本の矢は前列のオークに突き刺さるが、倒れたものは僅か五匹程度で、命中したものの致命傷を負わなかった者は、突き刺さった矢を引き抜き、再び歩き始める。
そんな中、アルベリックの放った矢は、敵の前列を大きく超え、後列の中央にいる一匹のオークの顔に突き刺さっていた。
その後方にはこの一隊を操るテイマーがおり、彼はその様子を目の当たりにして動揺する。
ユルキも更に後方からその様子を見ていた。
(あれがバルタザル殿の言っていた弓使いか。恐ろしいほどの腕だな。テイマーたちを奴の射程内に入れぬように注意せねばならんな)
動揺していたテイマーが我に返り、弓術士たちを攻撃するよう命じたが、彼らは陣の中に退避しており、攻撃は間に合わなかった。
そして、テイマーは陣地から二百m以内に入らず、アルベリックの矢を恐れるかのように、護衛であるオークの壁に囲まれていた。
その様子を見たハミッシュは、苦い顔になる。
(最低限の効果はあったが、恐怖を与えるまでには至らなかったか……やはり力勝負にならざるを得んか……)




