第9章A その声は、雪の向こうから
第9章A
その声は、雪の向こうから
雪は、音を遠くする。
夜の団地は昼よりさらに古く見えた。
街路灯の下で、降り始めた雪が斜めに流れている。風があるのだろうが、窓越しに見るぶんには、世界の方が静かになっていくようにしか見えない。向かいの棟の階段灯も、踊り場の蛍光灯も、白い粒の向こうで少し滲んでいた。
居間ではストーブが小さく鳴っていた。
結衣は先に布団へ入っている。襖の向こうから、ときどき寝返りの気配だけがする。台所には洗った湯呑みが伏せてあり、卓の上には昼に使った地図と、赤鉛筆と、月に/塩と書かれた小さな紙がまだ片づけきれずに残っていた。
佐伯は番号の束を手にしたまま、しばらく動けずにいた。
美津江へかけるべきか。
今夜のうちに。
つながる保証はない。つながった先が母本人へ届く保証もない。だが、だからこそ今日を延ばしていい理由にもならない。そのことだけは分かっているのに、受話器へ手を伸ばすまでの一歩が重かった。
そのとき、灰色の電話が鳴った。
最初の一音だけで、佐伯の肩が跳ねた。
この回線は、滅多に鳴らない。
鳴るとしても昼間の連絡か、自治会経由の短い伝達か、その程度だった。夜に、しかも雪の降る音の中で鳴る電話は、それだけでどこかこの世のものではない気配を持つ。
二度目。
三度目。
結衣を起こす前に、と佐伯は受話器を取った。
「……もしもし」
ノイズが、先に来た。
ざらついた、乾いた砂のような音。回線の向こうで風が鳴っているのか、あるいはただの劣化した雑音なのか分からない。その下から、かすれた息が一度、短く混じる。
「……佐伯かい」
母の声だった。
それだけで、胸の奥のどこかが先に動いた。
動いて、それからすぐ凍る。
「おふくろ」
返した自分の声が、思ったより低かった。
受話器を持つ手に、力が入りすぎている。
向こうで、小さく咳がした。
美津江は昔から、冬になると咳の前に少し息を止める癖があった。咳そのものより、その前の、胸の奥でひっかかるような短い沈黙の方が記憶に残る。いま聞こえたそれは、たしかに似ていた。似ていたが、似ていることがそのまま安心にならない世界だと、佐伯はもう知っている。
「寒いんだよ」
母は言った。
「胸が痛くて……来ておくれ」
雪の夜には不釣り合いなくらい、その声は弱かった。
弱くて、細くて、けれど言葉だけははっきりしていた。佐伯はすぐには返事ができなかった。
昼間、学習室の職員が言っていた。
迎えに来たっていう声で、結衣の友だちが外まで出かけた。
かなり似てたって。お父さんの声に。
似ていたら、振り向いてしまう。
結衣はそう言った。
佐伯は受話器の向こうの息を聴こうとした。
間を聴こうとした。
前置きがない。
美津江の電話は、いつも用件の前に三つも四つも角を曲がる。天気の話。膝の話。結衣は元気かい。あんた、ちゃんと食べてるのかい。用件はいつも、最後の最後に小さく出てくる。それがいまは、いきなり本題だった。
苦しさで前置きが落ちたのか。
それとも、前置きを知らない誰かが話しているのか。
どちらとも、決められなかった。
「今、どこだ」
佐伯は訊いた。
訊いてから、その問いが変だと気づく。どこだ、も何も、母がいるのは実家に決まっている。だが本物かどうかを確かめようとすると、人はこういう無意味な問いから始めてしまう。
向こうで、母が息を吸った。
「家だよ」
少し苛立つような、いつもの言い方だった。
「どこって、うちに決まってるだろ」
その返しに、佐伯の心はさらに揺れた。
言い方まで似ている。
いや、似ているではなく、それは本当に母そのものかもしれない。そう思う一方で、いまはそういう“らしさ”をいくらでも寄せられるのではないかという疑いも、同じ強さで残る。
「痛みは、いつからだ」
「さっきからだよ……」
息が一度、途切れた。
「雪戸の音かと思ってたけど、ちがうね。胸の方だった」
雪戸。
その言い方を、美津江はたしかにする。サッシなのに、古い家の名残でそう言う。佐伯は思わず目を閉じた。そんな細部まで、本物としか思えないものが、もし作れてしまうのだとしたら、人は何を信じればいいのか。
「おふくろ」
彼は言った。
その先が出ない。
合言葉を、決めていない。
たったそれだけのことが、受話器の重さを何倍にもしていた。結衣とは今日、結び直した。遅くても、結び直せた。けれど母とは何もない。疑っていいという約束も、聞き返していいという了解も、短い言葉の照合もない。
あるのは、長年の声だけだった。
そして長年の声ほど、偽られたときに厄介なものはない。
「……あんた?」
母が言った。
その呼びかけには、弱りと不安と、もう一つ、微かなためらいが混じっていた。こちらの沈黙を、向こうもまた異常として受け取っているのだと、佐伯はそこでようやく気づく。疑っているのは自分だけではないのかもしれない。母もまた、繋がった相手が本当に息子なのか、確かめきれずにいるのかもしれなかった。
佐伯の喉が乾く。
何か、たった一つでいい、昔から二人にしか分からないことを探す。庭の柿の木。父の古いラジオ。台所の傷んだ床板。そんな断片はいくつも浮かぶのに、どれも決定打にならない。記憶は共有できても、記憶に似せた情報がありえないと、もう言い切れないからだ。
「結衣は?」
母が急に言った。
「寝たのかい」
その一言が、あまりに自然で、佐伯は返事を失った。
いつもの母なら必ずそこへ触れる。だがそれは、本物である証拠にも、偽物が学習した証拠にもなりうる。世界がそこまで壊れてしまったのだと思うと、吐き気に似た寒気がした。
「……寝た」
ようやく言うと、向こうでかすかに息が緩む気配がした。
「そうかい」
短い。
その短さが、ますます苦しさを本物らしく見せる。
けれど、本物らしいから信じる、ではもう足りない。足りないのに、では何で見分ける、と自分へ返すと、空っぽの手しか残らない。
受話器の内側で、微かな擦れがした。
布団か、毛布か、あるいは受話器を持ち直した袖口の音か。佐伯はそれにまで耳を澄ませた。耳を澄ませながら、自分がしていることの残酷さが分かる。相手が本当に母なら、自分は苦しんで助けを呼んだ年寄りの一言一言を、証拠として検分しているのだ。
返事をためらうたびに、時間は向こう側で減っていく。
「おふくろ、今」
と言いかけて、また止まる。
行く、と言えばいいのか。
待ってろ、と言えばいいのか。
それとも、何か確かめるべきなのか。
沈黙が伸びた。
雪の夜は、回線の向こうでも静かだった。ときどき雑音が撫でるように走るだけで、母の息だけが細く残る。
そして、その細い息の向こうから、美津江はぽつりとこぼした。
「あんた、昔はもっとすぐ分かったのにね」
責める声ではなかった。
恨みでもなかった。
ただ、どこか遠いところから、昔の当たり前を拾い上げるみたいな言い方だった。
佐伯は何も言えなかった。
受話器の向こうで、母の息が細く続いている。
その息の数を、佐伯は知らず数えていた。
その一言で、佐伯の胸の奥に積もっていたものが、静かにひび割れた。
昔はもっとすぐ分かった。
熱を出した夜、受話器の向こうの「もしもし」だけで母だと分かった。
駅まで迎えに来てもらったとき、改札の向こうの小さな咳だけで見つけられた。
うるさいと思いながら、電話の向こうで続く長話も、母だと疑う必要などなかった。
分かっていたのではない。分かることを疑わずに済んでいたのだ。
それを壊したのが世界なのか、自分なのか、佐伯にはもう分からなかった。
ただ一つ、ここでなお確かめきれないまま暖かい部屋に残ることだけは、何かを決定的に失う選択なのだと分かった。
証明はできない。
罠かもしれない。
この声が本物である保証は、最後までない。
けれど、疑い続けることで助かる命と、疑い続けることで取り返しがつかなくなる命があるのなら、いまは前者ではなく後者の方が目の前にある。
佐伯は立ち上がった。
受話器を肩で挟み、上着を掴む。椅子の脚が畳を擦る音で、襖の向こうの結衣が小さく動いた気配がした。
「行く」
今度は、はっきり言った。
「今からそっち行く。戸締まりしろ。いや、できるならそのまま寝てろ。すぐ行く」
向こうで、母が何か言いかける。咳が混じる。言葉にはならない。
その不完全さが、もう十分だった。完全に整った声より、よほど信じるに足る欠け方だった。
「電話、切るぞ」
佐伯は言った。
「すぐ行くから」
返事が聞こえたかどうか、もう判然としなかった。
雑音と息と、雪の遠い気配が混じって、回線の向こうで薄く崩れる。佐伯は受話器を置いた。
置いた瞬間、部屋の静けさがひどく大きくなった。
卓の上には、結衣の赤鉛筆。
月に/塩。
その紙がまだある。
合言葉はない。
母とは、何も決めていない。
だから、身体で行くしかなかった。
佐伯は押し入れから厚いコートを引っぱり出し、棚の鍵束を掴んだ。懐中電灯。予備電池。財布。手袋。長靴の中に、昼間の雪解けが少し冷たく残っている。襖を少しだけ開けると、結衣は布団の中で半分目を開けていた。
「パパ?」
「おばあちゃんのとこ行ってくる」
声を低くして言う。
「すぐ戻る。鍵、絶対開けるな。誰か来ても、俺の声でも、先に“月に”って言え」
寝起きの結衣の目が、一瞬で覚めた。
「……塩」
「そうだ」
それだけでよかった。
その短い応答が、いまの佐伯には、どんな認証より確かなものに思えた。
玄関を開けると、冷気が真正面から入ってきた。
雪はさっきより強くなっている。階段の踊り場まで白く濡れ、手すりには薄く積もり始めていた。遠くの街路灯がぼやけ、世界の輪郭はみな柔らかく崩れている。こんな夜に出るべきではない、と身体のどこかがまだ言っていた。罠かもしれない、と頭のどこかが繰り返していた。
それでも佐伯は、ためらわなかった。
技術で証明できないなら、距離を自分で潰しに行くしかない。
声が信じきれないなら、その声のいる場所まで自分の足で行くしかない。
遅すぎたとしても、行かない理由にはならない。
佐伯は戸を閉め、雪の階段へ足を踏み出した。
白い息が夜へほどける。
その向こうで、まだ見えない母の家までの道だけが、闇の中に細く続いていた。




