幕間① 再起
オストマルク公爵邸の使用人たちは、どこか落ち着かなかった。若いメイドたちは、顔を寄せ、そわそわと囁き交わしては、エディアルドの顔色を伺う。
というのも、エディアルドが、長年想いを寄せてきたレオノーラ・アウフ・ヴィンターフェルトへ、ついに婚約を申し込んだからだ。申し込みの言葉を幾晩も練習し、不安を口にするエディアルドを励ましたのも、ほかならぬ彼女たちである。耳まで赤くしながら懸命に言葉を諳んじていた、いじらしい姿を彼女たちは、誰よりも近くで見守ってきた。
だが、想いを告げてから、幾日が過ぎても、色よい返事はまだ届かない。いつ、どのような形で返答が来るのか、エディアルドも語らない。使用人の身で、縁談の首尾をあれこれ問い質すわけにもいかず、彼女たちは、ただ、やきもきとその日を待つばかりだった。
今日こそ、良い知らせが聞けるのではないか。いや、明日か。そうして、来る日も来る日も、エディアルドの帰りを待っていた。
彼女たちは、信じて疑わなかった——あの誠実な若様の想いが実らぬはずがない、と。
日が傾く頃、門の方で馬蹄の音が響いた。
「若様のお帰りだわ」
メイドたちは、隠しきれぬ期待に胸を膨らませ、玄関へと駆けていく。今日こそは、と。
だが、扉をくぐって現れたエディアルドの姿を見た瞬間、彼女たちは凍りついた。
エディアルドは無理やり口角を持ち上げただけの、今にも崩れそうな、痛々しい笑顔を浮かべていた。いつもは実直に前を見据える大きな瞳が、力なく伏せられている。
「……ただいま帰った」
声も、いつもの張りを失って、掠れていた。
「お帰りなさいませ、若様……」
誰も、その先を問えなかった。問わずとも、答えは痛ましい笑顔にすべて書いてあった。
エディアルドは、集まった使用人たちを見回す。
「……レオノーラ殿に婚約の申し出を断られた。皆が力を貸してくれたのに不甲斐なくて、すまない……」
笑顔を保とうとしていたが、その声は途中から震え、泣くまいと堪えているのが、痛いほど伝わってくる。
「今夜は疲れたからもう寝る。部屋には来なくていいからな……」
そう言い残し、エディアルドは重い足取りで階段を上がっていった。いつもより一回り小さく見えるその背中を、メイドたちは言葉もなく見送るしかなかった。
エディアルドの姿が、廊下の奥へと消えて、扉の閉まる音が、遠くから響いた。
張り詰めた糸が切れたように、メイドの一人が口を開いた。
「……ひどいっ、ひどすぎます!」
「あんなに素敵な若様のどこがいけないっていうの!」
若いメイドたちは、口々に、エディアルドを袖にしたレオノーラへの怒りをぶちまけはじめた。あんなに一途なエディアルドを、痛ましい顔にさせたレオノーラが、彼女たちはどうしても許せなかった。
「静かになさい」
そこへ、よく通る声が割って入った。
声の主は、家政婦長のマグダだった。エディアルドに乳を含ませ、成人まで育て上げた、乳母である。今はオストマルク家の家政婦長として、メイドたちや家政全般の管理を任されている。歳を重ねても背筋の伸びた貫禄のある婦人だった。
「ヴィンターフェルト家のお嬢様が、どのような心づもりでお断りになったか、わたくしどもには、うかがい知れぬこと。そのように悪しざまに言うものではありません」
静かな叱責に、メイドたちは、口を尖らせた。
「……申し訳ございませんでした」
しおらしく謝るメイドたちを見て、マグダは、ふう、と息をつき、皺の刻まれた顔を、ほんの少しだけ和らげた。
「気持ちは分かりますよ。わたくしとて……若様の悲しいお顔は、見たくはありませんからね」
翌朝、食堂に現れたエディアルドは、ひどく憔悴していた。目の下に隈が浮き、一睡もできなかった顔をしている。スプーンを手に取ったものの、口に運ぶでもなく、ただ、ぼんやりと皿の一点を見つめていた。名を呼んでも、三度目でようやく、気の抜けた返事が返すばかりだった。
厨房に下がったメイドたちは、額を寄せ合った。
「このままじゃ、若様が参ってしまうわ」
「ねえ、若様は甘いものがお好きだから、ケーキを焼いて差し上げましょうよ」
落ち込む主人を少しでも慰めたい。その一心で、メイドたちは厨房に立ち、砂糖と蜂蜜、クルミを惜しみなく使い、ケーキを焼き上げる。
そして、午後のお茶の時間になり、自室に閉じこもっていたエディアルドを、日の当たる庭のテラスへ連れ出す。給仕役を家政婦長のマグダに託し、メイドたちは物陰から様子を見ることにした。
エディアルドは、ぼんやりと庭の木々を眺めていた。マグダは、お茶を入れて、メイドたちの焼いたケーキを皿に取り分ける。
「皆でケーキを焼きました。よろしければ、一口だけ、召し上がっていただけませんか」
慈しむような声に、エディアルドの堅く結ばれた唇が、わずかに解けた。エデュアルドはケーキを一口食べて、「皆に美味いと伝えておいてくれ」とフォークを置いた。
風が庭の木々を揺らし、影が濃くなってきた頃。
「……マグダ」
エディアルドは詰め所での一部始終を話し始める。レオノーラに縁談の申し出を断られたこと。嫌いではないと言ってもらえたこと。去り際に手首を掴んでしまったこと。訥々と語るその言葉を、マグダは口を挟まず、静かに聞いていた。
「私は、身の程を知らなかったのだ……気高いレオノーラ殿が、私のような無骨者を好いてくださるはずもないことを」
エディアルドは力なく笑った。マグダは、しばし黙って大きな背中を見つめ、おもむろに口を開いた。
「若様は、レオノーラ様を諦めてしまわれるのですか」
エディアルドは顔を上げた。
「諦めると仰るなら、もう何も申しません。泣き足りないようにお見受けしますので、涙が枯れるほど、存分にお泣きなさい」
マグダの瞳が、まっすぐに彼を見据えている。
「ですが、もし、ほんの少しでも諦めきれぬお気持ちがあるのなら」
マグダは、ぴしゃりと言い放った。
「いつまでも、めそめそと項垂れているものではございません。騎士がたった一度の負け戦で剣を捨ててどうするのです」
「しかし」
「レオノーラ様は、若様を嫌いだとは、仰らなかったのでしょう?」
「そうだが……」
「急いて山の頂を掴もうとするから、足を滑らせるのです。まずはご友人として、少しずつ、レオノーラ様のお隣に居場所を築いていかれれば、よろしいではありませんか」
マグダの言葉が、沈みきっていた胸の内に、一筋の光のように差し込んだ。断られたのは婚約の申し出であって、エディアルドのすべてを拒まれたわけではない。
(嫌いではないと、あの方は確かに言ってくれた。ならば、最初から始めればいい)
「……そうだな、その通りだ。マグダ、ありがとう」
エディアルドの顔に笑みが戻った。
「それでこそ、オストマルク家の次期当主です」
マグダは、満足げに深く頷いた。
「若様ー!」
庭の茂みの陰から、わっと、若いメイドたちが、飛び出してきた。
「次こそは、あの騎士団長様を絶対に落としましょうね!」
明け透けな物言いに、マグダの眉が、きりりと吊り上がった。
「あなたたち! 『落とす』とは、なんという、はしたない言葉ですかっ」
「ご、ごめんなさい!」
こっぴどく叱られ、首をすくめるメイドたちの賑やかな光景に、エディアルドは、こらえきれず声をあげて笑った。昨日からずっと強張っていた顔が、ようやく解けた。




