第112話 閑話 白銀は、香りを覚えている
※本編の時間軸の中の、語られなかった隙間の話です。畑の空気を、少し高いところから感じるつもりで読んでください。
空の高みには、匂いがない。
風は薄く、光は冷たく、雲は味気ない。
我ら龍が空を統べると人は言うが、その空は、ただ広いだけの場所だ。
我は、久しく地を見ていなかった。
地の営みは速すぎる。
芽が出て、枯れて、また芽が出る。
その一巡りは、我にとってまばたきほどのもの。
いちいち目を止めるほどの価値を、そこに見いだせずにいた。
だが、その日は違った。
風に、匂いが混じっていた。
土の匂いだ。
いや――土の匂いに似た、もっと古い何か。
我は翼を傾けた。
高みから、辺境の外れへ。
石垣も柵もない、小さな畑。
そのさらに先の、朝の市場。
匂いは、そこから昇っていた。
近づくにつれ、我の内で何かが軋んだ。
覚えている。
この香りを、我は覚えている。
いつのことか、思い出せない。
どこでのことか、分からない。
だが、確かに――かつて、この香りの下で、我は膝を折ったことがある。
誰かがいた。
顔は、もう薄い。
声も、風の向こうへ流れて久しい。
ただ、その者の手つきだけが、匂いの奥に残っている。
土を、踏まなかった手。
叩かず、急かさず、ただ促すだけの手。
奪わず、育て、分ける者。
我ら龍が、剣を向けぬと決めた、唯一の相手。
地に降りると、人が散った。
当然だ。
我の影は、人にとって死そのものだ。
剣を抜く者もいた。だが、その手は震えて前へ出ぬ。
我は、人を見ていなかった。
武器も、建物も、逃げ惑う背も、どうでもよかった。
我の鼻先は、ただ一点――小さな籠の中を求めていた。
瑞々しい根菜。
色の濃い、ありふれた野菜。
だが、その奥から、あの香りが立ち昇っていた。
世界樹の、息吹。
人の言葉では、そう呼ぶよりない。
根が深く、深く、地の底の縫い目にまで届いた作物だけが纏う匂い。
管理では決して生まれぬ、譲り渡された命の匂い。
我は、息を吸った。
空気が震え、我の記憶も震えた。
――久しいな。
声は、人の耳ではなく、頭の内側へ落ちる。
それが我らの語り方だ。
籠の前に、一人の男が立っていた。
逃げない。
跪かない。
剣も持たない。
ただ、戸惑っている。
自分がなぜ、竜に見つめられているのか、まるで分からぬという顔で。
我は、膝を折った。
命じられたのではない。
契約でもない。
誓いですらない。
ただ、香りが、そうさせた。
この者の手が育てたものが、遠い記憶の手と、同じ匂いをしていた。
それだけで、我の巨躯は地に伏していた。
周囲が凍りついたのが分かった。
人にとって、これはよほどの異変らしい。
だが、男は――
「……余ってるが、持っていくか?」
そう言った。
我は、危うく笑うところだった。
いくつの世を、我は生きてきただろう。
跪かれ、崇められ、神と呼ばれ、あるいは災厄と呼ばれてきた。
人は我に、祈りを捧げるか、剣を向けるかの、どちらかしかしなかった。
余ったから持っていくか、と言った者は、初めてだった。
我は、一本の野菜を咥えた。
噛まぬように。傷めぬように。
宝石よりも、丁寧に。
男は、こう言った。
「……踏むなよ。傷む」
我に、である。
空を統べる白銀の竜に、土を踏むなと言ったのだ。
我は、この者を覚えておこうと思った。
その後、我は畑には降りなかった。
人は、我が去ったと思ったろう。
竜が来ない、と役所の者が書き記したのも知っている。
だが、我は去ってなどいない。
高みから、ずっと見ていた。
人が畑に縄を張り、寸法を測り、書類に写していくのを。
守るという名目で、線を引いていくのを。
良かれと思って土に踏み込み、そのたびに畑が黙り込んでいくのを。
我は、幾度も降りて薙ぎ払いたくなった。
あの手が育てたものを、汚す指を。
だが、しなかった。
降りれば、人はまた我を神と呼ぶ。
神が守る畑になれば、それはもう、あの者の畑ではない。
管理を、別の管理に置き換えるだけだ。
だから、我は待った。
何もせぬことが、唯一できる守り方だった。
地の者の中にも、それを解した者が一人いたようだ。
線の外に立ち、決して踏み込まず、ただ見ていた男。
我とその者は、ついに言葉を交わさなかったが――遠くから、同じ畑を見ていた。
畑は、人の手を拒み、そして自ら深くへ潜っていった。
我の届かぬ底へ。
世界の縫い目の、さらに向こうへ。
やがて空が軽くなり、遠い枝に灯がともり始めた頃。
我にも、もう畑の底は見えなくなっていた。
それでいい、と思う。
我が守らずとも、あの畑は続いていく。
あの手が、今日も土を促しているかぎり。
――ただ、一つだけ。
我は今も、思い出せずにいる。
かつて、この香りの下で膝を折らせた、あの手の名を。
祖であったか、そのまた祖であったか。
あるいは、まだ生まれてもおらぬ、遠い誰かであったのか。
時は、我ら龍の中では巡り、ときに前後する。
だから、確かなことは言えぬ。
ただ、香りだけを、我は覚えている。
いつか、また。
あの香りが風に混じる日が来たら、
我はまた、翼を傾けるだろう。
高みには、匂いがない。
だから我は、時折こうして、風の中に土の匂いを探している。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
本編では、竜がなぜ跪いたのか、はっきりとは語られませんでした。
その理由を全部種明かしするのではなく、「竜の側にも、思い出せない記憶がある」という形で、少しだけ覗いてみたのが今回の話です。
カイルの「余ってるが、持っていくか?」を、竜の側から見たら、きっとこう見えていた――そんな一場面でした。
静かな番外編ですが、また折を見て、別の誰かの視点からもこの世界を覗いてみたいと思います。




