110「一難去って」
泥水の中を這い回っている。
早朝――。
カルリエ騎士団の包囲をなんとか突破した暗殺者ミロスは息も絶え絶えになりながら逃げ惑っていた。
カインの部下であるロックの包囲網は、名だたる貴族をこともなげに始末した実績を持つミロスの想像を上回るレベルで広範囲に敷かれていた。
ロックの個人の武勇は特筆するべきものはないが、緻密な作業をさせればなにひとつ抜かりがない。
ミロスはロックの手によって脱出口のありとあらゆる場所を封じられていた。
夜が完全に明けた――。
先ほどまで追っ手が丹念な調べを妄執的と思われるほど森のあちこちにまで及ぼされていたが、その間、ミロスは真っ黒で底も見えない沼の中に潜み、ただひたすら脱出のチャンスを窺っていたのだ。
気配が完全に消えたことを悟ってからミロスはようやく沼から上がった。
――万全ならば我が邪眼の前にひれ伏させてものを。
歯軋りしながらミロスは額にかかった前髪を払った。
ミロスの邪眼は魔力を持った強烈な催眠力を持つ特別製だ。
この目を手に入れるためにミロスは莫大な資金を費やし、呪法士の施す手術に耐えた。
邪眼は強力であるが、その分魔力消費も甚大であり、かけられる数にも限界がある。
――少しだけ休めば、回復するはずだ。
切断された腕と突かれた胸の傷が泥に塗れたせいで、強烈な痛みよりも不快感がまさった。
泥水に浸かっていただけだというのに長距離を走ったかのようにミロスの呼吸は乱れていた。
汚れ切ったお仕着せの肩が荒く上下する。
浜辺に打ち上げられた魚のようにミロスが地に両手を突いて呼吸を整えていると、下草が揺れて素早く小柄な影が飛び出した。
「……ああ、おまえか」
ミロスの目の前に現れた人物は右頬に稲妻のような特徴的な刺青のある小柄な女だった。
「馬鹿が。来るのが遅すぎる、おまえがいつまで経っても仕掛けぬので、我が一党は多大な被害を被った。さあ、とっとと手を貸せ。アジトは、あの小僧の手によってすでに暴かれているだろうが、我さえいれば、くくく、次は仕損じぬわ。まず、外堀から埋めてやろう。カイン本人ではなく、王都の無警戒な両親や一族を的にかけてやる。さあ、手を貸せ――」
ミロスが顔を上げるよりも早く、女のローブから無数の毒蛇が這い出し、一斉に襲いかかった。
それはミロスからすれば悪夢そのものだろう。
一匹でも噛まれれば致命傷である毒蛇がミロスの四肢を選ばず食いつてゆく。
「な――なぜ?」
「沈黙は金雄弁は銀と教えてくれたのはあなたでしょう」
吸い込まれるようにミロスは毒蛇と共に沼へよろけて落下し、やがて動かなくなった。
あとに残るは酷薄な瞳で消えたミロスを見下ろすユージェニーの姿があった。
「にいいいっ、本来ならあの位置にわたしがいるべきだったのにィ!」
「姉さま……」
いちゃつくカインとアイリーンを扉の陰でリースが歯噛みして悔しがっていた。
それもそのはずである。
彼女は疲れ切ったカインが戻ってくるタイミングを待ち構えて、一歩二歩とこれまで以上に関係を深めようとしていたのだが、中座した隙にアイリーンにその役を取られた形となっていた。
「昨晩だってアサシンどもに邪魔されてお守りできなかったから、その鬱憤を晴らそうと狩りに出てちゃーんと三匹も仕留めたのに。これなら最初からカインさまのおそばにいられなかった自責の念から功を焦り返り討ちにあった悲劇の美少女路線を狙えばよかった……!」
「姉さま? そ、それはちょっと」
リースはきいいっとハンカチを噛んだまま「悔しい」と地団太を踏んでいたが、ふたりの世界に入っているカインとアイリーンに気づかれることはなかった。
「悔しいですけどここは彼女に譲りましょうよ、姉さま。ほ、ほらっ。これからだってカインさまのご寵愛を得る機会はありますから」
「……」
「なにをぺたぺた顔に塗っているんですか?」
「あ、ほら、自責の念で重傷を負った振りをすればカインさまの御心もこっちに向くかなーと」
「戻りましょう」
「やだー、やだやだ、わたしのカインさまなんだーい!」
「はあっ」
リースとライエが扉の陰で姉妹漫才を繰り返していると、血相を変えて駆けてきた兵士にぶつかり吹っ飛ばされた。
「やんっ」
「きゃっ」
ころりんころりんと姉妹は転がって床に尻もちを突いた。
「あいたーっ。どこ見ているのっ。こんな美少女が怪我したらカルリエの大損失よ!」
「元気じゃないですか」
「お尻の大きいあんたは平気そうね」
「姉さまほどじゃありませんわ」
「ほほほ」
「ふふふ」
にらみ合った姉妹の背にハブとマングースの幻影が獄炎と共に立ち昇った。
だが、事態はふたりの想像を凌駕するものだった。
「恐れながら申し上げます」
若い兵士が跪くと胆力を込めた声でいった。
「なんだ」
カインは素早く起きてアイリーンの膝から降りると唾を呑み込んだ。
「南方のサルヴァトーレ伯が軍を起こし南に位置するカルリエの邑を次々に攻略しています」
「は?」
目元に怒気を滲ませてカインは顔を歪めた。
「しかしいきなりなぜ。理由があるだろう。カルリエ家とサルヴァトーレ伯の関係はそこまで悪くはなかったはずだが……?」
「おそらくは、サルヴァトーレ伯の領地は昨年より凶作が続いており、豊かで防備の薄い邑を群盗から保護するという理由で国境線を超えて次々に支配下に置いているようです」
「数は?」
「三千は超えていません」
――そればかりの数でカルリエ軍と本気でことを構えるつもりなのか。
カインは顎を拳でゴツゴツ打ちながら即座に策を脳裏に巡らせた。
一万ほどならば時間をかければ編成可能であるが、西部をいまだ窺っているパラデウムや北や東の抑えを安直に減らすことも不可能だった。
――そもそも軍を任せられる者が不在だ。
カインの中で頼みになる将はジェフやゴライアスくらいしかおらず、急場で先鋒を指揮する将校はそれほど育ってはいなかった。
「伯爵の軍は現在どうしている?」
「ここよりはるか南方のオデスタ郡で邑から盛んに徴発を行っており、領民は塗炭の苦しみに喘いでいます。主よ、なにとぞ軍を起こし速やかに伯を征伐されることを――」
若き兵士の目から一筋の涙が流れた。
「南に家があるのか?」
「は、生まれたばかりの児と妻が」
「わかった。このまま私は南に向かう。おまえは我が屋敷に向かって執事に家のことを任すと伝えてくれ」
「は!」
兵士が風のように駆けてゆく。
カインが上着を着ると扉から緊張した面持ちのリースとライエが姿を現した。ソファを振り返るとアイリーンが目元を潤わせていた。
「そういうわけだ。のんびりと朝寝をする暇もなくなったが危急ゆえ許してくれ」
「カインさま」
「リース、それにライエ。私はこれから戦場に赴く。治水事業を行うにあたってジャン殿の屋敷が最前線になる。姉上の身が心配だ。おまえたちはここで足弱の衆を守ってくれ」
「はい!」
緊張した面持ちでリースとライエが応じた。
同時に走り出す。
屋敷の外には通報を聞いたのか、たまたま領内巡視を行っていたゴライアスの弟であるゴウライが青毛の立派な馬の手綱を引いて待ち構えていた。
「ゆくぞ!」
カインは完全に眠気が消え去った顔で馬に飛び乗るとゴウライを従えて駒を南に進めた。




