105「治水」
「ほほほ。おはよう、カインくん。本日の調子はいかが?」
「おはようございます姉上」
執務室に入るなりメリアンデールの歓迎を受けたカインは努めて平静に応じ、特別な反応を見せずに机に着いた。
「姉上ではありません。ブラック・ウィドウです」
「そうですかブラック・ウィドゥさん。そろそろ無理をせず自然体で過ごしたほうが日々は楽しかろうと愚弟は思いますよ」
カインは呆れた表情を大げさに作り、メリアンデールの朝から直視するにはキツい夜の蝶のような服装をジロリとにらむ。
「……う。やっぱりお姉ちゃん着替えてくるね」
やはり悪女系を演じ続けるのには彼女の性格上無理があったのだろう。メリアンデールはそそくさと部屋を出ると、最初に出会ったときの動きやすい冒険者の服に着替えてきた。
――それだって良家の子女的にはアウツなのだろうが、まだマシというものか。
「ふー。やっぱ落ち着く。でも、この格好じゃわたしだってすぐみんなにバレちゃうかもだよ」
「緘口令は敷いておきましたが、やはり父上に知られるのは時間の問題だと思いますよ」
「うー、うん。いいのいいの。何カ月もずーっと滞在させてもらう気はないから」
「それそれで寂しいですが」
「いいんだよカインくん、お姉ちゃんのことは気にしないでも。お仕事が忙しいんでしょ?」
「お構いできませんが、お許しを」
実際カインは忙しいのであまりメリアンデールの相手はできそうになかった。
「ううーん、そこはもっと寂しがってほしいな」
だが、メリアンデールはカインにもっと情のある返答を求めていたようで、自分の人差し指を唇にちょんとつけると、仔犬がくぅーんとすがるような甘ったれた目線を送ってきた。
(どうせいちゅうんじゃ)
「いや、本当に姉上には申し訳ないんですが。あ、そうだ。メイドに領内を案内させますよ。といってもカルリエには名所旧跡などあまりありませんが」
「ところでわたしに手伝えることなにかないかな?」
(聞いてねぇし。てか、そーっと遠ざけようとしたんだが、さすがに乗ってこないか)
「いまはなにが問題なのかな?」
「現在、やはり一番の頭を悩ませてるのは治水に関してですね」
「治水?」
カインはバサバサと音を立てて机の上に領内の地図を広げた。
メリアンデールは背後に回ってぴょこと首を突き出す。
姉弟仲よくといった感じで地図を覗き込む。
「我が領内で一番の穀倉地帯であるカルリエ盆地ですが、ここは地味に富んでいて莫大な麦や雑穀の収穫が見込める場所なのですが、ディーバ川が通っているのです。雨が降ればディーバ川からは毎年毎年水が出ます。さらに数年に一度は必ずといっていいほどの割合で大規模な決壊が起きており、現在では担当者も匙を投げ尽くした状態なんですよ」
「お祖父さまはディーバ川には手をつけていらっしゃらなかったのかしら」
「そういうわけではないのですが。そもそもが治水事業には莫大な金がかかり、そう簡単には結果が出ないものなのですよ。それよりもお祖父さまは領内の小軍閥や賊徒の討伐が忙しくてあまり内政に手をつけられる状況ではありませんでした。お祖父さまが腰を据えて領内の仕置きに挑めたのは最晩年になってからと聞いております」
「うーん、でもカルリエ領のみんなも困っているんだよね。なんとかしてあげなきゃ! だね!」
「まさにそれを考えていたんですけど」
カインが地図を前にうんうん唸っていると心配そうな顔をしていたメリアンデールがパッと顔を輝かせていった。
「お屋敷で頭を捻っているよりも実際に川を見たほうがなにか思いつくんじゃないかな?」
「そうかもしれませんね。姉上のいうとおりだ」
実際問題、卓上だけでは知恵を絞っても限界がある。
現地現物で確かめてこそ打開策は生まれる可能性は高まる。
「失礼します」
朝の紅茶を持ってきたアイリーンが室内にいるメリアンデールを見て固まった。
当然の反応だろう。
主人であるカインの部屋にまったく知らない人物がいれば誰でもとまどう。
「あ、メイドさんがお茶持ってきてくれたんだね。ありがとう」
貴族令嬢であるメリアンデールは人を使うことに慣れている。
そのまま目を凝らしてしきりに机の上に広げた地図とにらめっこを続けた。
だが、アイリーンはメリアンデールのことが気になるのか茶の用意をしながらもしきりにカインへとアイコンタクトを送ってくる。
――黙っていても知れることだしな。
「アイリーン、この方は私の姉上だ。しばらくの間、屋敷に滞在するので失礼がないように」
「え、あ、はい。あのカインさま、それではこの方が昨日の」
「おまえが気になってるようにあのおかしな恰好してやってきた本人だよ。あまり深く考えないでやってくれ」
「は、はい」
「あ、ひどいな。けど、わたしも昨日ことはぜんぶ忘れたから。メイドさんも忘れてね」
「申し遅れました。カインさまのおそばに仕えさせていただいておりますアイリーンです。以後、お見知りおきを」
「わたしはメリアンデールだよ。仲のよい友だちはメリーっていうんだ。気軽にメリーって呼んでね。お屋敷のことよくわからないから教えてもらえるとうれしいな」
「わかりました、メリアンデールさま」
「うう、無視されたぁ」
「自己紹介が無事に終わってなにより。それとアイリーン。セバスチャンに馬車を一台用意するように伝えておいてくれ。茶を飲んだら出かける。支度も頼む」
「承知しました。どちらにまいられるのですか?」
「ディーバ川のあるこのあたりだよ」
メリアンデールが地図の場所を指し示すとアイリーンが「あっ」と小さく声を漏らした。
「なんだ。アイリーン。なにか気になることがあるのか?」
「あの、このあたり私の叔父の地所です。小さいころからよく行ったことがあります」
「ふぅん。それじゃおまえもついてこい。案内人を雇う手間が省けるからな」
「は、はいっ!」
カインの言葉にアイリーンは元気よく返事をすると、瞳を輝かせた。
「すぐに準備してきますね。それと叔父にも連絡をしておきます」
アイリーンはパタパタと俊敏な動きで部屋を出て行く。
カインは呆気に取られながらアイリーンの背中を見つめていた。
「あ、おい。茶の用意は」
今さら遅い。
部屋には茶器と湯気を立てるお湯のセットを乗せた台車が寂しく残されていた。
――仕方ない。たまには自分で淹れるか。
台車に向かいかけるとメリアンデールがいった。
「そこに座っててよ。お茶ならお姉ちゃんが淹れてあげるから」
カインは背中をグイグイ押されながらソファに無理やり座らされ、メリアンデールがいそいそと茶の用意をするのをボーッと眺める。
メリアンデールは実に楽しそうでふんふんーんと鼻歌まじりだ。
ほどなくしてカインの前に紅茶が供された。
味はいつも用意されているものと遜色がない。
昨晩の眠気が残っている脳が完全に目覚める。
「あの娘は。どうもそそっかしいところがありまして……」
ついついかばってしまう。
だが、メリアンデールは人差し指で宙にくるくると円を描きながら形のよい片眉を上げた。
「ふふん、仕方がないんじゃない?」
「はぁ」
「気のない返事ね。はあっ、あの子、わたしと同じくらいの歳かなー。カインくん、そういうとこよく見てあげないとアイリーンがかわいそうよ」
「よくわかりませんが、姉上の紅茶はおいしかったです」
「もうっ」




