それじゃあ、また
「シャフトシフト、世界軸を超える能力は確かに圭人様が持っているものです。ですが、これには一つ決定的な問題がある。それは、飛んだ先の世界軸における圭人様の存在です。もしもともと圭人様が居る世界へあなたが飛んでしまった場合、その世界軸には二人の圭人様が存在することになります。その処理を誰が行っていたと?」
そこまで言われて、メイドが何を言いたいかが分かった。だが、その光景はあまりにも――。
「そうです私ですよ。不要な圭人様を。余った圭人様を殺してばらばらにして袋に詰め込んで捨ててあげていたのは私なのですよ。感謝してください? おかげであのシャフトシフトは成り立っていたんです。私をほめてください? 殺してくれてありがとうって言ってください? ねぇ、圭人様?」
口が開かなかった。粘りつくようで、それでいてひどく虚ろなメイドの眼がこちらをとらえて離さなかった。
彼女は体を寄せてきた。その胸の感触が伝わる。それと同時に、大腿部へ焼けるような痛みが走った。
メイドは、俺の太腿へナイフを突き立てていた。
痛みはまず、俺の呼吸器を半ば麻痺させ、全身への酸素供給を滞らせる。次いでその部位に酷い熱さを感じる。まるで溶岩で熱した鉄を押し付け、肉の間へねじ込まれているかのような苦痛が――というか、こんな『表現』をしている余裕なんてもうない。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い熱い熱い熱い痛い痛い熱い痛い痛痛痛痛イタイタイイタイイタイイタイイタイイタイタイタイタタイタイタイタ――
「――っあ」
「あぁ……なんてすばらしい表情をしてくださるのですか。涙を目尻に湛えて、そんなに痛いのでしょうか? さて――、あぁ、本当に痛いですね、これは」
メイドの躰にすがるような体勢でなんとか立っていた俺は、メイドが自分の腿へナイフを突き刺したことにより彼女と共に床へ倒れこんだ。
その拍子に、メイドと俺の体は絡み合う。同時に互いの血液が互いの服と肌を汚した。
「圭人様、さぁシャフトシフトをしてください? もう『この回』は終わりです。次の物語を探すことにします。あ、前回は何とか圭人様をうまく説得できたので三山様への仕込みもできましたが、今回はできそうにありませんね。なんとか次の圭人様に受け入れてもらえるよう努力しないと……」
ほとんど朦朧とした意識の中で、メイドの声だけが聞こえた。視覚はもうホワイトアウトして役に立たない。この思考回路も、いつまでもってくれるかわからなかった。だが、俺は必死に意識を保ち続ける。なぜなら、俺には残り一つ、『してはいけないこと』が残されているから。
「今回もなかなかに楽しい物語でした。他の回に比べると圭人様との触れ合いも少なかったですが、最後にこうして触れ合うことができて、本当にうれしいです。はい、どうぞ」
そう言いながら、彼女はナイフで俺の腕に切り込みを入れていく。肩から、指先のほうへと切っ先が流れていくのにつれてそこにはぱっくりと割れた傷が作られていった。
「さぁ、そろそろいいでしょう。圭人様、シャフトシフトを。そうすればこの痛みなんて消えてなくなりますよ? ――それに、生きる苦しみからもすぐに開放して差し上げます。ほら、一緒なら怖くありません」
メイドの匂いが鼻腔をくすぐる。仰向けに横たわる俺へ、彼女は体を重ねるようにして触れている。柔らかな唇が、俺のそれを触れ、彼女の唾液が俺の口の中へ流れ込んでくる。柔らかな手のひらが俺の頬を包み、すべてを彼女に預けてしまいたくなる。
長く、血の味がしたキスだった。それはとてつもなく心地よくて、彼女が本当にこの浅田圭人に狂おしいほどの愛を抱いているとわかる。それはきっと幸せなことで、喜ぶべきことだ。
だけど。
「――シャフト、シフトは……もうしない」
それが俺の選択だった。ここで、自分が朽ち果てることを選んだ。自ら『捨て駒』となることを選んだ。その目的は、メイドを別の世界へ渡さないために。本来あるべきだった、浅田圭人と夜神綾乃の物語を維持するために。それが、きっと世界のあるべき姿だから。
「なにをおっしゃるのですか? それでは圭人様は――」
「散々苦しんで、その上で死ぬ。メイドから介錯、してもらう……のも悪くない、けどな」
メイドの眼が大きく開かれ、瞳孔が拡散するのさえ見て取れた。一瞬でまわりの空気がしんと冷え、彼女は短く息を吸った。
「もう一度言います。シャフトシフトをしてください。次の世界軸なら何もかもうまくいくかもしれない。そうは思わないのですか?」
「もう一度言う。シャフトシフトはしない」
もしかしたら、まだ可能性が残されているかもしれない。その考え自体が間違いだったのだ。すべてはこの行為、シャフトシフトが原因だったのだ。全てがうまくいく世界さえ、俺は自らその可能性を潰していた。この目の前にいる少女を運ぶことで。
あの黒フードが言っていたことも、今ならすべてわかる。メイドがこの世界においてどんな存在であるか理解した今ならば。
彼女が、この世界に居るはずのない存在だと知った今ならば。
メイドは明らかに狼狽していた。それもそのはずだ。なぜなら、この全ての展開の中でこれそが彼女にとって最悪の展開なのだから。俺がシャフトシフトをしない。この事実は、すなわち彼女の死を表す。
「ふざけないでください。それでは私が圭人様と新しい物語を紡げないではありませんか。そうしたら、私はもう、『彼ら』から忘れられてしまう。本当にいなかった存在となってしまう。そんなの嫌です。絶対に。ありえません。なんで、どうして? 私は、私は――」
「物語は、もう閉幕だ。俺とお前のそれは、どうやら世界が求めるものじゃないらしい」
「そんなの――」
「俺も、かなり早い時期から気づいてたんだよ。俺は誰に対して語り掛けてるのか、とか気にしている過程でな。この世界は、物語だ。いや、物語ですらまだない何かなのかもな」
「そん、なの――……」
この世界は物語である。いや、正確には違う。物語になる可能性を孕んだ世界軸の一つだ。もしかしたら、こんな世界もあるかもしれない、という仮定でできた世界。それがこの、俺の生きる世界。
もう、痛みは引いていた。頬に、一粒、二粒と雫が落ちてくるのを感じた。それが彼女の涙だということは、すぐに分かった。
なぁ、見ているか? あんただ。俺は最初からあんたに語ってる。あんたは、このメイドを少しでも好きになってくれただろうか。もしほんの少しだってそういう感情があったのなら、彼女を『悪役』として記憶しないでやってほしい。
「ふざけるな――ッ!」
メイド服の少女が振り下ろしたナイフは、どこにでもいる凡庸な少年の胸を突き刺し、そこから血飛沫を散らした。その一部は少女の頬を赤く染め、そのまた一部は美しい銀髪をあっけなく汚した。
「ふざけるなッ、ふざけるなッ、ふざけるなッ――!」
何度も何度も、何度でも、少女は少年を刺殺した。もはや肉の繊維が壊れ、くずくずになり、体液と臓器の区別がつかなくなるまで彼女は少年を突き刺した。刺した。刺し続けた。
「なんでっ、なんでよっ! ふざけるなッ!」
全身を血に染めた少女は、その血が自分の愛した人のものだと忘れていく。いったい自分が何をしていたのか、自分が何なのか、それを記憶から失っていくのにそう時間はかからない。ただ幸福なのは、かつて愛した少年と共に、世界の終末を迎えることができることくらい。
少年は、ほんの少し微笑んでいた。これから生まれていくのであろう幸せな物語と、今まで自分が紡いできた幸せな物語を想って。自分に仕えてくれたメイドと、好意を向けてくれたもう一人の少女、陰でずっと自分を見つめていた監視者、嘘だけで作られた最高の友人、そして、ひどく弱かった自分。それらすべての登場人物が、この悲劇に見える喜劇の序章を彩った。その事実は、果てしなく価値のあることの様で、自分がこの物語の中で生きることができてよかった、と感じた。
それは彼の本心だ。この次の世界から、世界はあるべき姿を取り戻す。メイドというキャラクターが存在しない世界。
人に馴染むことができない少年と少女が紡ぐ、どこにでもあるような物語。そんなものが恐らくそこにはあるのだろう。
「なぁメイド――」
少女は応じない。彼女は力尽き、再び少年の胸に抱かれていた。
「もしすべてが上手くいっていて、幸せに満ちた世界があったとしても――」
そんな理想的な、悲しみや痛みなど一切ない、創作物としての正当な責務を果たす素晴らしき世界。
もしそのような世界があったとしても。
「俺たちは、そこの住人じゃないな。悲劇の方がずっと似合ってる」
少年の語り掛けにも一切反応せず、メイドはその顔を彼の胸に押し付けていた。互いのぬくもりが、少しずつ奪われていく。それは終わりへのカウントダウンじみていて、だけれどそれは悲しいことではない。むしろ、喜ばしいことのはずだった。
口元は、ちゃんと緩んでくれていた。彼女に本当に伝えるべきはこんなことではない。本当ならば彼女を糾弾し、この悲劇の立役者をこの終わった世界へ閉じ込めたことを喜ぶべきなのだ。そうして、彼女を嘲弄してあっけなく死んでいく――それが少年の果たすべき役目だった。
だが、そんなことできるわけない。
俺は知っている。彼女がどれだけ凄惨な罪を犯したとしても、それはひとえに俺を想ってくれた上でのことだということを。
どうしようもない絶望を抱えて、押しつぶされて、ついに耐え切れなくなってしまったのだと。
今は語られていないはずのその物語は、俺の中に再び戻ってきていた。ここから気が遠くなるほど遠い世界軸。緻密に少しずつ形作られ、発展して、そして今はもう打ち棄てられた世界。その世界の住人は、もう全員が既に死んでいる。彼らの存在が語られ、人々の目に捉えられることはもう決してないのだ。それはすなわち、死。存在の全否定。
メイドはやはり、動かなかった。俺の語り掛けに応えることもない。血濡れたその姿は果てしないほどバイオレンスではあるが、そこには同時に哀愁のようなものも感じられた。
「なぁメイド――」
「――圭人様。お願いがあります」
言葉を遮って、彼女は口を開く。その顔は俺の胸に押し付けられたままで、これは少しくぐもっていた。
「この世界が『選ばれる』ことはきっとないでしょう」
「まぁそうだな」
「それは私の存在が誰からも記憶されないことを意味します。忘却は、身の亡びることのない私たちにとって唯一ともいえる死。それを私に与えたあなたは、何か償いをしないといけません」
「人の体を散々突き刺したやつが言うセリフじゃない」
その俺の言葉に、彼女は「うるさいです」と言って取り合おうとはしなかった。
「それで? 俺は何をすればいい」
「単純なことですよ。私が願うのはたった一つ」
そう言って、彼女は顔を上げると俺の瞳をまっすぐに見据えた。窓の外から差し込む月光がちょうど彼女を照らし、その銀髪がほのかに輝く。同時に零れ落ちた涙は、メイド服の血染みを少しだけ薄めた。
「――私を、いつまでも忘れないでください」
零れたその声ははっきりと俺のもとまで届き、心を揺さぶった。永遠だとか、いつまでもだとか、そんなものは往々にして存在しない。世界の全ては一秒ごとに劣化しているし、人の記憶なんてものは曖昧ですぐにかすり消える。
だが、だからこそ彼女はその言葉を使ったのだと思えた。
「もう死にかけている奴にそんなことを頼むのか?」
「それでいいんです。圭人様がいなくなれば、どうせこの世界も一緒に無くなりますから」
――それまでは、私を覚えていてください。
そう懇願して、泣きながら笑う少女がそこにいた。彼女はメイドでもアンドロイドでもない。そして、悪役でも脇役でも、サブヒロインなんかでもない。この世界においては、――この世界だけでは――彼女はれっきとした、主人公だった。
「またいつか、どこかで」
「はい。それじゃあ、また」
消滅。これ以降は筆記者がいないため、きっと記述はない。




