忘れられた傘
遠くから、鈴虫の音色が聞こえていた。なかなか馴染みのないいぐさの匂いや、部屋の片隅からこつこつと響く振り子時計の音。それらすべてが自分の知らないものなのに、どうしてか不快ではなかった。
床に座って壁に背を預ける俺は、持ってきていた本をゆっくりと読んでいた。
「おじゃましまーす」
入浴を大体の生徒が終え、消灯までの自由時間。きっとどこの部屋も様々な方法で青春を謳歌しているのであろう、そんな時間。
その中で恐らく唯一、ほとんど物音のしない寂しい部屋に、現れるはずのない三つの顔が現れた。
「……は? なんでお前ら……」
畳の上に布団がいくつも敷かれたこの、純和風の部屋。その入り口に現れたのは、夜神綾乃と矢代遥、加えてうちで働くメイドのアヤノだった。
「圭人様がお部屋に一人でいらっしゃるとお聞きしたもので」
「そう! それで、三人で遊びに行こ、ってなったの」
「私は断ったんだけどね……」
確かに、このの部屋には俺しかいなかった。加えてあと一時間はこの状態が続くだろうと思っていたのだが。残念ながら、その予想は外れた。どうして、こいつらがこの部屋に……。
矢代の服装は、上下セットのもこもことしたぱじゃまだった。確かに温かそうではあるが、それ何のコスプレ? という感想を抱いてしまう。だが、その油断した姿はひどく魅力的だ。きっと他の女子じゃそんな感想抱かないだろう。矢代だから、その寝間着は許される気がする。
その横の綾乃は、紺色を基調にした薄手のパジャマ。無地ではあるものの、襟元がきちんとしていたりボタンが一番上まで止められていたりと彼女らしさは随所に感じられる。
それで、うちのメイドはというと、例のパーカーを今日も持ってきていた。自分の選択をどうこう言うのは好かないが、この服を彼女に買ってやった奴は天才だ。
なかなかに女子のパジャマ姿など見る機会はない。それを無意識下で理解してか、俺は彼女たちの服装をまじまじと見つめてしまっていた。
「圭人様?」
「あぁ、いや、まぁとりあえず入れば?」
そうは言ったものの、女子を部屋に入れていいのか? というか、確か女子と男子のフロアは分けてあって、男子は女子のフロアに入るのを禁じる、なんてことを言われた気がするのだが。……あ、女子が男子のフロアに入ることに関しては何も言われてないな。
「で? 巷で話題の圭人は何してたの?」
「何って、本読んでた――話題?」
小テーブルを持ってきて部屋の真ん中へ置く。その途中でかけられた声に、俺は綾乃へ聞き返した。それに対して、遥が嬉しそうに答える。
「そうそう、圭人くん今、女子の間で話題だよ。覗き魔を先生に突き出して女子を救った、って」
……まじか。そういうことになっているのか。
思わず、口を開けたまま固まってしまった。その話がどういう経緯で広まったかは知らないが、そのソースには思い当たる節がある。というか、ついさっきまでそのことを考えていた。
覗きの画策をしていた俺のルームメイトたち。彼らに協力を頼まれた俺は、計画が実行される前に教師のもとまで行き、覗きをしている生徒がいると報告した。そしてすぐさま現場に向かった体育教師プラス強面の数学教師が、見事、覗き魔(主に三山)をひっとらえ、事件は終了、という話だ。
ちなみに彼らは今、教師の部屋で説教を食らったのち反省文を書かせられているはずだ。
「ただ圭人がヘタレだっただけじゃないの?」
「馬鹿言え、俺は覗かれそうになっている女子たちの心情を考えてだな……」
「「ダウトー」」
綾乃と矢代が声をそろえてそんなことを言った。ひどい、この人たち。こっちは事実上彼女たちの裸体を守ったのに……。いけない、思考のレベルがかなり下がっている。
そんな俺たちを、メイドは困ったような笑顔で見ていた。
「それで? どうしてわざわざそんな波風が立つようなことをしたの?」
「波風?」
「圭人なら、そんな他の男子から恨まれるようなことはしないでしょ」
そう言う綾乃は、少しだけ真面目な顔だった。それへ返答する矢代も、「確かに、圭人くんだったら知らん顔しそうだね」なんて言ってくれている。
「別に、ただの気まぐれだよ。あの三山にちょっと嫌な思いをしてもらうのも面白いな、って」
「ダウト」
二度目のそれは、綾乃だけの声だった。彼女はその後に何も続けず、ただ沈黙だけで「お前はそんなことを思っていない」とそう俺に語り掛けていた。確かに、その通りだ。
「――言えるわけねぇんだよな……」
言えるわけない。うちのメイドや、綾乃、矢代のあられもない姿を、あの男たちに見られたくなかった、なんて。ふとメイドと目が合う。
あぁそうだ。三山が、俺に「妹の裸を見てもいいか」なんて馬鹿なことを訊いてきたとき。はっきりと俺は嫌悪感を感じ、それを阻止しよう、そう思った。だから、俺は行動した。
「何を言えるわけないのかなー?」
矢代がにやにやと笑ってこっちを見ていた。隣の綾乃も、なぜか知らないが笑いを堪えず吹き出していた。一体何を想像しているというのか。まさか俺の考えはお見通しとでも言いたいのか。
だが確かに、この程度のこと彼女たちは見透かしてしまうのかもしれない。高校生徒はいえ、女とはそういうものだ。と、俺はそう思っている。
あぁ、どうぞ勝手に笑ってくれ……。そうやって諦める方向に俺は思考を決定して、すべてを受け流す覚悟を決める。
その時、隣でメイドが言葉を放った。
「私の裸を、圭人様は見られたくなかったのですよ」
一瞬、何と言ったのかわからなかった。飯を食い、風呂につかり、寝る前の緩んだ思考。その中では人の言葉なんて簡単にとり逃してしまう。
だがこれだけは、一切の疑いなく理解できた。
――あいつの声だ。
それは、明らかにメイドの声だった。だが、明らかにその声音はいつもと異なった。声の高さとか調子とか、そんな次元ではない。恐らく、もっと根本的なところでそれは別の色をしていた。
「メイドちゃん?」
矢代はメイドをそう呼ぶのか。ふと、そんなことが頭に浮かんだ。あれ、綾乃はメイドを、なんと呼ぶのだろうか?
「――? どうかなさいましたか?」
隣を見遣ると、メイドが不思議そうに目尻を下げていた。俺の視線に気づくと、こちらを振り向き、「何かあったのですか?」と目で尋ねてくる。どうしようもなくて俺が視線のやり場を求めると、その先で綾乃が俯き、その表情に影を落としていた。
これはどういう状況だ。今の一言はメイドの様子も見るに、あの別の人格、赤い目をしたメイドが言ったに違いない。ならばどうして、彼女はそのようなことを言ったのか。どのような思惟があって、一瞬だけメイドの意識を奪い返したのか。
あの別人格――赤目と呼ぶことにする――が今までに姿を現したのは俺が知る限りで言うと、黒フードが俺を襲ってきた病室と、天ぷらを食べ終わった後の俺の部屋だ。加えて、今回の三回目。おそらくだが、そこに決まった条件はないように思える。
では、赤目は何を目的に度々メイドの意識を奪い取るのか。
「はいっ、とりあえずこの話は終わり。後は各自圭人くんに感謝するとして、楽しいゲームでもしよう!」
ぱんっと一つ手を打って空気を変えたのは、やはりというべきか矢代遥だった。
少し困ったように笑うその顔は、しかしどこか演技じみている。
「ゲーム?」
「うん、ゲーム。というより、ちょっとした心理テストかな」
心理テスト、という言葉に綾乃が少し興味を示す。やはり女子はそういうのが好きなのだろうか。
対して俺は、あまりそういうものが得意ではない。選択肢を選ぶまではいいのだけれど、回答が出てしまった瞬間、それは俺じゃないとそう反射的に反発してしまう。きっと、性格がこの手のものにあっていないのだろう。
「どのようなテストですか?」
「簡単だよ。ただ、私の質問に答えてくれればいいから」
そう説明してから、矢代はテストを開始した。俺の趣向は置いておくとして、心理テストなんて修学旅行らしくていいな、なんて思う。
――これもまた、現実逃避だろうか。
「じゃあいくよ。あなたはあるお店に大切にしていた傘を置いたまま出てきてしまいました。ですが、家に着くと持っていたものと同じデザインの傘が玄関に立てかけてあります。さて、あなたは置いてきた傘を取りに戻りますか?」
そんな質問に答えたところで、どんな心理がわかるというのか。そうは思うが、これもゲームだ。少しは真剣に考えてみる。
傘の置忘れなんてよくあることだ。その証拠に人が多く集まる場所には大体、二、三本の傘が置きっぱなしにしてある。矢代の質問は、もし自分が傘を忘れたなら、取りに帰るか否か。加えて、手元には同じデザインのものが手に入っているという条件付き。
と、俺がしっかりと考えをまとめる前に、一人が質問へ返答した。
「私は絶対取りに戻る」
綾乃だった。彼女はどこか強い意志を持って、そう答えているようだった。
「自分が大切にしていたものだったら、どんなことがあっても失いたくない。誰でもそうでしょ?」
あぁ、俺も確かにそう思う。だが、全く同じものが手に入るとしても、それは揺らがないのだろうか。
自分がその立場になった場合を考える。この仮定において唯一の問題は、自分が傘を無くした事実を忘れられるか、ということだ。もしそれができるなら、同じものが手に入ったのだから一切のプラスマイナスは打ち消される。
「私は、戻らないかもしれません」
そう答えたのは、メイドだった。
「同じものが手に入ったのなら、それで私は満足してしまうかもしれません。それに、全く同じものが偶然手に入るなんてありえないはずです。もしかしたら、親切な誰かが先回りして家まで届けてくれたのかも」
家以外でここまで話すメイドは初めて見た。その語り口もどこか必死そうで、こちらに訴えかけてくる。
「そんなこと言ったら前提が崩れるだろ」
しかし、俺は一応主人としてそう指摘しておいた。
このクイズは、失った自分の傘と今手にある自分のものではない傘、そのどちらを選ぶのかというテストなはずだ。
その俺へ、矢代は目を向ける。
「へぇ、じゃあ圭人くんはどうするの? 君は、傘を取りに戻る?」
これは、ただのゲーム。そうとわかってはいたが、まっすぐにこちらを見つめる矢代の瞳はどこか大切な話をしているようだった。
まずもって、自分がどうするかなんて実際そういう場面に出くわさなければわかりっこない。
しかし、一つだけ気の利いた答えが頭に浮かんだ。
「簡単だ。たぶん、俺は傘を置き忘れたりなんてしない。だから俺は選ぶ必要なんてない」
「そんなわけないって。誰だってミスはするよ?」
「まぁ、普通はな。というか俺もミスばっかりで嫌になる。だけど、俺はきっと、間違えない」
自分が何を口走っているのかわからなかった。だが、話を聞く彼女たちの目に困惑の表情はない。
「……圭人、よくそんなこと言えるね」
その文面だけ見れば、綾乃が俺に呆れているようだろう。だが、彼女の感情を表す最も適切な言葉は、驚きであるように思える。
まぁそうだ。言った通り、俺は他人と比べても失敗が多い人間だろう。特に人間関係の構築は間違えすぎて、どれが答えかすらわからなくなってしまった。
だが本当に大切なことに関して言えば、俺は間違えない。もっと言えば、間違えたまま時間を進めるわけがない。
「まさか圭人くんがそんな真面目に答えるとは思ってなかったよ」
「この状況で一人逃げるわけにもいかないだろ」
というより、矢代は俺に何かを尋ねようとしているようだった。だから、俺はこうして答えたと言ってもいい。いやもしかしたら、彼女は俺たちに何か、意思の確認のようなものをしたのかもしれない。
「で? 答え合わせは」
「えっとね、答えはないよ。意味は自分で考えてください」
誤魔化すように笑う彼女に、三人とも困惑させられた。綾乃に至っては「なにそれ……」なんて呟いている。同感だ。
しかし内心では、答えが出なくてよかったとさえ思う。矢代が答えを提示したならば、きっとそれは本当の意味で真実なのだろうから。
「ただいま、圭人――ってえぇ!?」
俺の思考と部屋の微妙な空気を断ち切ったのは、騒がしい数名の男子だった。とても叱られた後とは思えないくらい騒がしかった彼らだが、部屋に入りこの状況を見た瞬間、一瞬で黙りこくる。というか目を丸くして思考停止していた。
「けい、と?」
三山の濁った目が俺を見据える。この状況はどういうことだ、説明しろ、羨ましい、とその目が語っている。口も雄弁な彼は、目もまた雄弁なようだった。
固まった釈放後の男たちと、見目麗しいパジャマ姿の女子。加えてその間にいる、よくわからないひょろりとした男が一名。残念ながら、この状況は修羅場とかそういうものに近いらしかった。
「えーと、とりあえずほら、お前ら帰ってくれ」
「うん、そうだね……おじゃましましたー」
「では圭人様、また明日」
「……おやすみ」
俺が男どもをずらして道を開けると、そこを女子三人がすーっと通って行った。そしてドアが開けられ、ばたんと閉まる。後に残るのは、再び静かになった和室。遠くからは笑い声など喧騒も聞こえるが、それもこの沈黙の前では無意味に近い。
ようやく、三山たちは意識を取り戻した。ぎぎぎ、という効果音が似合いそうな動きで彼らの首がこちらを向く。ホラーへの耐性は高いと自負する俺だが、この時の彼らの表情はきっと忘れられないだろう、というほど恐怖を感じた。
「どういうことだあああああ! けいとおおおおおお!!!」
結局、彼らは声がうるさいという理由でこの日二枚目の反省文を書くことになった。




