夜神綾乃
二年目となると、学校への通学路はもう完全に体に刻み込まれる。たとえ昨日の夕飯の光景を脳内で再生しながらだって気づけば学校についているし、むしろ俺は脊髄反射的に角を曲がり坂を上っているのかもしれない、なんて思えてくる。
朝の通学路はそう悪いものじゃない。ちょうどいい気温とたまに頬を撫でる風。大量の白に少しの水色を混ぜたような淡い色の空。それらすべてが胸がすくほど心地よく、自然と俺の足取りはスキップに……っとそれは気持ち悪いからやめておこう。
しかし、そんな良い気分も周りに同校の生徒が増えてくるとすべてが台無しになる。もしかしたら、この周りにいる人間たちも自分と同じようなことを感じているのだろうか。そんな風に考えてしまうと、唯一無二にも感じられた心地よさがありふれたつまらないもののように感じられてしまい、すべてが自然と霧散していく。
そんな、いつも通りの朝だった。
だが、教室に入るとそこはいつもとすこし雰囲気が異なった。どこか浮足立っている。
「かわいい女の子、って噂だぞ」
「それはやべぇ!」
クラスでもうるさく目立つ男子グループ、すなわち三山が属する集団あたりから、そんな声が聞こえた。それだけでは、何がこの空気感を構成しているのかはわからない。
まぁ、どうせ俺には関係ないことだ。自分の席に着いた俺は、そう割り切って机に突っ伏す。
そこに、急に近づいてきた一人がいた。
「転校生が来るらしいよ」
こちらを見ることもなく呟いたその言葉は、どうやら俺に向けられているらしい。
長いポニーテールを揺らして教室に入って来た少女、矢代遥は、片方の手を俺の机に乗せていた。
「転校生?」
「そう。両親の都合で、だって。よかったね、圭人くん」
「は?」
謎にこちらに笑いかける矢代。何のことだ、と尋ねようとした瞬間、教室に担任が入ってきた。それに伴い、蜘蛛の子を散らすように生徒たちは席に着く。
似合わない丸眼鏡をかけたその女教師は、もろもろの連絡をした後、もったいぶるように「今日はうれしいお知らせがあります」なんて言葉を口にした。
「どうぞ、入ってきて!」
「失礼します」
その声は、流れる小川のせせらぎのように。とても人間の声とは思えないくらい、透き通っていた。
――あれ、この声――?
そう脳内に浮かんだ瞬間、頭の中にスパークが走るような、そんな強い衝撃を俺は感じた。
流れる黒髪は夜空をそのまま落としたように美しく、華奢な伸びる手足は心が苦しくなるほど可憐で、加えて女性的な魅力までもその体躯には備わっていて。
凛として佇む、夜の花。まさに彼女を形容するには、その言葉がぴったりだった。
「――夜神綾乃です。よろしく」
ぼんやりと見開かれたその瞳。紫がかったその色の奥に、俺はあの日の少女の姿を見た。見間違えるわけなんてない。忘れるわけなんてない。
今までの人生で唯一、たった一度だけ心を通わせたその相手が、今この瞬間、俺の目の前に立っていた。
「――っ!」
気が付くと、俺は立ち上がっていた。別に、何かを言おうとしたわけではない。言うべきことなんて、ありもしない。
だが、その少女――綾乃の目線は、俺のそれと完全に重なった。世界の歩みが遅くなったように錯覚するほど、心拍が速くなっているのを俺は感じた。
「どうかしたの、浅田く――」
「けい、と……」
担任教師の言葉を遮って、少女の口元が動いていた。その言葉が表すのは、ほかの何でもない、俺の名前。
あれほど衆目に晒されるのを嫌っていた人間が、自分からクラスの注目を一身に集めていた。だが、今この時だけは、そんなことどうでもよかった。
もし、運命だとかそういう言葉があるとしたら、こういう時に使うんだろう。
そんな恥ずかしいセリフさえ、その時の俺はひどく美しいものに感じられてしまった。
その後、担任にたしなめられて席に座った俺は、周囲の怪訝な目線も構わず彼女を見つめていたらしい。そしてホームルームが終わった直後、クラスメイトに囲まれようとしていた綾乃を俺は連れ出した。
「すまん、突然こんなとこ連れてきて」
今更ながら、とは思いながら、俺は彼女にそう謝った。短い休み時間に屋上まで登る時間はない。校舎の端にある使われていない空き教室で、俺は彼女と正対していた。
「今更、じゃない? 手を引っ張る前に一言欲しかった」
「あぁ、いや、……ごめん」
走ってここまで来たというのにほとんど乱れていない制服を、彼女は気にして整えながら言った。
今頃クラスはちょっと騒ぎになっているかもしれない。だが、今の俺にとってそんなこと問題にもならない。
「それで? 女子を空き教室に連れ込んだりしてどういうつもり?」
やはり、こいつは変わっていない。どこかこちらを見下すような高圧的な態度と、攻撃的とさえ捉えられる細められた紫の瞳。それは、記憶の中のそれとほとんど同じだった。
「あー……俺もなんでこんなことしたかはわかんないんだけど……」
「なに、それ」
まさに変な奴な俺を、彼女は呆れたように笑った。これも、いつだったか同じような会話をした記憶がある。そんなことを思い出して、俺はなんともいえない感慨を覚えてしまった。
「とりあえず……あぁ、そうだな」
とにかく、こういうときには言わなければいけない言葉があった。それを俺は思い出して、彼女を正面に見据える。
「久しぶり、綾乃」
そんな真正面からのまっすぐな言葉。それがどうやら珍しかったのか、彼女は虚をつかれたようだった。だが、すぐにふいっ、と視線をそらして、こちらに返答する。
「うん、久しぶり。何も変わってないじゃん、圭人」
「そりゃこっちのセリフだ、って言いたいところだが……」
実際最初にはそう感じた。だが、こうして彼女を見つめると、やはり小学校のころからは大きく変わっている。
あのころも長かった黒髪だが、今はさらに伸びてなかなか見ないほどの長さになっている。手足もすらりと長く伸びているし、身長も変わった。
雰囲気は変わっていないが、顔だちの全体的な印象は大人びて見える。そしてもちろん、その体つきもあのころに比べると『女の子』らしいものになっていた。
「……何かいやらしいこと考えてない?」
「んなわけねぇだろ!」
こいつの鋭い勘は時を経ても衰えていなかった。
「じゃあ何考えてたの?」
「いや、お前もやっぱり変わったな、って」
「どのあたりが?」
その問いはあまりよくない。俺の視線は自然と、彼女の顔から下にスライドして――って。
「ヘンタイ」
「誤解だっ!」
こいつ、絶対に狙っていやがった……。
まんまとやられた俺が悔しがっていると、彼女は我慢ならない、というようにぷっ、と失笑した。腕を抱え、体勢を前にやって笑顔を隠す仕草はやはり変わっていない。
「やっぱり、圭人が一番からかって楽しい」
「んなことで一番もらっても全然うれしくねぇんだけど……」
「そう? 結構名誉なことだと思うけど」
「何様だよ、お前……」
まったく、あほな自信過剰はこの年になってもなくなっていなかった。まぁ、それに呆れるのがこいつとの会話で楽しい要素の一つだったりしないこともないのだが。
「それで? どうしてこんなとこに」
「別に、ただの偶然よ。親の仕事の都合で、急遽引っ越すことになったの。別に前の学校にこだわる理由もなかったし、この学校に転校してきた、ってわけ」
「なるほどな」
それで俺と同じクラスになるなんて、どのくらいの確率だろうか。というか、本当にそんなことがあり得るのだろうか。
どうやらこの世界は、俺が思っているよりずっと突拍子もないらしい。俺はここ最近で、そう気づき始めていた。
「それで? 調子はどうだ?」
「またアバウトな問いね」
「悪いな。ここのところ会話しなさすぎて質問の仕方も下手になったんだよ」
お前がいなくなったから、と言外に加えたその言葉に、彼女は気づいてくれただろうか。だがたとえ気づいたとしても、彼女がまともに取り合うことはないだろう。なぜなら、こいつはそんな人間だったはずだから。
「下手になった? もともと下手だったと思うけど」
「そうですか……」
そうですね。もともとコミュ力不足のバカ野郎でしたよね。ハイ。
そうして俺が心を若干痛めていると、彼女はほんの少し表情を曇らせて先ほどの質問に答えた。
「まぁ、そうね……まぁまぁ、だと思う」
「まぁまぁ、か」
まぁまぁ。
そんな言葉を、小学校のころの彼女は使わなかった。中途半端を許さず、自分が絶対的な正義だと疑わない。それが夜神綾乃だったのだ。……まぁ、お互いいろいろあったのだろう。
「……そうだな、俺もそんなとこだ」
俺がわざとらしく苦笑しながら言うと、彼女はそれに苦虫を噛み潰したような微笑を零した。
「……なんつーか……また会えてよかった」
そこに他意など一切存在しない。いやむしろ、俺の意識すら存在しないまま、この口はそんなことを口走っていた。
「え?」
「や、いや、そのなんというか、……忘れろ」
「忘れるわけないでしょう?」
彼女の目は、まっすぐにこちらを見つめていた。芯の通った、強い女の子の目。だけど、それはいつもどこか寂し気で、今にも泣きそうとさえ思えてしまう。
だから、俺はその目を見つめ返してから、すっと右手を差し出す。
「まぁ、それならそれでいい。とにかく、また、よろしく」
俺のその言葉に、彼女はうつむきがちに目を伏せて、
「私、左利きなんだけど」
「あぁ、そうかよ……」
そんなことを言いやがった。しょうがないので、俺はおとなしく逆の手を出して、綾乃と手を握る。
だが、なんだろうか。違和感、とまでは言わない。何かがおかしい、なんて言えるほどのものではないが、そこに立つ夜神綾乃の姿は、妙に霞がかっている気がした。




