何気ない日常
あの日。俺があの世界軸から抜け出した日から、二週間近く経った。すべては元通りになり、何も俺の心をざわつかせるものはない。
ここは、鉄骨落下事件に俺が巻き込まれなかった世界軸。
俺の体には怪我一つなく、俺の知らないどこかの少女が命を落とした、そんな世界。
ここにおける三山はあるべき通り、俺に関わることもなく毎日友人と放課後には遊び歩いているようだった。
矢代は一度、「しょうがないよ。誰でも自分の命が大事なんだから」と言ったきり、こちらに接触はしてこない。たまに教室で目が合っても、そんなことはなかったと言わんばかりに彼女はこちらを無視した。
そして、メイドは。
「おかえりなさいませ。今日はお迎えに上がれず申し訳ありません」
「いや、いいよ。俺もそっちが楽だし」
「そう言われると少し寂しいですが……。さぁ、着替えてきてください。もう夕食の準備はできています」
一切の不浄を排したような屈託のない笑顔で、俺に接してくれていた。
言われた通り制服を脱いで部屋着に着替えた俺は、脱衣所から居間へ。今日のメニューは天ぷらだった。
「具材を言ってくだされば、すぐに揚げますので」
ローテーブルの上には電子コンロが置いてあり、その上には油の入った鍋が。そして側には衣のつけられた野菜、鶏肉が並んでいた。
「今から揚げるのか?」
「天ぷらは揚げたてが一番です。アツアツの天ぷらをつゆにくぐらせて食べるのは、日本人にとって最大の贅沢だと私は思います」
なんともまぁ、幸せな顔で話すのだろう。彼女はテーブルに向かって正座し、俺が具材を選ぶのを今か今かと待っているようだ。
「じゃあ、かぼちゃで」
「さすが圭人様っ、わかってらっしゃいますね!」
かぼちゃ、こいつも好きなんだな。どうやら俺の選択は彼女のお気に召したようだ。メイドは嬉々としてカボチャをつまむと、そっと油の中へ送り出した。
楽し気なメイドの様子に安らぎを感じている自分に少し驚きながら、メイドに続いて、俺もカボチャ一切れを油へ投入する。
「え? どうされたんですか?」
不思議そうに小首をかしげるメイド。待っていた反応を見れたことに気味良く感じながら、俺はその問いに答えた。
「お前は俺の分を揚げてくれるんだろ? なら、俺がお前のを揚げるよ」
「そんな……必要ありませんよ。わたしは圭人様召しあがった後に……」
「そんなの面倒だろ。一緒に食おうぜ」
そう言ってから、俺は天つゆを自分のともう一つのさらに注いだ。どこか懐かしい、出汁の匂いがかすかに鼻腔をくすぐる。
秋も段々と深まり、夜は少しばかり寒ささえ感じるようになった。例年のごとく下手くそな鈴虫の鳴き声も日をまたぐごとにましになってきている。日の入りも早くなり、俺が家に帰り飯を食う頃には外はもう真っ暗だった。
確実に濃くなる秋の色とともに、今日もまた穏やかな時間は過ぎていった。そこに振り返る必要はなく、ただそこにある安らぎを享受していればいい。それはとても心地が良く、また同時に楽なことだった。
しかしながら、メイド服をまとって天ぷらを揚げる少女の姿は、なかなかに不自然で笑える。
その後は、お互いにお互いの天ぷらを揚げて、美味しく頂いて、また揚げて、という時間がしばし続いた。
「ふぅ……腹いっぱいだ」
「お粗末様でした。はい、お茶をどうぞ」
礼を言った後、俺は出してくれた緑茶に口をつける。正面でメイドも、正座をしてお茶を楽しんでいた。ふと、この前の病室で見た彼女の様子が頭に浮かぶ。
あのときのメイドは、目の前の彼女とは到底同一人物とは思えなかった。ここまで穏やかな表情をする人間が、あそこまで豹変するなんて信じられない。
「……あの時のお前なら、教えてくれるんだろうか」
「――どんなことをですか?」
思わず言ってしまった独り言はしっかりメイドに聞こえてしまっていたらしい。どう言い訳しようかと考えながら顔を上げた俺は、彼女の瞳の色に絶句した。いつだったか見た赤色が、そこにあった。
「私に答えられることでしたら、何なりと。だって、大好きな圭人様からの質問ですから」
「……本当に?」
「えぇ、本当に」
そう言って笑う彼女の顔は果てしなく幸せそうで、恍惚、という言葉が自然と俺の頭に浮かんできた。
「じゃあ、訊く。お前は、いわゆる二重人格、ってやつなのか?」
「えぇ、その通りです。いえ、厳密にいえば違いますね。三重人格、四重人格……あるいは、もっと。ただ、私が多重人格者であることは確かです」
嘘だろ、つまりこの俺が知っている二つの人格以外にも、大量に人格がある、ということなのか。一つ目の質問でかなりの衝撃を受けてしまったが、せっかくの機会に質問を一つで終わらせるわけにはいかない。
「じゃあ、もう一つ大事なことを聞かせてくれ」
これは、本当に最初から。彼女と出会ったその日に持った疑問だ。
「お前は本当に…………機械なのか?」
その質問をした瞬間、彼女の眼がわからないぐらいにすっと細まる。それはどこか、喜んでいるようにも見えた。
「そうですね……それは、良い質問ですね」
彼女はそう言いながら、テーブルに身を乗り出す。四つん這いになった彼女の首元は大きく開き、普段は見えない胸元がちらついていた。
「おい、どうした……」
細く形のいい指先が、俺の首元に触れた。俺が後ずさるのに伴って、彼女もまたこちらに迫ってくる。
「圭人様……私が機械かどうか、確かめてみますか?」
絡みつくような妖艶さが、そこにはあった。いくら目を背けようとしても、彼女から視線を逸らすことはできない。大きな瞳と俺の目が重なって、その距離は次第に縮まっていく。
「確かめる、って――っ!」
やがて彼女は、俺へ飛び込むように全体重を預けた。それに負けて、俺の体は床に押し倒される。
「……わかりますよね?」
「何がだよ」
自分の鼓動が脳に響いているようだった。彼女と触れ、感じるその柔らかさ、温かさ、小ささ。それらすべてが俺の知らないことで、心が奪われるほど魅力的に感じられてしまう。
メイドは、その顔を俺の胸に埋めた。
「あぁ……こんなにも圭人様を近くに感じられるなんて」
「……なぁ、質問に答えろ。おい」
その後もしばらく吐息を荒くしたままそこにいた彼女だが、やがて落ち着くと冷静な様子でその口を開く。
「わかっていて、訊いているんでしょう?」
「なにが」
「私が、アンドロイドなんかじゃないって」
そう言うと、彼女は顔を上げてほほ笑んだ。
「この世界に、まだそんなもの存在しませんよ」
アンドロイドは、存在しない。あぁ、そうだ。そんなこと、あたりまえだ。いったい何を血迷っていたのだろうか。
突然に断言されると、どうにもそんな気分になってしまい、全身から力が抜けた。
「ご存知とは思いますが、私は別の世界軸の圭人様から、この世界軸へ送っていただいた存在です。アンドロイド、というのは、あなたにここにおいてもらうための口実、とでも言いましょうか」
「まぁ、変な女が突然来るよりかは、自称アンドロイドのほうが家に置きやすくはある……か?」
なんだか突拍子もないことを言っている気がするが、気にしてはいられない。とにかく今確認すべきは、彼女がアンドロイドではない、ということと、彼女と俺の体制だ。
「それで、だが……重いんだけど」
「まったく、女の子にそんなこと言っちゃいけませんよ?」
あざとく頬を膨らませるその表情はとても愛らしい。だが、それにはどこか計算された雰囲気があり、いつもの彼女とはやはり完全に違う。
「はい、私は軽いですか? それとも、やっぱり重いですか?」
「メイドは、めちゃくちゃ軽いです。もはや水素より軽いです」
「はい、よくできました」
これほど嬉しそうに笑える人間は、きっとなかなかいない。そう思えるほど、彼女の笑顔は魅力的だった。しかし、そこに一瞬で影がかかり、メイドは「でも……」と前おいた。
「圭人様、わたしはアヤノという名前があります。どうしてそう呼んでくださらないのですか?」
突然に、彼女はそう言ってこちらをまっすぐに見据えた。
「また、会いましょう」
ぱちり、と目を閉じる。そして再びその瞼が開かれたとき、その奥にあった瞳は綺麗な水色だった。
「――圭人、さま?」
驚く、というより戸惑うように彼女は俺の名を呼んだ。そうして、あたりを見回し状況を確認する。結果、今俺たちがどういう状況なのかに気づいたようだ。
「――っ! こ、これは違くて! わっ、わたしはそんなつもりないんですっ! きっとなにかの間違い、です……」
今までで一番素早い動きでメイドは飛びのくと、俯き恥ずかしそうにそう弁解した。
「いや、大丈夫、わかってるから」
「圭人様……」
なんだか、その姿が無性にかわいくて、可笑しくて、こんなことを言ってしまう。
「お前が俺にそういうことを求めてる、ってことぐらいわかってるから」
「圭人様っ!?」
そうして、また何気ない一日が幕を下ろしていった。