13話:相席安定所
「……主任、呼ばれています」
僕は倉庫の薄暗い片隅で、古い求神ファイルを整理していた手をピタリと止めた。
背後から聞こえてきたのは、窓口担当であるミカちゃんの、どこかおびえたような不吉な声色だった。
「ありがとう」
まずは、何でもお礼を言うのが大事だ。そして、ここからが本題だ。
「ところで、誰が呼んでいるの? 課長かな? 要件は聞いているかな?」
またしてもアテナ課長に、新たなトラブルの渦中に放り込まれることだけは絶対に回避したい。
大した話ではないことを切実に祈りながら、僕はミカちゃんから少しでも情報収集をすることにした。
しかし、ミカちゃんは僕の問いかけを華麗にスルーし、ブルブルと首を振った。
「……呼ばれているんですぅ! いいから、早く窓口に来てください!」
ミカちゃんはそう言うやいなや、僕の返事を待つこともせず、細い両腕を僕の腕に絡みつかせた。
そして、有無を言わせず連行し始めたのだ。
「ちょっ! イタッ! ミカちゃん! 一体誰が呼んでいるのさ!」
強引な実力行使に、僕はバランスを崩しながらも声を上げた。
だが、ミカちゃんは冷や汗を流しながら「大丈夫ですから!」と繰り返すばかりで、それ以上のヒントは出てこない。
そのままフロアへと引きずり出され、ミカちゃんの窓口まで連行された。
そこにいたのは――。
黒髪に髭を蓄え、威厳を纏っていながらも、なぜか背中が丸まっており、どこかくたびれ果てた中年の雰囲気を醸し出す、一柱の神様だった。
纏っている神気は底知れず重いが、その表情には尋常ではない疲労の色が張り付いている。
僕は事情が全く分からないまま、目の前にいるお客様――それも尋常ではない神様に、営業スマイルで深々と頭を下げた。
「はじめまして。職業安定所の牧村と申します。本日はどういったご用件でしょうか?」
僕をじっと、疑念の混じった目で見つめ続けるその男性は、絞り出すようなかすれた声で、重々しく返事をしてくれた。
「僕はハデス。アテナの紹介で君を飲みに誘いにきた」
一瞬、自分の耳を疑った。
頭の中ではハデス様の言葉がリフレインしているが、思考回路は完全にショートしている。
分かるのは、ミカちゃんの態度からしても絶対に逆らえないお方だということ。
そして、天界・海・冥界の内、死者たちが眠る世界――「冥界」を統べる、偉大な神様だ、ということだけだった。
これはいけない。脳内の警報ベルがけたたましく鳴り響く。
「えっと……職業安定所に、求職や雇用に関する御用はございませんか?」
すがるような思いで問い質すと、ハデス様は微動だにせず、ただ一言だけ告げた。
「ないよ」
全くもって意味が分からない。
職業安定所とは、世界を失った神様が職を探すために来るところであって、飲みに誘う場所ではない。
出会い系だが、対象は職場と人だ。
というか、アテナ課長は何をしてくれてんだ! あの親ばか女神め、勝手に僕を生贄に差し出しやがって!
心の中で激しく毒づきながらも、ただの人間である僕には、この状況を拒否する選択肢など最初から一粒たりとも存在しなかった。
できることといえば、あらかじめ最悪の事態を想定し、事前に対策を講じて被害を極限まで少なくすることだけだ。
「わっ……分かりました。それでは、本日の十八時に、この近くの噴水広場で待ち合わせてもよろしいでしょうか? そこからなら、お酒が呑めるお店も近いですし。ですが、もしよろしければ教えてください。どうして私などを誘われたのでしょうか!?」
僕は冷や汗を拭うのも忘れ、恐怖と好奇心が入り混じった声で尋ねた。
ハデス様は濁った目をゆっくりと瞬かせ、静かに答えた。
「話を聞かない神が多い中、黙って話を最後まで聞いて共感してくれる……愚痴を言うなら持ってこいの珍しい生き物だと聞いたからだよ……。私はもう、限界なんだ」
その言葉を発したハデス様の足元から、底知れぬ闇がゆらゆらと立ち上るのが見えた。
いや、それだけではない。ハデス様の背後にある空間そのものが、ぐにゃりと歪んでいる。
あんなものに、一介の人間である僕が触れたら間違いなくただでは済まない。本能が危機を告げていた。
「かしこまりました……それでは十八時に、噴水広場にてお待ちしております」
僕が絞り出すようにそう告げると、ハデス様は「うむ」と短く頷き、ようやくその重い腰を上げて帰っていってくれた。
覆っていた重圧がスッと消え去り、僕はその場で盛大に膝をつきそうになる。
「ミカちゃん……今日は一緒に飲み会だね!」
「何を言っているんですか主任! 私は絶対に無理ですぅ!!」
一人だけ逃げようとするミカちゃんの腕を掴んで一緒に連れ込もうとしたが、すげなく断られてしまった。
「分かった。でも、何か事情を知らない? 何でもいいから情報が欲しくて!」
「知りませんよ! 冥界の管理人ってくらいで、私も会ったことは数回しかありませんし!」
「っく、アテナ課長に直接聞いてくる」
しぶしぶと、僕は課長席へと向かい、彼女に詰め寄った。
「課長、一体どういうことですか。ハデス様が窓口にいらっしゃって、僕を飲みに誘ってきたんですが……」
すると、アテナ課長はピンと人差し指を立て、悪びれもせずに「あー、真に受けちゃったんだ」とあっけらかんと言い放った。
見事なまでのマイペースさに、奥歯がミシミシと音を立てる。怒りをぐっと飲み込み、僕は根気強く事情を聴き出すことにした。
「真に受けたんだ、じゃないですよ。一体何を吹き込んだんですか」
「うーん、だってねぇ。ハデス様の奥様である、ペルセポネ様から相談を受けたの。旦那が限界そうだから愚痴を聞いてやってくれって」
たしか神話だと、ハデス様は大地の女神デメテル様の娘であるペルセポネ様に一目惚れして、力づくで攫って結婚した筈だ。
その後は一度たりとも浮気をしないで一途に愛し続けているという、神様にしては稀有な愛妻家だったと記憶している。
「だから、『誰かの話をじっくり聞いて、元気づけてくれる男がいる』って、思わず言っちゃったのよねぇ」
アテナ課長は清々しいほどの笑顔でそう言い切った。
この上司の下で働いていると、自分の寿命が何年縮まるか分かったものではない。
そうだった。アテナ課長も神様だった。
◇
そして、時は無情にも過ぎ去り、指定された約束の時刻の十分前となり、僕は約束の場所である噴水広場へと急いで向かった。
頭上には相変わらず無機質な青空が広がり、広場の中央では冷たい水を噴き上げる巨大な石造りの噴水がそびえ立っている。
周囲のベンチに目をやると、ポツンと座っている一人の男の姿が目に入った。
居た――ハデス様だ。
この人は暇なのか? とふと思ったが、事前に調べた情報によると冥界の運営は年中無休で激務を極めるはずだ。最上位の管理者であるハデス様がこのように抜けていて、現場が回っているのか余計な心配をしてしまう。
「ハデス様、お待たせいたしました」
僕は営業スマイルを貼り付け、ペコリと頭を下げながら近づいた。
ハデス様は目をゆっくりと上げ、僕の姿を確認すると、かすかに息を吐いた。
そして、あらかじめ目星をつけていた、この街の片隅にあるいつもの静かな居酒屋へと彼を導く。
暖簾をくぐり、薄暗い店内の奥まったテーブル席に腰を下ろす。
今日の僕は全肯定マシーンになるのがお仕事だ。
心なしか緊張している店員が注文を取りに来たため、僕は迷わずエールを二人分注文した。すぐに運ばれてきたグラスには黄金色の泡がこんもりと盛られ、シュワシュワと炭酸の弾ける静かな音が店内に響く。
僕は自ら話し始めるまで待つ姿勢を貫く。
二人とも料理を口に運んでエールを飲むだけの不思議な空間を、十五分ほど味わうことになった。
言葉を交わすこともなく、ただ目の前にある料理と冷えたエールを無言で口に運ぶ。
緊張で味がしない。
やがて、息を深く吐き出したハデス様が、ぽつりぽつりと語り出した。
「僕はね……長男なのに一番面倒なところの管理をしているんだ。……知っているかい? 『三十年に一度』しか休めないのだよ」
いきなり重い話だと思いながらも、僕はグラスを置いて真剣に頷いた。
「確かに、ゼウス様やポセイドン様は人間界に顔を出す逸話をよく耳にしますが、ハデス様は冥界を堅実に治めている印象がありますね」
「そうだろ? 僕にしか対応できない案件がいくつもあるから、軽い気持ちで外出もできないんだ。例えば、無断侵入してくる神や人……冥界は死者以外は立ち入り禁止なのに!」
ハデス様はフォークを握りしめた。怒りのせいか、その手が小刻みに震えている。
「ある時なんて、ヘラクレスがやってきて『試練に必要だからケルベロスを貸してくれ』と言ってきたんだ。ケルベロスは死者を逃がさないための最重要セキュリティなのにだぞ!」
僕はその神話を思い出しながら、呆れたように眉をひそめた。
「信じられませんね。冥界の管理に支障が出ないよう代替案を提示することもなく、自分の都合だけで貸せと言うなんて。恐喝ではありませんか!」
「そうだろう! だから、無理難題を突きつけて追い返してやろうと思って、『素手でケルベロスに勝てたらな』と言ってやったんだ!」
ハデス様は机を叩いた。
「それなのに、あの脳筋野郎、本当に勝ちやがった! おかげでケルベロスが戻ってくるまで、僕が冥界の門の前に机を移動させて、書類仕事と迷い込んだ生者の追い返しを担当する羽目になったんだよ!」
続けて、こう吐き捨てる。
「オルフェウスに音楽の礼として、嫁を外に出す許可も与えた時もそうだ! あいつがルールを破り、後ろを振り返ったから外に出られなかったのに、僕が冷たい神で意地悪だと伝わってしまった……僕は約束を守っただけなのに!」
あの有名な話かと神話の内容を思い出した。
確かにハデス様側に悪意や不誠実なところはなかったはずだ。
「その話は私の故郷――人間界にも伝わっております。確かに生者が冥界にやってきて、ハデス様にあれこれ要求する逸話が多いですよね……それほど真摯にご対応されたのに、悪く言われるのは理不尽だと私も思います」
うんうん、と頷きながらエールのおかわりをそっと差し出す。
「そもそも僕は『死そのもの』を司る神ではないんだよ……冥界は管理しているだけで、権能は鉱物資源や富を与える神様なのに、全然そっちは知られていない」
次から次へと溢れ出る、世界を統べる神とは思えないほどの愚痴。
僕は共感し、時に驚き、一緒になって頷いた。
そして、ハデス様の話が途切れるたび、空になったグラスにおかわりを勧めた。
鍋から噴き零れた愚痴を粗方吸い上げた頃、ハデス様は連日の激務とアルコールのせいで体力の限界を迎えたようだった。
「……ハデス様。差し支えなければ教えてください。奥様には愚痴を言わないのでしょうか?」
チラリと僕を横眼で見たハデス様は少し悲し気に答えた。
「彼女は仕事ができる旦那様を好いていると言っていたからな。それに僕は家庭に仕事を持ち込まないタイプだ」
話を聞く限り、ハデス様は奥様に心配をかけまいとして、家庭に仕事を持ち込まないようにしているのだろう。
「ハデス様が理想の旦那になろうと日々奮闘されているのだと、お話からよく伝わりました。……ですが、奥様はハデス様を心配されているとアテナ課長から聞きました」
ハデス様が僕を見つめる目は、何が言いたいのかはっきり言えと言っているようだった。
「仕事ができる旦那様でいたいというお気持ちは、ご立派だと思います。でも、奥様が本当に望んでいるのは、弱音ひとつ吐かない完璧な旦那様なのでしょうか?」
ハデス様は、黙ったまま僕を見つめた。
「奥様が何を望んでいるのかは、僕にも分かりません。だからこそ、一人で答えを決めずに、話してみてはいかがでしょうか。弱音を吐くことと、奥様を大切にすることは、必ずしも相反するものではないと思います」
その言葉に「うーん」と悩みだしたハデス様だが、ついに限界を迎えたらしく、そのままテーブルに突っ伏し、寝入ってしまった。
「……すぅ……すぅ……」
規則正しい寝息が聞こえてくる。
全肯定をする接待のお仕事はこれにて終了だ。
最後に僕が言ったセリフを覚えているのかは分からないが、少しでもハデス様の奥様の心配が解消されればよいなと心から思った。
今度、どうなったかアテナ課長に聞いてみよう。
僕はすっかり温くなったエールを一息で飲み干した。
その時、厨房の暖簾をくぐって店員が近づいてきた。
「お客さん、そろそろお時間です。当店はまもなく閉店ですのでお会計をお願いしますね。あ、それと、そちらの泥酔されたお客様、どうやって起こすんですか?」
――静寂の中、冥界の王をどうやって自力で連れ帰れというのかという絶望的な悲壮感が、僕の胸を締め付けるのだった。
お読みいただきましてありがとうございます。
本作品の連載がストップしてしまい申し訳ありません。
現在は別作品の『魔法少女が表なら、忍びは裏。——国に見捨てられた姉妹は、偽りの聖女を影から狩る』が完結間近なこともあり、そちらに集中させて頂いております。
そちらが完結後には、また連載を続けたいと思います。




